四 「どの男子が好きになったの?」
薙刀を構えたまま動かない。緊迫した空気が張り詰めている。
ここは、大阪市の中央部に位置する大阪府立体育館。大相撲の春場所やプロレスの興行などが、行われる施設である。そこで、大阪府の中学生・高校生の薙刀大会が開催されていた。
広田杏香は、柳原結衣と和塚千春を手下のように従えて、この試合場の観客席にいた。しかし、試合を観戦しているのではない。柱の陰に隠れて、向い側の観客席を、じっと見詰めていた。
季節は、初夏になっていた。梅雨間近の過ごしやすい、いい季節だ。それなのに、杏香は額にじっとりと汗をかいていた。時折、引きつった様な呼吸をする。喘息持ちではないが、精神状態によって、気管支が狭くなる癖があった。
「ヒィィィーーー」
不気味な気道の音がする。手下の二人は、これを聞くと震え上がるようにして、杏香の顔色を窺った。
「広田さん。落ち着いてください」
二人とも祈るようにして震えている。杏香の怒りに触れれば、必ず悪いことが起こってしまうのだ。
「ヒィィ、大丈夫。ヒィィ、結衣ちゃんも千春ちゃんも、ヒィィ、心配しないで」
そばかすだらけの杏香の顔は、大丈夫どころか、引きつっていた。
「呼んできましょうか」
千春が気を利かせて、向いの観客席に行こうとした。
「余計な事をしないで、ヒィィィーーーーー」
逆鱗に触れた。二人は頭を押さえてうずくまった。
この一年間で、怪我をした教師や生徒たちは、二十人を超えている。どれもこれも、交通事故や不慮の事故である。いずれも生命に関わるものではないが、入院する者もいたのだった。
このことが、どうして杏香に繋がるかと言うと、「あいつには、天罰が下る」と、杏香はいつも言っているからだ。あいつとは、杏香の見た目や性格と、そして何よりも、あの喘息の不気味な声が気に入らないと、いじめる者たちや毛嫌いする者たちであった。
杏香の天罰は、必ず的中する。しかしながら、杏香が何かをしたというわけではない。だが、本当にそれだけなのかと、いつも近くにいて、杏香を見ている二人は疑っていた。だからこそ、この天罰が怖くて、杏香から離れられなくなっていたのだった。
向かいの観客席に、女の子がいた。クラスメイトである。髪型が特徴的で、頭頂部に猫耳を、自分の髪で作っていた。
猫耳の女の子の視線は、ずっとある選手を追い掛けている。杏香には、それが分かるから、余計に腹が立つのである。四条畷中学校で、ずっと親友だと思ってきたのである。いつも四人一緒で、何をするのも同じだった。
「ヒィィ。好きな男の子が出来たの?」
そばかす顔が、余計に醜くなっている。
「私にバレないと思っているの。ヒィィィ、許さないからね」
母校『畷中』の薙刀部が出場している。そのうちのどの男子なのか、はっきりと見極めるつもりだった。
結衣と千春が、軽率な猫耳の女の子の行動を呪った。こんなことで、巻き添えを食うことになるのかと、気が気でなかった。
四条畷南中学校『南中』の試合が始まる。
薙刀を携える雄姿は、他の選手を圧倒していた。中学生でこれほどの気合いを発せられる選手は、ごく少数しかいなかった。
那珂夜月は、深く一礼をして、薙刀を構えた。
刃の反りで巻き落とし技からの面が、一瞬にして決まった。相手が怯み、体勢を立て直す隙も与えず、二本目を連取した。決して相手が弱過ぎるわけではない。実力の差が歴然と表れただけの、一方的な試合だっただけなのである。
猫耳の女の子は、表情を変えずに見守っていた。自分が見ていることを、相手に知られることは、もう望んではいない。否、知られてはいけないと思い直していたのだ。
大会が終了した。母校『畷中』の薙刀部は、入賞もしなかった。しかし、猫耳の女の子には、そのような結果は関係ない。もとより、那珂夜月は『南中』の選手である。ただ、その姿を見ているだけで、今は十分だったのだ。
「ヒィィーーーー、ヒィィィーー」
杏香は、標的の男子を見付けられなくて、怒り狂っていた。元々いない人物を探しているので、見付かるわけがない。怒りで口元が痙攣して、内腔の狭窄をあおり、呼吸困難に陥っていた。
「広田さん。落ち着いてください」
結衣と千春が、懸命に背中をさすって、杏香の気を落ち着けようとした。急に呼吸が出来なくなると、パニックに陥りやすい。暴れることを、最も避けなければならないのだ。
杏香は気絶しそうになりながらも、血走った眼で、猫耳の女の子の姿を追ったが、もう既にどこにも見当たらない。帰ったら、必ず酷い目にあわせてやると、自らに誓っていた。
『畷中』こと、四条畷中学校。夜月が通う『南中』こと四条畷南中学校とは、南西方向に一㎞しか離れていない。畷中から南中が分離したことは、以前書いた通りだ。
翌日、杏香が結衣と千春を従えて、校舎裏で待ち構えていた。制裁を加える為である。
「来ました。広田さん」
生徒たちが登校してくる正門を見張っていた二人が、あの猫耳の女の子を発見した。
女の子は直前に何かを感じたのか、正門を通りながら、待ち構えている三人を見つけていた。
「おはよう」
女の子が挨拶をするが、結衣と千春の表情が強張っている。目で何かの合図を送っているのが分かった。
「私を待ち伏せしていたの」
二人が杏香を恐れているように、女の子も油断をしてはいけないのは、まったく同じだと思っていた。しかし、あっけらかんとして思ったことを言うことにしている。
「どの男子が好きになったの?」
杏香が前置きもなく詰問する。喘息の症状が出ていないは、まだ落ち着いているということだ。
「何のことかしら」
訳の解らない質問には、毅然として言わなければならない。杏香とは、中学二年生の時からだから、もう一年以上の付き合いになる。怒らせると、天罰が下るという噂があるが、怖がってばかりはいられなかった。
「昨日、恋人の試合を見に行ったでしょ。これは、裏切りだわ。私たちの契約違反よ」
「恋人?」
杏香の眼つきが変わってきた。そろそろ喘息が出そうだった。
好きな人が出来たら、必ず報告することが、親友の四人の契約だった。それを決めたのは、もちろん杏香である。この四人が、仲の良い親友だと思っているのも、杏香だけだったのだ。
「昨日、私を尾行していたの」
呆れたという顔をした。しかし、実は尾行に気づいていたのである。だから、夜月を見ていることを、相手に知られてはいけないと思い直していたのだった。
「謝りなさい。そうすれば、許してあげる」
ゼイゼイという息遣いが聞え出した。杏香が怒り出したのだ。
「杏香!」
叱りつけるように、ぴしりと名前を呼んだ。結衣や千春には、絶対に言えないことだった。二人は杏香が怖くて、名字でしか呼べないのだ。
「杏香。落ち着きなさい。どうして私が、あなたを裏切るの」
「好きな人がいるんでしょ。秘密は許されないわよ」
顔が引きつっている。間もなくあの不気味な音がするはずだった。
「そうか。杏香は、私が信じられないんだ」
怒った顔をして、わざと突き放した。
「信じていないのよね。そうなんでしょ」
思ってもいない不意打ちである。杏香は呼吸をするのも忘れて、戸惑っている。女の子は、そんなことはお構いなく、さらに止めを刺していく。
「私を、この藤波愛真を、信じられないのね」
フンと鼻を鳴らすと、三人を置き去りにして、愛真はさっさと教室に向かって行った。
面食らったのは、杏香のほうだ。慌てて愛真に詫びを入れてしまう。
「ごめん、愛真ちゃん。許してください」
愛真は、杏香に背中を向けたまま、ぺろりと舌を出した。作戦成功という気分だった。声を出して笑いそうになるのを必死に堪えて、顔を真顔に戻してから振り返った。
「杏香ちゃん、怒っていないよ。結衣ちゃん、千春ちゃんも、一緒に教室へ行こう」
笑顔の愛真を見て、杏香は落ち着きを取り戻していた。
結衣も千春も、ホッと胸を撫で下ろしている。だが、本心は違う。むしろ逆である。杏香が精神的苦痛を、溜め込んでしまったと思っている。本当は、愛真に謝って欲しかったのだ。愛真が契約違反を犯したのかどうかは、この際、関係がない。杏香の精神を安静に保たなければ、溜め込んだ苦痛が怒りとなって爆発してしまうからだ。
四人の不思議な関係は、微妙な愛真の機転だけで成り立っている。少しでも杏香の取り扱いに失敗すれば、「天罰」が下されるのである。