五 「何か文句でもあるのか」
藤波愛真の中学生最後の夏休みが終わった。二学期になると、急激に教室の雰囲気が変わった。中学生たちが、進路と言う初めての人生の岐路に立たされていることを実感したのだった。
クラスメイトに、小柄でしかも、不釣り合いに頭が大きい男子がいる。非力で、成績も悪い。いつもヘラヘラとしていて、うすら笑いの表情をしていた。自然と、こういう生徒はイジメの対象となってきた。小学生時代から、虐待される人生と決められているのは、まったくもって残酷なことだった。
対照的に、暴力的な男子がいる。硬いカールがかった短髪は、天然のパンチパーマだ。眉を剃ってしまったように薄いので、笑うとまるで恐喝しているような表情になる。
藤井は、佐田を小学生の頃から虐めていた。しかし、両人とも虐めている・虐められているという感覚がない。これが二人の普通の接し方だと思っていたからだ。
意味も無く殴ったり、所有物を隠したり、食べている最中の給食にゴミを入れたりとあらゆることをしていた。
佐田は、ヘラヘラ笑っているだけだ。絶対に怒らないし、泣きもしない。それが、気に食わない。嫌だったら、怒ればいいし、泣けばいい。そうすれば、いつでもこんなことはやめてやる。そう思いながら、藤井は虐待を続けていたのだった。
この日の給食は、シチューだ。四条畷市立の小中学校の給食は、学校給食センターで作られ、クラス毎の食缶に詰められて配送されてくる。給食当番が配膳室に、それを取りに行って、各自で配る形態である。
藤井は手に小さな丸い物を持っていた。黒く、直径五㎜ほどの大きさだ。眉がない面の薄い唇が、不気味に歪んでいる。
「佐田」
食事中の佐田を、松井が呼んでいる。体躯の良い、顔立ちの整った容貌だ。その眼が、藤井に合図を送っていた。
相変わらずヘラヘラした顔で、すり寄って行く佐田は、まるで御用聞きのようである。
「何でもない。近寄るな」
理不尽なことを言われても、まだヘラヘラしている。通常ならば、用もないのに呼ぶなと、腹を立てるべきである。
藤井が合図を返した。この二人は、何かを企んでいるのは明白である。二人並んで席に着きながら、自分たちの食事を始めている。しかし、二人の眼はある一点に注目していた。
「ほれほれ、早く食え」
佐田のシチューを凝視したまま、藤井が小声で急き立てている。
スプーンに手をやって、佐田がシチューをすくった。
「よし、そのまま食え」
今度は松井が、小声で言う。
「食ったか?」
藤井が首を傾げる。
そうこうしている間に、佐田がシチューを平らげてしまった。
「クックックッ・・・」
「はっはっはっはっ・・・」
腹を抱えて、二人が笑いだした。
「食いやがった」
「全部食っちまいやがった」
何がそんなに可笑しいのかは、周りにいる生徒たちには分らない。どの道、またこの悪たれ二人組が、悪さを企んでいるのだろうとしか思わず、全員が無視をしていた。
広田杏香が、ずっとこの悪たれ二人組を見ていた。佐田の後ろの席にいるので、いやでも二人の仕出かしている行動が、見えてしまっていたのである。
松井が佐田を呼んだ隙に、藤井が指に何かを摘まんで来て、佐田が食べていたシチューの中に入れた。そして、スプーン使って念入りにかき回したのだった。
黒くて丸いもの。杏香は、それを見たことがあった。ダンゴムシだ。気分が悪くなった。人に虫を食べさせる二人が、人間のすることだと思えなかった。
いつまでも笑っている二人を、杏香は睨みつけている。呼吸をする度に、あの喘息の音が漏れていた。
「ちっ!!」
藤井が舌打ちをした。犯行を見られていたことなんて、気にしていない。だが、こちらを睨みつけていることが気に障った。
食事を終えて満足している佐田を蹴り飛ばして、藤井は杏香の前に仁王立ちした。
「何か文句でもあるのか」
藤井が、只でさえ怖い顔を怒らせて怒鳴った。
教室中が、一瞬にして静まり返った。
「何とか言ってみろ、こいつ」
藤井が、杏香の胸元を掴み掛ろうとした。
「おっと。危ない、危ない。危うく、汚いものを触るところだったぜ」
藤井は、臭い臭いと鼻をつまんで、杏香の目の前で、掌をひらひらと振った。
「何でこんな汚いものが、教室にあるのかねぇ」
ひらひら、ひらひらと、掌を振り続ける。その背後には、柳原結衣と和塚千春が、手を握り合って震えていた。
「ふん。どうせお前らは、飼い主がいないと何も出来ないクズだ。あー、臭いね」
ひらひら、ひらひら。
飼い主とは、藤波愛真のことを差して、藤井は言っている。四人はいつも仲良くしているようだが、藤井はそうではないとみている。支配服従関係が愛真と三人には、存在している筈だと感じていた。
ひらひら、ひらひら。
いつまで経っても止める気配がない。遂に、鼻先で振り続けられる掌に堪りかねて、杏香はそれを払いのけた。
「あっ、お前。汚ね」
藤井は手を引っ込めて、顔を真っ赤に変えた。激怒しているのだ。
ドンッ・・・
机を蹴り上げて、藤井は杏香を机ごと踏み付けた。食べ掛けの給食の食器が、杏香の髪から肩に降りかかった。
「松井。こいつ、俺に触りやがった」
藤井は体重を掛けて、机をぐいぐい踏み締めている。椅子に座ったままの杏香は、挟まれた状態になって、逃げることが出来なくなっていた。
「松井ぃ。カッターナイフ持って来い。こいつ、殺してやる」
逆上すると、見境がなくなっている。藤井の眼が血走ってした。
「松井。早くしろ」
しかし、松井は無理だと手を挙げている。松井は藤井ほど、馬鹿ではなかったのだ。最低限の理性は持ち合わせていた。
杏香が、カッターナイフと聞いて、恐怖しないわけがない。喉の軌道が塞がり、呼吸困難を引き起こしていた。不気味な声を立てているが、ほとんど空気を吸えていなかった。
この頃には、教室内の生徒たちが騒ぎ回っていた。廊下に飛び出して、人殺しと叫ぶ者もいた。
愛真が教室に戻ったのは、まさにその時だった。
杏香が泡を吹いて、意識を失い掛けていた。
「藤井くん。止めなさい」
言うが早いか、愛真は藤井に横から体当たりをして、突き飛ばしていた。
「何てことをしているのよ」
杏香の名前を呼びながら、体を揺すると、何とか息を吹き返した。しかし、呼吸をするのが辛そうに、まだ喘息の音を鳴らしたままだった。
「誰か、先生を呼んで来て」
藤井は、教卓を派手に蹴って、教室を出て行った。脅えた目をする生徒たちが、廊下で藤井を見送った。
騒動は、これで終わった・・・・筈がない。
「救急車を呼びますか」と、教室の混乱状態を見てきた教頭が言った。だがそれは、同時に、警察にも連絡が行くことを指している。傷害事件になってしまうのだ。藤井の人生が、これで大きく変わってしまうものになるのである。
校長が、それだけは食い止めねばと判断するのは、決して間違いとは言えない。人ひとりの人生だ。これだけで潰してしまって良いものかどうかと、難しい判断だった。
「女子生徒の具合は?」
「もう、落ち着いています。保健室で安静にしている最中です。今、御両親には連絡を入れています」
校長室で、校長と教頭の前に、藤井を立たせて、その背後に教諭たちが並んでいた。この事件の処分をどうするべきなのか。その中に愛真たち仲良し三人も当事者として、立ち合っていたのである。
絶えず体を揺すっている藤井。全く反省している様子もない。生徒が何をしても、先生たちは必ず自身の保身のために、真実を隠蔽すると分かっているのだ。校長がその最たるものだ。口では生徒の為と言っているが、明らかに経歴に傷がつくことを恐れている。藤井にはそれが分かるから、腹の中でせせら笑っていた。
ガンッ・・・
突然、藤井が校長の机横にあった屑籠を蹴り飛ばした。壁に跳ね返って、ごみが散乱する。
「何をするか」
教頭が藤井に掴みかかったが、するりとすり抜けて、机に飛び乗った。
「バーカ」
皆を馬鹿にしたように、尻を向けて、そこに一発平手をした。
「へへんだ」
ひらりと、開いている窓に飛び移って、外に脱走した。校長が慌てて後を追おうとしたが、窓から出られずに逃がしてしまった。
「待て、藤井」
そう言われて、待つ者はいない。藤井は全速力で校庭を突き抜けて、フェンスを乗り越えていた。
車道を逃げる藤井の姿が、校長室にいる全員に見えていた。これだけの大人たちがいながら、簡単に逃がしてしまったのだ。校長は、もう庇い切れないなと落胆していた。
キキィーーーッッッ
車のタイヤが軋む音がした。
ドンッッ
藤井の体が、弧を描いて飛ばされていた。
「そんなことって・・・」
校長は、目を疑った。誰もが、この現実を信じられなかった。
だが、愛真だけが、じっと眼を見開いて、その瞬間を凝視していたのだ。目が離せなくなっていたわけではない。見ていなくてはならないことが起こると、予想していたからだった。
救急車が到着した。倒れたままの藤井が、ストレッチャーに乗せられていた。両足があり得ない方向に曲がっている。野次馬たちが骨折しているのをはっきりと見ていたが、生死は分らなかった。
畷中が騒然としている。「天罰」が下ったのだ。広田杏香が天罰を下した。噂は、もはや現実になった。この学校での虐めの存在が、世間に公表され、四条畷市立の全学校を巻き込んで、大いに問題視されるようになってしまった。
校長が左遷され、担任教諭は世間の非難にさらされ、退職してしまう破目となった。しかし、当の藤井は、車に正面衝突しながらも、両足骨折しただけで、意外なほど元気に入院生活を送っているのだった。
「天罰」だと騒いだ割には、元気な藤井を見れば、本当に天罰なのかと疑わざるを得ない。噂は、また噂に戻ってしまったのだった。