弐 「このアタシは誰?」
「神器のない幸福な世界に戻して」
夜月の願いを叶える『倭祷神器』の優しい光が夜月と愛真、そして桐村稔宗の時間を戻した。
「みんな、生まれた時に戻ったのよ、きっと」
「だから、みんな違和感がないんだ」
「周りの人も、ヘンだって気付かない」
「アタシも、生まれた時に戻っているはず」
「でも、『楠公墓地』で、どうしてだか以前の記憶が戻ってしまったんだ」
夜月は独り言のように、ベッドの上で話していた。
「実はアタシは、父に薙刀を教わっていたんだ」
「でも、前の記憶が戻ってしまったから戸惑っている。そう、考えられないのかな」
堂々巡りをするばかりの疑問に、夜月は疲れ果て深い眠りについていった。
翌日、夜月は元気に登校して行った。
「大丈夫だよ、お母さん。心配しないで」
両親の心配はあったが、夜月の意思を優先させるべきだと、草壁教諭に指導されていた。草壁の支援に頼るしかなかった。
授業はまだ教育課程を始める先生はいない。自己紹介や授業内容、雑談だけで半日が終わっていった。午後は、生徒たちのクラブ活動で、新入生勧誘に忙しい。どこの部もポスターを作って、学校中に貼り回っていた。
文化系クラブは控え目な人を誘い、運動系クラブはインパクト絶大に元気な人を募った。勧誘というのは難しいものである。部活を非常に真剣に活動しているとみられると、ちょっと見学をと思うような軽い気持ちの人には、分不相応で近付かなくなってしまう。かといって、真剣に取り組みたいと思っている人もいるので、敬遠されてしまわないようにしなければいけない。
全日本中学校陸上競技選手権大会に出場するという目標を、夜月は追いかけていた。新入生の勧誘活動も大事だけれど、夜月の所属している陸上競技部は人気のクラブ活動なので、速く走る選手を目の当たりにすれば、それが勧誘になると考える部員も多かった。
夜月は準備運動をしてから、校庭三周を走った。陸上競技部が使う短距離走のエリアは、部員たちが次々に加速走の練習メニューをこなしていた。
夜月が、そのメニューの列に並んだ。
「ねぇ、あれ何?」
「何のつもりかな?」
部員たちが口々に騒いでいる。
夜月がスタートした。初めの十mを一気に加速して、続く五十mをそのまま全力で走り抜いた。
「速――いぃぃ」
「ひゃーー、驚いた」
部員たちの感嘆の声がする。特に三年生のキャプテンが驚いていた。
「先生、あの人、新入部員ですか?」
陸上部顧問の教師に、慌てて問いかけていた。
「あ・・・・いや、知らない生徒だ」
「えっ」
夜月が二本目を走った。全員の歓声が上がる。顔見知りの部員が、夜月を取り囲んで騒いでいるのが見えた。
「まさか新入生ってことはないでしょうね」
キャプテンの疑問が募った。
「二年生」
顧問が、二年生部員を招集した。練習方法も判らない新入生が、勝手に走っているとは考えられない。またキャプテンが知らないのであれば、三年生ではないと推測したからだ。
集まってくる二年生の中に、夜月もいた。大きく肩で息をしながら、真剣な表情をしていた。
「君は、いったい誰だ?」
顧問の質問に、皆が夜月の顔を凝視している。
「入部届けは、どうなっている」
今度は部員同士が顔を見合わせた。
「えっ、那珂さん。入部したんじゃないの?」
「そうなの、那珂さん」
一斉に質問攻めにされるが、一番戸惑っているのは夜月であった。
「アタシは、ずっと陸上部だよね」
口籠るように小声で答えるが、誰にも聞こえてはいない。混乱してしまって、黙るしかなくなっていた。
まただ。記憶障害だ。夜月は自分にうんざりしていた。
体育館のほうから大声がする。
「夜月ぃーー」
「おーい、夜月ぃ」
三人の袴姿の女の子が駆け寄って来た。
「すみませーーん、お騒がせしました。この子、今ちょっと訳ありなんですーー」
一人がみんなの前で、深々と頭を下げた。その隙にあとの二人が、夜月に背後から抱きついている。
「夜月、何してるのよ。行くよ」
頭を下げていた女の子も、頬を夜月の頬にべったりと押し付けて去って行った。
顧問と部員たちが茫然として、見送るのみであった。
「薙刀部だよね」
「うん、そうだね」
「何だったの」
「さあ。でも、那珂さんって、あんなに速かったって驚きよね」
「陸上部に誘う?」
「無理無理、神社の道場主だもん」
那珂月詠がしている薙刀道場のことは、誰もが知っていることだったのだ。折角の有力選手の登場が、出番なく終わったことを全員が知ることとなった。
「早く着替えてねぇ。新入部員勧誘の模擬試合やるよん」
「でも、あんなところでふざけるのも、夜月らしいよね」
「そうそう。やるじゃん、夜月」
そんな夜月が大好きとばかりに、頬にキスをしてくる。仲の良い四人に見えた。
プール下に部室がある。その中にドンと突き飛ばされると、投げキッスをして、女の子たちはドアを閉めて行ってしまった。
夜月は呆気にとられたまま、三人のあんなに無邪気過ぎる、人との接し方があるのかと、腹を立てていた。いくらなんでも、礼儀と言うものが、無さ過ぎる。夜月はどんな人であっても、一定の距離をとって接してきた。人として、それが当たり前だと考えていた。
部室の奥にロッカーがある。「★★那珂夜月★★」の名札が貼ってあった。なんて女の子らしい文字で書かれてあるのだろうか。入ったことのない部屋の、見たことのないロッカーだ。この名札を自分で書いたのだろうかと、疑問に思った。
「んぁあ・・また・・・」
夜月はめまいを感じた。目の前で記憶が流れて行く。まるでビデオを早送りで見ているように、幾つもの映像がどんどん流れていく。
「まただ」
記憶を、今知った。
ロッカーを開けると、知ったばかりの記憶通りの物が置かれていた。
「アタシのアルバム」
かわいい表装で、ラメ入りの文字が書かれている。それは、もはや夜月の思い出のアルバムと言っていいのであろうか。中に貼られているだろう写真にも記憶があった。何げなく手に取って、中を開いてみる。
さっきの女の子たちの写真がたくさんあった。どれも仲良く笑っている。夜月も、その中で笑っていた。先程のように馬鹿みたいに抱き付いて、幼児のようにふざけ合っていた。
ヘン顔をしている四人の写真。夜月が一人で変な顔をしているのもあった。
「ウソだ」
バシッと、アルバムを閉じた。
「こんなのウソだ」
感情が乱れ、アルバムを投げ飛ばした。
「だって、アタシはこんなことしない。こんなこと出来ない」
夜月には、どんなにふざけ合ったって、変な顔の写真なんか撮らせない。絶対にそんな顔をするはずがない。それに、女の子に抱きついているのも変だった。夜月の性格では、そんな事が出来る筈がないのだ。たとえ生まれ変わっても、絶対に出来ない。
「誰なの、この写真に写っているアタシは?」
「それに、このアタシは誰?」
世界を戻して、もう一度生まれたのではなかったのか。違う夜月を、今のアタシが乗っ取ってしまったのか。今まで、違う自分がいたなんて考えもしなかった。ただ記憶違いがあるだけだと思っていたのだ。
「卑弥呼さん。アタシは他人の人生では、幸福になれないよ」
泣き出したい。泣いてしまいたい。夜月は両手で、自分の肩を抱きしめた。足の力が抜けていき、ひざまずいた。
でも、涙は流さない。泣いても事態は変わらないと知っている。繰り返し繰り返し、考え抜いてきたことだ。少しばかり状況が悪くなっただけだ。
夜月は俯いていた顔を上げた。人生とは何か。そんな夜月の試練が、ここに始まったのである。