参 「男の子の部屋って、初めてよ」
年末の四条畷市 雁屋南町。
歳末大売り出しで賑わう栄通り商店街の突き当り。楠公墓地から西側の地域である。墓地の北側に、楠公郵便局が隣接している。この前の道路を西に進んで行くと、雁屋公民館。そして、岡田豆腐店があった。この前で南に入って行くと、目的の場所に辿り着く。
新築の建売住宅で、二戸建て長屋が道を挟んで、ずらりと並んでいた。幼稚園の子供たちが、北風が吹く中を、元気に駆けっこをして遊んでいた。随分と賑やかな住宅地であった。
那珂夜月は、記憶の中の未来で、何度か訪ねたことのある家の前に立っていた。じっと見詰める家の玄関先。そこには表札があった。
『尾関一豊』
それが、この家の所帯主の名前だった。
わずかに期待を持って、夜月はここまで来ていたのだ。かつての世界では、ここに藤波愛真は暮らしていた。やはり違っていたかと言う諦めが、心を打ちのめしている。ここに来るべきではなかったと後悔していた。
「あれ、那珂さん?」
上のほうから声がした。二階のベランダの奥の部屋から、白い息を吐きながら、顔を覗かせている男がいた。
「えっ、尾関くん。ここって、キミのウチ?」
「うん」
夜月は、さっさと立ち去ろうとしていた。
「えっ・・・・あの・・」
何か言いたそうにしている尾関。何を話していいのか分からず、言葉が出なかった。
「何?」
しかし、そんな言い方でも、夜月を引き留めることに成功した。
「・・・・」
尾関は無口な奴だ。まず頭で考えてしまうからなのだろう。
「何か用?」
他人の家に来て、何の用かと問う夜月も、どうかしている。
「あの・・・・那珂さんって・・・・」
「えっ、私が何?」
尾関の間が長くなっている。どうも会話が続かない。
「言い難いことなのかな?」
夜月は大丈夫だよと微笑んだ。尾関に話をさせる魔術を掛けてやったのだ。
「なんかイメージが変わったみたいやね」と、抜け抜けと言ってしまった。
夜月はムッとした。
「えっ、どうして?」
「どうって、始業式の時は、アンタ誰って言うたやん」
かなり根に持つ尾関の暗い性格が分かった。あれから既に八ヶ月が経っている。
「あの時は、ごめんなさい。私、言ったの、覚えてるよ」
夜月は、言葉遣いを随分と変えた。友達から変な言い方だと、指摘されたからだ。「アンタ」とか「アタシ」とか、夜月らしくないと言われてしまった。
他人の人生を生きていると思っている夜月は、自分のあり方を考えざるを得なかった。元の夜月は、どんなことを感じて、どんなふうに言ったのか。今の夜月を、元の夜月にしなければならなかったのだ。
買い物に出掛けていた尾関の母親が、両手に荷物を持って帰って来た。
「んまぁ、あらあらあら。女の子が来てくれてはるやなんて、嬉しいわぁ。どうぞ、中にお入りや」
何を勘違いしているのか。この母親は、夜月を息子のガールフレンドとでも思ってしまったのだろうか。
「さぁ、さぁ。遠慮なんかせんと、寒いから、早う上がってや」
声の調子が上がっている。玄関を開けて、強引に勧めていた。
夜月は仕方なく従うしかない。男子の家に上がり込むのは、気が引けてならなかった。
「お邪魔します」
深くお辞儀をして、靴を脱いで、前向きに式台に上がった。振り返って腰を落とし、丁寧に靴を揃えて、土間の隅に置き直した。
躾の良くできた振る舞いに、母親は感嘆した。
「二階に――――」
「はい、あちらですね」
母親が階段の位置を教えようとしたが、夜月が分りますよとばかりに言い当てた。狭い家なので、案内するまでもなかったのかと、母親は苦笑した。
「あっ・・・すみません」
母親の微妙な心の動きを感じて、夜月は自らを恥じた。
実は何度も、この家に来ていた。この家に愛真がいたから、間取りを知っていたのだ。しかし、それをここで説明できるはずがなかった。
「ええの、ええの。先に行っといて頂戴や」
暗く急な階段を、右手で探りながら昇った。左側の部屋に尾関がいた。
「何だか、お邪魔させられちゃった」
夜月が舌を出した。
青いカーペットが床一面に敷かれている。腰辺りの高さまであるオーディオセットが、部屋を大きく占領していた。学習机が二つある。兄弟がいると言うことなのだろう。
「男の子の部屋って、初めてよ」
机の上の教科書を見て、どちらが尾関の机か、すぐに分かった。小学六年生の図工の授業で製作した、ちょっと傾いた木製の本立てに、漫画や雑誌が並んでいた。
「ふーん。天体が趣味なの?」
尾関も視線を本立てにやった。
「それもあるけど、時空のほうが面白いで」
尾関は雑誌を取って、ページを開いた。
「ニュートンは、時間と空間はひとつで、絶対に変えられへんて言うてたんやけど、アインシュタインは、それは違うて言いよったんや」
無口な筈の尾関が、急に語りだした。理系の頭脳に火が点いたのだ。
「浦島太郎て知ってるやろ」
夜月は、豹変した尾関に戸惑いながらも、頷き返した。
「浦島太郎が、UFOに乗って、光の速さで、宇宙旅行して帰ってきたら、地球では何十年も経っていたって話や。つまり、ニュートンの時間は変えられへんて言うのが、変わってしもたことになる」
「えっ、浦島太郎はUFOに乗って行ったの?」
夜月は、目をパチクリさせている。
「例えばの話やろ。現実に光速で飛べる筈ないし」
「飛べないの?」
「そんなん、宇宙戦艦ヤマトくらいやろ」
当時、アニメで大ヒットしていた。
「時間が変えられるから、面白いんや。タイムマシンも作れるようになる」
夜月は、尾関の話にぐっと引きつけられた。時間を変えられるとは、どういうことなのだろうか。自分の記憶にも関係があるのだろうか。
「タイムマシンは、過去とか未来とかに行けるって機械でしょう」
「そうや。でも、過去とか未来とか言っても、自分の思う過去とか未来に行けるとは限らへんねんで」
夜月は、更に前のめりになる。こんなところに、夜月が探し求める答えがあるなんて思ってもいなかったからだ。
「平行世界て言うのんがあってな。ある人があんなことをしたとか、しないで枝別れして行く世界のことや。その世界は、ずっと平行して時間が流れて行くんやで。大昔から世界中の人々が、そうやって平行世界を作って行くから、どんだけ別れて行った世界があるか測り知れんわな」
夜月がうんうんと頷いている。
「そやから、タイムマシンに乗っても、どこの平行世界に行ってしまうか分からへんて言うこっちゃ」
「違う世界に行ってしまうと言うことなの」
「例えば、タイムマシンで明日に行くとするやん。でも、那珂さんがこの家に入らんと、帰ってた平行世界もあるんやで。昨日に行くにしても、お互いクラスが違うていう平行世界もあるやろうしな」
夜月は少しずつ光明を見出したような気がした。目の前のクラスメイトが、とんでもなく輝いて見えた。
「じゃあ、私が昨日に行ったら、私の今の記憶は、昨日の私になるの?」
尾関は首を傾げた。夜月の質問の意味が分らない。
「私がここで尾関くんと話をしていることを、昨日の私は覚えているの?」
夜月は昨日に行くと、昨日の自分と合体すると思っている。尾関は、昨日の夜月と、タイムマシンで戻った夜月の二人が存在してしまうと考えているので、会話の意味が理解できないのだ。
「昨日の那珂さんは、那珂さんのままやで、タイムマシンで戻った那珂さんは、昨日の那珂さんに会えるかもしれへんな」
あっと、夜月は理解した。体ごと戻るのである。一つの体に過去と未来の記憶が、同時に入ってしまうということではなかったのだ。
「二人が融合してしまうことはないの?」
夜月が、すがる思いで問うた。どうあっても、そうなった場合の答えが欲しい。
「うーん。そう言うのは、どうなんやろなぁ。那珂さんの記憶が、どうなってしまうんか」
尾関は腕を組んで考えを巡らせるが、答えられなかった。
「どうなるんか、分からへんな。何にせよ、人類にはタイムマシンなんて、絶対に造られへんからな」
ガッカリはしていられない。夜月は諦めることが出来なかった。
「じゃあ、神様に頼めば、どう? 戦争があったら、私が神様に頼んでみるの」
「神さんやったら、なんでも出来るなぁ。それも、タイムマシンみたいに一人や二人で時間を越えるんやなく、人類まとめて、一からやり直しさせてくれるで」
「一からなの」
夜月はうんと頷いた。まさに『倭祷神器』がない世界に戻ることと同じだ。
「その時に、過去のことを覚えている人は、いるのかな?」
「やり直しやからな。誰も覚えてへんやろうけど、おるかもしれへんな。覚えてるて言う奴が、一人や二人」
夜月は、私がそうだと言いたくなった。そうすれば、もっと気持ちが楽になれると思えた。
「そうやけど、そんなん覚えてたら、キツイ話やな」
「えっ?」
「違う世界で、生きていくことになるからなぁ。知っている人が、みんな変わってるかもしれん。それに、もうすぐ戦争が起こるて知ってるから、心配でしゃあないで」
夜月はドキリとした。まさに言い当てられている。夜月は辛くて仕方がないのだ。目の前の頼りない尾関が、夜月の気持ちを理解してくれたと感じた。
「でもなぁ。神さんは訳もなく、そんなことは、やらへんで。理由はきっとある筈や。それが、神さんのすることやと思うで」
あっ。夜月は硬直した。感激で全身が震えた。大粒の涙が、自然に頬を伝った。
「どうしたん?」
尾関がうろたえている。女の子の涙を、面と向って見たことがなかったからだ。
「ごめんなさい。とても嬉しかったから」
夜月は、やっと太陽の元に出た気がした。何故ばかりだった暗い毎日が、真っ青に晴れ渡った清々しさだ。卑弥呼が、何かを夜月に託しているから、こうなったのだと分かった。それが何かは、まだ分からない。でも、今はそれだけで、夜月には十分だった。
「丈人!」
部屋の入口から、母親が急に叫び声をあげた。
「あんた、何してるんや。なんで女の子を泣かしてるんや」
叱り声が寒風に乗って、近所中に響き渡っていた。尾関家の不幸だった。
楠公墓地の社殿で、夜月は神楽舞を奉納している。神様にお慶びして頂き人々の至福を祈願するのである。
初めて夜月と愛真が出会ったのは、この場所だった。まだすれ違った程度の出会いだった。引っ越してきたばかりの愛真だ。不安と期待を持った愛真の始まりの土地だった。
冷たい言葉遣いと態度の夜月の何処に、愛真は惹かれたのだろうか。夜月はそれを愛真には聞いてはいない。巫女の夜月と陸上部の夜月の相違に惹かれていたのだが、たぶん愛真自身にも、それは分かっていないだろう。
夜月は愛真に大いに救われた。人生感を変えられたと言っていい。そして、愛真がいなければ、世界は消滅していた筈だった。
以前の世界から戻ったのも、この場所だった。夜月が巫女になって舞う。愛真は戦いに疲れて、眠っていた。
この楠公墓地が、世界を変える特異な場所になっているのかもしれない。神楽舞を演じながら、夜月は思う。桐村稔宗への熱い想い出だ。この世界になって、夜月は稔宗に会っていない。記憶の中にある幼い時からのお気に入りだった景色の一部分。それは稔宗への恋心の現れだったのだ。
幾度も危機を救ってくれた稔宗。盗撮犯のカメラを誤って破損してしまい、窮地に陥っていた場面で、まるで白馬の王子のように登場してくれた。そして、愛真の髪飾りを奪われそうになった時も、一緒に走って逃げてくれた。
愛真と稔宗。
夜月はこの二人がいなければ、詰まらない人生を送っていたと感じている。大人の顔色ばかりを見て、本当の自分を表せないままでいた筈だった。
「お父さん。私、神戸の湊川神社に行きたい」
「湊川神社? 大楠公さんかい?」
「うん」
四条畷には、稔宗がいない。神社の一の鳥居近くにある桐村家には、今も老夫婦だけが暮らしている。稔宗の祖父母なのだろう。夜月は稔宗が湊川神社にいると思っている。恐らくは、以前の世界での記憶を失くしているのだろう。そのほうが幸せな筈だ。何も覚えていないほうが、夜月のように苦しまなくても済むからだった。
夜月はただ確かめたいのだ。幸せでいてくれるだけでいい。遠くから確認すれば満足する筈だった。
「そう言えば、夜月が小さい時に行ったことを覚えているかい?」
「えっ、いつ?」
「幼稚園に行く前だから、覚えていないか。写真が家にあるぞ」
夜月が幼稚園児ならば、稔宗は小学生になっているのだろうか。神社の石階段を昇っていた男の子を思い出していた。
「見たい。お父さん、すぐにその写真を見たい」
夜月が父親の腕にすがり付きながら言う。駄々をこねる子供のように要求した。
「どうした、どうした。それなら、お母さんに言って、アルバムを出してもらうといい」
突然甘える夜月に、父は戸惑った。しばらくそんな感情になっている夜月を見なかったからだった。
慌てて自宅に帰る夜月を、不思議そうに父親は見ていた。春の頃の夜月は、苦悩の顔しかしてなかった。両親も信用していない筈だと、中学校の養護教諭に宣告されていた。こんなに笑顔の日が戻って来るなんて、あの頃には想像も出来なかった。
「お母さん、お母さん。アルバム、アルバム。湊川神社のアルバム出して!」
血相を変えて家に帰って来たかと思ったら、ただいまも言うのを忘れて、夜月は押入れに頭を突っ込んでいた。
「お帰り、ミツキ。ただいまは、どうしたの?」
落ち着いて言う母親は、実は動揺している。父親同様に感じていたからだ。元の夜月になってくれた。それがどんなに嬉しいことなのか、産んだ母にしか分からないことだった。
「あっ、ごめんなさい。ただいま帰りました」
しっかりと母の目を見て言った。厳しく躾けられている。それが那珂家であった。
「どうしたの、そんなに慌てて?」
「お父さんの湊川神社のアルバムを見たいの」
母親は奥へ姿を消すと、すぐに戻って来た。その手にはアルバムがある。どうやら夜月が探していた押入れは間違っていたということだった。
心臓がドキドキする。夜月はゆっくりとページを開いていった。
「懐かしい写真よね。夜月なんて、こんなに小さくて可愛かったわ」
母親は夜月の成長が嬉しくて言ったのだが、言われた本人にはそうは聞こえない。
「今も可愛いですけど!」
夜月と若い母の写真ばかりだった。場所は何処かの神社である。
「宗楽さん!」
若い母親と並んでいる荒山宗楽がいた。
「違うわよ。これは香寿美さんよ。宗楽ちゃんのお母さんの香寿美さん」
以前の世界で出会った宗楽と同じ顔をしていた。宗楽は自分に似ている死んだ母を生き返らせようしていたのかと、夜月は悲しみを感じた。
「宗楽ちゃんは、こっちよ」
母が差した写真には、小さな夜月と並ぶ男の子と女の子がいた。男の子は夜月の記憶の中にあるお気に入りの風景に登場する稔宗だった。女の子は、宗楽だ。今の夜月よりも少し幼く見える宗楽だった。
アルバムのページをめくると、稔宗の一家四人が幸せそうに並ぶ写真があった。以前の世界では父母は離婚し、稔宗と宗楽も別々に暮らしていた。しかも、母親は自殺をして、その原因が宗楽にあると思い込む稔宗。
そんな一家が、笑っている。悲しみなんて何処にもない。幸せが溢れている。写真を見ている夜月も、笑顔になっていった。
「お母さん。私、この世界が大好きだよ」
夜月はこの世界が嫌いだった。愛真に会えない辛さには、今でも耐えられない。しかし、これだけで夜月は救われた気がした。稔宗と宗楽が幸福でいてくれている。他人の幸せが、こんなに嬉しいものだと初めて感じることができた。