壱拾 「私が守ってみせる」
体育館連絡通路の柱の陰で、尾関丈人が文庫本を読んでいた。最近、森村誠一の推理小説に夢中になっているのだ。気ままに場所を変えながら、毎日読み耽っていた。
広田杏香がそんな連絡通路に来たが、何故か様子がただ事ではなかったので、尾関は咄嗟に隠れてしまっていたのである。
ぶつぶつと独り言を続ける杏香。尾関は文庫本に集中できずに、場所を変えようとしていた。
突然、「倒れろ」と、杏香が叫ぶと同時に、轟音がした。悲鳴や絶叫が、あちこちから湧き上がった。
尾関は慌てて飛び出して、杏香が覗いている連絡通路から事態を確認した。体育準備室前のバスケットゴールが倒れている。
「お前、倒れろって、いま言ったよな」
杏香が恐れた目で、尾関を見た。隠していたことを見られてしまったのだ。
「お前がやったんか」
杏香の歪んだ顔が、引き攣っていく。左右の瞳の焦点が合っていない。後退りする足が、がくがくと震えていた。
「大変や。誰か下敷きになったんちゃうか」
尾関が現場に走った。走りながら、連絡通路を振り返ると、まだ杏香が突っ立ったままだった。
夜月と愛真が、倒れたバスケットゴールの脇にいるのを、尾関に見えた。これだけの大惨事で、よくぞ無事に助かったものだと感心した。
「おーい、大丈夫か。広田やで。これ倒したんは、広・・・」
バンッ
赤い飛沫が、空中に弾け飛んだ。
大勢の教師と生徒が、事故現場に駆け付けていた。その誰もが、この赤い飛沫がいったい何であるのか、すぐには理解できなかった。
尾関の上半身が、消えていた。バンッという音と共に、霧状になって弾け飛んでいたのだ。ズボンのベルトから下が残っている。まだ、そこに尾関が立っているかのようだった。
「ギャーーー」
全員の悲鳴が上がった。何が起こったのか分からないが、全身に降り掛かってきた赤い飛沫が、尾関の肉体だということは理解できた。
杏香が、地上にいた。南棟校舎から飛び降りて来たのだ。目が血走り、喘息の呼吸音が激しくなっていた。
「ヒィィィ・・余計なことを言った罰だよ、尾関くん」
杏香の周りの空気が渦巻いている。空間が歪んでいるのか、杏香の体が不思議な形に見えていた。
風を切る音が、幾つも鳴り出した。目には見えないが、杏香のほうから何かが飛んで来ているようだった。
「きゃーーー」
「うわーー」
また、悲鳴が上がった。体中から血を流している生徒たちがいた。訳が分らず逃げ惑う教師。恐怖で腰を抜かしている女生徒。カマイタチが、四方八方に飛んでいる。バックリと開いた傷口から、鮮血を噴き出すけが人が、ここ南棟校舎と体育館の間に折り重なっていた。
ここは地獄と化していた。鮮血が川のように地を這っている。騒ぎを聞き付けた好奇心旺盛な生徒たちが、校舎から出てきては、カマイタチの餌食になっていった。
愛真が、九字を切った。呪文を唱え、結界を作る。たちまち、杏香の周りの異常な空間が消滅した。
「杏香。いい加減にしなさい」
愛真は一喝した。仁王立ちになり、背後に夜月を隠した。何としてでも、夜月だけには、手を出させるわけにはいかないのだ。
一瞬にして、杏香は力を封じられてしまった。しかし、まったく動じてはいない。意に介さない態度をしている。
不敵な表情をする杏香。喘息の声がしなくなっている。不気味に笑う口元は、もはや杏香ではないようだった。
「もう、何もさせないのではなかったの」
杏香の冷たい視線が、折り重なって呻いている生徒たちを見下していた。
「そうよ。私は、決意したんだ。もうこれ以上、何もさせない」
愛真は、もはやすべてを掛けて戦うことを覚悟している。
不気味に笑う杏香の口元が、突如耳まで裂けた。赤い眼光が放たれ、愛真を威嚇した。これはまさに悪魔の表情だ。杏香は確実に悪魔と化していた。
「では、止めてみせろ」
ドンッと地を蹴ると、杏香は校舎の四階に跳んだ。野次馬見物をしていた生徒たちの教室に飛び込んだのだ。鋭利な刃のような爪が、次々に逃げる生徒たちを切り刻んでいった。
愛真は急ぎ、三重の結界を夜月に張った。これで、杏香から守れるはずだ。そして、自らに呪文を掛け、杏香の後を追って、教室に飛んだ。
教室は、死体の山になっている。手足が切り落とされ、腹を引き裂さかれ、はらわたをえぐり出された生徒たち。とても正常な精神状態では、直視できない有様だった。
その死体の山の中央に、杏香がいる。どうだと言わんばかりの表情をしていた。これのどこが、何もさせないのだと言わんばかりである。
「天羽々斬」
あめのはばきりとは、スサノオノミコトが八岐大蛇を切り殺した剣である。愛真はそれを呪文で出現させた。間髪を入れず、斬撃を繰り出した。
肩を切られ、頭蓋を割られた杏香は、堪らず窓を突き破り、廊下に逃走した。
「逃がさない」
愛真が後を追う。廊下には、杏香が待ち構えていた。人質を取っている。
「千春、結衣」
杏香の傷口が治癒していく。しかも全身の肌が、徐々に濃紺に染まっていった。赤い瞳が、異様なまでに光っている。そうだ。これは、まさに悪魔だ。
愛真は成す術を失った。杏香は、愛真が少しでも動けば、その鋭い爪で、千春と結衣の首を切るつもりでいる。
どうする。どうする。どうする。
武術の経験があるわけではない。喧嘩さえしたことがない愛真には、この危機に対処する方法を思いつく筈がなかった。
《愛真》
《愛真。我を解放にしろ》
愛真の内側から、声がする。
《愛真。何故、我を封じたままにする》
卑弥呼の声だ。愛真の中に、卑弥呼の意識が存在していた。
「あなたが私の中に隠れていることは、前から知っていたわ。でも、出してあげるわけにはいかない」
《我が、ずっと知らぬ振りをしていたことを恨んでいるのか》
「そうじゃない。あなたは、きっとミツキを巻き込んでしまうからよ」
《夜月のためか》
「そうよ。だから、私はあなたの力を使って、あなたを全力で封じている」
《そのために、我のすべての力を、あの女に使えずにいるのだぞ》
「分かっている」
《女はどんどん強くなっている。このままでは、お前は死ぬぞ》
「そんなことは、全然構わないわ」
《お前が死ねば、我も消滅する。そうなれば、夜月だけでなく、人類が滅んでしまうのだぞ》
「ミツキは死なせない。私が守ってみせる」
愛真が突進した。天羽々斬を振りかざして、杏香の眉間を突き刺した。
バリバリバリバリ・・・・
一瞬早く、杏香が攻撃を掛けた。天羽々斬が宙を斬って、愛真は吹き飛ばされてしまった。
ゴロン。
ゴロン。
二つの丸いものが、愛真の足元に転がされる。恐怖と悲痛に悶え苦しむ形相。それは、杏香にねじり切られた結衣と千春の頭部だった。
苦悶の瞳が、愛真を睨みつけている。何故、こんなに酷い殺され方をしなければいけない。そう訴える目だった。
バリバリバリバリ・・・・
杏香が、再度攻撃を仕掛ける。愛真は衝撃を食らって、壁を突き破って地上へと転落して行った。
「うわぁぁぁーーーー」
愛真は錯乱した。結衣と千春の恨みの形相。『畷中』からのクラスメイト。天罰に怯え続けていたけれど、本当は素直で元気な女の子たちだった。愛真が無謀にも杏香に突進して行かなければ、殺されなかったかもしれない。一瞬でも早く、杏香の眉間を突き刺していれば、助けられたかもしれない。
何もかも、自分ののせいだ。短気を起こしてしまって、杏香に逆らってしまった自分のせいだ。愛真はピアノ如きのことで、頭に来てしまった。これまで上手に杏香を扱ってきたことを、放棄してしまった。その結果が、いま目前に広がっている。
何人が死んだ。楽しい高校生活を送っている生徒たちが、何人死んだのだ。愛真は四階から墜落し、地面に叩きつけられながら、後悔のどん底にいた。
《愛真》
卑弥呼が愛真の肉体を守っていた。痛みひとつない。どれほどの攻撃を受けようとも、卑弥呼の意識が身代わりをしていた。
《愛真。冷静になれ。これ以上、我はお前を守り切れぬぞ》
肉体は無事でも、愛真の心はボロボロだった。もう皆と一緒に殺されたっていいと感じていた。
《愛真。我を解放しろ》
杏香の背に、蝙蝠の羽がはえている。校舎の上空を飛ぶ姿は、完全な悪魔そのものであった。
《もはや、お前の手には負えぬほどに、女は変化を遂げた。お前のわがままは、これまでにしろ》
これほどになっても、愛真は卑弥呼を封印し続けている。夜月への思いは、絶対なのだ。愛真が守らなくてはいけないのは、夜月たった一人だけ。それが愛真の深層心理だったのだ。
校舎が破壊されていく。杏香が上空から衝撃波を放っているのだ。まだ逃げ遅れている生徒が大勢いる。倒壊して行く校舎に押し潰されて、人の姿は消滅していった。
夜月が自転車置き場にいる。崩れ落ちてくる瓦礫を避けながら、愛真の行方を捜していた。結界が夜月を守ってくれているので、傷一つ負ってはいなかった。
愛真は、夜月に気付いた。無事でいてくれたことが、再び気力を取り戻す原動力になった。
「刺し違えてもいい。必ず杏香を倒してみせる。卑弥呼さん、私に力を貸して」
天羽々斬を握り締め、愛真は天へと飛翔した。一直線に杏香を目指して行く。
ザシュッッッ
大きく振り降ろした剣筋は、杏香の鼻先で止まっている。杏香の節くれた濃紺の腕が、刃を受け止めていたのだ。
にんまりと笑い、人差し指を一本立てて、軽く横に振る杏香。愛真の攻撃など馬鹿にしている様子だった。
なりふり構わずに、天羽々斬を振り回す愛真は、まったく相手にされていない。剣術を知らぬ素人が、どれほど剣を振ったところで、簡単にかわされてしまうのが落ちであった。
バリバリバリバリ・・・・
愛真は自転車置き場へと、撃墜されてしまった。そこは愛真にとって最悪の場所である。絶対に守らなればならない夜月が、その場所にいたのである。
「エマ!」
ひしゃげた自転車が行く手を阻む中、夜月は瀕死の愛真を発見した。怪我はないように見えるが、体力が限界なのか、力尽きて簡単に起き上がることさえ出来ずにいた。
「エマ、大丈夫なの。待ってて、すぐに行くから」
倒れた自転車が絡み合っていて、なかなか先に進めない。
「いけない。こっちに来てはいけない」
愛真は声を上げる体力も、もはや残ってはいなかった。
不気味な姿の杏香が、二人の間に割り込んだ。杏香にとって、夜月は悪以外の何物でもない。夜月がこの高校に来なければ、杏香もこんなことにはなっていなかった筈なのだ。
「アンタは、広田さんなの」
夜月は驚愕の声を上げた。あの時の悪魔にそっくりの姿が、記憶に蘇って来たのだ。こんなものと、愛真は長い間戦ってきたと言うのだろうか。
鋭利な刃のように鋭い爪を、真っ直ぐに立てた。夜月の心臓を狙って、迫りくる杏香。夜月は逃げ場を失っていた。
自転車の車輪が、夜月の足元を掃った。転倒した夜月に覆い被さり、杏香の爪が心臓の上にピタリとあてがわれた。
「駄目ぇぇぇ」
愛真が絶叫した。夜月が殺される。それだけは、あってはならないことだ。
《愛真、封印を解け》
「助けて、卑弥呼さん」
愛真の体から、夜月へと閃光が走った。金色の輝きは、神々しい聖なるものだ。
「今、蘇ったぞ。卑弥呼の力」
夜月は情け容赦なく、杏香を弾き飛ばした。瓦礫の校舎の太い柱を叩き折って、校庭に陥没した。
夜月の体が金色に輝いている。愛真もそれに共鳴して、体力を復活させた。卑弥呼の封印に使っていた力を解除して、本来の能力をたぎらせていた。
「ごめんなさい、ミツキ。結局、私はあなたを巻き込んでしまった」
夜月は愛真の手を取った。優しく肩を抱いた。
「エマは、よくやったよ。たった一人で、よく頑張った」
クシャクシャと、愛真の頭を撫でた。
「あとはアタシに任せろ」
夜月の闘術が、杏香に炸裂する。愛真とは全く違う身のこなしに、杏香は防戦するしかない。
バリバリバリバリ・・・・
苦し紛れの念波が放たれるが、夜月に通じる筈がなかった。瓦礫の校舎を、更に粉砕するだけだった。
夜月は、腕を前に突き出した。
「大薙刀・岩融」
おおなぎなた・いわとおし。あの武蔵坊弁慶が使った武器である。巨大な刃をもつ大薙刀が出現し、夜月は軽々とそれを振り回した。
空中で、夜月と杏香が対峙する。空間が緊張している。だが、既に気迫で、夜月は圧倒していた。どれほど悪魔化してしまっていたとしても、本質は杏香である。夜月の迫力に敵う筈がなかった。
勝負は刹那であった。夜月の斬撃が、杏香の頭上を狙った。体を捻って交わす杏香に、夜月はわずかに手首を返し、胴を両断した。
力なく、校庭に落下していく胴と脚。地上に落ちた胴体が、脚を取り戻そうとして這いつくばっている。
夜月が急降下していく。杏香の眉間を、岩融の分厚い刃で貫いた。
一部だけが残った体育館の残骸の屋根で、愛真は不安そうに、自らの両肩を抱き締めていた。戦いの行方が心配でならない。夜月がどんなに優勢であっても、絶対に大丈夫とは言い切れないのだ。
夜月が勝った。勝ってくれた。もしものことがあったらと、生きた心地がしなかったのだ。
夜月が愛真の傍らに戻った。
「まだ気を抜くな。エマ。これからだぞ、本当の悪魔との戦いは」
岩融で、地面に串刺しにされている杏香の胴体。その切断された傷口からは、どす黒い血が流れ出している。ぐつぐつと泡を立てて、真っ黒な煙が上がっている。血液が沸騰しているのだ。酷い異臭が辺り一面に広がっている。
「出てくるぞ」
胴体の切り口で、濃紺のものが蠢いている。赤い瞳が不気味に輝いている。
「あれが悪魔の正体だ。肉体に宿して、復活の時を待っていたんだ」
夜月は愛真を連れて、上空に飛んだ。
「四大元素の呪術を使うぞ」
火・風・水・土を四大元素という。万物の元となる唯一絶対の物質だ。火は風になり、風は水になり、水は土になり、土は火になる。水の力だけを使った以前の術とは、桁外れの破壊力を持つことになる。
愛真に躊躇があった。四大元素の呪術の威力を知っているからだ。以前使った水の呪術だけでさえ、関西地方を破壊してしまったのだ。
「大丈夫だ。アタシの内には、『倭祷神器』がある。それはアタシの中で変化をして、時を戻れる力となった」
愛真は夜月から貰った『記憶』の中で、『倭祷神器』とは何かを知っている。夜月の願いを叶えた物質。古代女王が継承してきた力、そのものだ。
「戻ろう。今度こそ、悪魔を完全に消滅させて、幸福な世界に戻ろう」
夜月が優しい声で言う。こんな不幸は、もう必要ない。今度こそすべてを終わらせて、幸せを掴むのだ。
「エマ。アタシに同調しろ」
「わかった」
「エマは、水と風の呪術を使え。アタシは、火と土を使う」
「はい」
「よし、全部一度にするぞ。忙しいぞ、遅れるな」
夜月と愛真が手を取り合った。周辺の空気が張り詰めた。
「火的力和地獄之火爆光」
「水的力粉碎并和波打碎」
「土的力呑下泥流或破坏」
「風的力在波飃卷蹲空飛」
夜月と愛真の呪文が共鳴した。
すべてが光の中に包まれた。キノコ雲が、無数に次々と形成されていく。日本列島が呑み込まれ、朝鮮半島から大陸までを広く覆い尽くした。
すべてが無になった。悪魔もこの中では、存在しない。勝利したのだ。夜月と愛真は、悪魔を打ち滅ぼしたのだ。
「エマ、帰ろう。アタシたちの本当の世界へ」
「うん」
優しい光が、二人を包んだ。やがて、その光は、地球全体を包み込んでいった。