一人と一人が出会って
足元のコンクリートから発せられる熱に、上からも照りつける日差しによるうだるような暑さが地上を蝕む。
夏季休暇を明日に控えた七月の下旬。その気温は熱によって空間が歪んでしまうのではないかと思う程に高さを維持していた、そんな夏の日。
その少女は道路側に足を出す形で歩道橋の欄干の上に座り、伏し目がちに辺りを見下ろしていた。
そんな場所で何をしているのか、勿論疑問に思った。しかも女子が、スカートでだぞ。いや、それは良い。それよりも。
――俺は一瞬動くことも忘れる程に、彼女に見惚れてしまった。
どことなく幼さを感じさせるその顔は、白く透き通った綺麗で張りのある肌、そして目鼻立ちが整った綺麗な形をしているのに、しかし伏し目がちになっていて、全体の雰囲気もどこか儚さを含んでいた。地面を見つめながら歩いていた俺は、ふと上を見上げると視界に入ったその少女にその瞬間目が惹き付けられてしまった。
その時間は長く感じたものの実際はわずか数秒、その後彼女が手すりの上に立ち上がった瞬間にハッと我に帰った。あの子、何してんだよ。両足を一歩前に出せばそのまま道路に落下する上車との衝突は免れないというのに、彼女は欄干の上に両足を置いている。
だがこの状況、そうそうあるものではない。正直不自然。その為、一瞬疑った。これはいつも通りなのではないかと。しかし儚げな雰囲気は感じれど、俺の予想通りだとすれば感じる筈であるものが感じられない。あれは……やっぱりマジでやばいだろ!
歩道を歩いていた俺は一気に加速し、一目散に少女に駆け寄った。階段を上り、少女に接近し、そして腕を伸ばす。――が、俺の腕は彼女の着ている服どころか体の一部にすら触れることなく、通過していった。
「えっ、何で!」
思わず声を出してしまった。
腕が通過した。彼女に触れない。ってことは、やっぱり。
「あなたは私が見えるんですか……?」
驚いた顔で固まったまま彼女が言う。
その声は掠れ、必死に絞り出したようだった。
「えっ、あっ、そりゃ、まあ……って、もしかして君は……!」
俺が驚きの声を出すのと同時。同じく信じられない光景を目の前にしたような顔をしていた彼女のその顔が崩れていった。
「うっ、うー」
「えっ、何で泣いてるの! ……えっ、ちょっと!」
著しく動き続ける事態に俺の頭が処理しきれない。彼女に触れなかっただけでも訳が分からないというのに、彼女の涙は全く止まらないのだから理解出来ないだけでなくどうすれば良いのかこのシチュエーションへの対処法が思い付かない。
そんな中、嗚咽を吐きながら泣き続ける彼女は、絞り出すように何とか言葉を紡いだ。
「ずっと、一人で、怖かった……」
付け加えるように「怖かったんです……」っと再び口を開いてからも相変わらず泣き続けている。
その姿を見ているとどうにも心が苦しくなってくる。
「君はやっぱり幽霊なんだね」
「……そうなんだと思います」
少し時間が経ってから、涙が止まり始めた彼女に質問し、それに彼女は応えてくれた。
小さい時から他人には見えないものが見えてきた。だから今更その存在への疑問や恐怖など微塵も感じることはない。
まさか俺が女子の自殺シーンを見るという人生最大級のトラウマを負うなんて可能性は限りなく低い訳だし、この少女が欄干の上に立った時点で幽霊である可能性は疑った。
でもだとしたら、二つ気になる点がある。
「だとしたら君からは、普通は幽霊から発せられている想念のオーラが感じられないし、そもそもそうなんだと思いますってどういうこと?」
「オーラが感じられないっていうのはよく分かりませんが、そうなんだと思うっていうのは……実は私、死んだ瞬間も含めてその以前の記憶が全く無いんです……」
今度は歩道橋内部に足を伸ばす形で欄干の上に腰を下ろした彼女は、そう言うと上げていた顔を若干伏せた。
「記憶がない……?」
これまで生きてきた中でも例を見ない事象に驚きが隠せない。
でも、それと同時に、
「なるほどね……」
喉に突っかかっていたものが取り除かれるようにすっきりとした感覚を覚えた。なるほど、そういうことか。
一般的に幽霊は恐怖の対象に見られている。それは人間の未知の者に対する本能による恐怖だけではなく、映画、アニメ、小説、漫画。何でも幽霊を恨み辛みの籠もった恐怖の存在として描いてきた所為であり、それら媒体によって人間達が勝手に植え付けられていったイメージだ。
だが、実際に見える俺からしてみればそんなのバカバカしくてしょうがない。
人と幽霊なんて大差ない。何せ、幽霊だって元は人間なのだから。姿形など人間とさして変わらず、恐怖の対象に見ること自体不条理にも程がある。
なら、どうやって見分けるか。それは発せられているオーラで分かる。
言うなれば幽霊とは体と別離した人間その他諸々の生物の精神であり、その精神は普通は時間が経つと成仏するものだが、何らかの強力な未練があるとその精神は成仏することなくこの世に留まってしまう。それを偶々見た人が幽霊などと名前を付けたのだろう。
その未練が何かへの恨みでしかも相当強力となるとそのものに害を及ぼすそうとする一般に言われている悪霊となるが、生きている人間の中にも人を平気で襲うような凶悪な犯罪者なんてそうそういないのと同じようにそんなの希。
大抵は未練といっても、生への未練、人への未練、やりたかったことへの未練などよくありそうなものから、下手したら愛車への未練とか昔食べたものがもう一度食べたいとか、言い方はあれかもしれないがそんな可愛らしい未練ばかりだ。
それら未練は負のオーラ、まあ言うなれば人間が他人に感じるその人の雰囲気と呼ばれるものの強化バージョンで視覚化された薄い膜のようなものとして見えるというか、俺は敏感に感じ取ることが出来るのだ。だから人間と判別出来るのだが、小さい頃は今一それを理解出来なかったものだ。
しかし成長した今は別段困るなんてことは無かったのだが、なるほど、記憶を無くした霊には今まで遭遇したことがない。
記憶がない。前例が無い故に理由は分からないが、記憶がないなら成仏して消えてもおかしくない筈だ。でもそれでも残っているということは、相当の未練があるのだろう。なのに、何も思い出せない。何故自分がここにいるかも分からないのに、ただひたすらそこにいなければいけない。未練があっても、そもそもそれが何か分からないなら感じられる筈がない。彼女から感じられたのは悲しみの感情だけ。執着の感情は見て取れなかった。だから、はっきり見分けることが出来なかった。
「そっか。ずっと一人だったんだね……」
自分が死んだ実感もないのに、更には記憶が無くて何でここにいるか、それにこれからどうして良けば良いか分からない。それだけでも怖いのに、更に誰に話掛けても声を聞いてくれないし、話掛けてもくれなかった。
「はい……十年くらいずっと……」
まだ若干震えた声で彼女が言う。
十年も、ずっと孤独に生きてきた。
俺みたいに幽霊が見えて、更に接することが出来る人間っていうのはかなり珍しいらしい。それを昔ある霊に聞いたし、今までの経験からもそれはもう充分理解している。それに基本的に未練の為に動く霊はその為だけに存在するから霊同士で関わることも少ないらしく、ということは彼女は十年間本当に孤独と恐怖と戦ってきたのだろう。更にその苦しみから解放される為に成仏したくても、それすらもどうすれば良いか分からない。そんなの辛いなんてことぐらい、勿論そんな経験したことのない俺でも充分分かる。
それに、程度は違えど孤独の辛さは俺もよく知っているから。
「その間もずっと思い出せなかったんだ。……ねえ、本当に何も思い出せないの? 何か覚えてることとかは無いの? 名前とか」
「すいません、本当に何も……。名前も思い出せないんです」
「そっか……」
っと話していた所で、ふと彼女の横に移動して欄干に両腕を乗せる。
そのまま真っ直ぐ向けていた顔を下げて視線を橋の下にやると、こちら側に顔を向けて歩道の上で自転車を漕いでいるおじさんと目が合った。そのおじさんははっきりと分かる程訝しげな目を俺に向けている。
はあっ、と溜息がこぼれた。
まあ、そうだよな。いつもの癖で話す声は小さくしていたから聞こえてはいないだろうけど、そりゃ歩道橋の真ん中で誰もいない所を見つめながらわずかとはいえ口を動かして誰かと話している雰囲気を出していたら、怪しく見えても不思議ではない。
いつもはちゃんと周りにも気を配るのだが、今回は色々衝撃的すぎて、そこまで頭が回らなかった。
「ここで話してるのは、あれだね。色々まずいね」
「えっ、何でですか? 別に大丈夫ですよ」
きょとんとした顔で、不思議そうに問うてくる少女。
いや、君は大丈夫だろうけど、俺が不審がられるから。
「いや、君は見えないかもしれないけど、俺のことは周りの人見えるからさ」
「おおっ、なるほど! 全く気付きませんでした」
あれっ、この子意外と天然なの!?
「だから、君と普通に話しても大丈夫な人気のない所いかないと。ってことで、どうしよう……」
っと考えてはみるものの、彼女の今後を考えても、移動すべき場所は一つしか思い付かない。
でも、それは正直な……。言って良いのか?
そんな逡巡する俺を見て彼女は再び不思議そうに顔を傾げた。
「どうしたんですか?」
「いや……その、あれだね。えっと、これは良いのかどうか分からないけど……俺の家に来る?」
「えっ……」
聞いた瞬間、彼女が呆然と固まった。
そっ、その反応はやめてほしい。容姿は幼そうだが、その背丈からして俺達は同い年かそれに近い年齢同士の男女だ。何で固まってるかは分からないけど、いや確かに変な意味に聞こえなくはない言葉だけど、決してそういう嫌らしい考えはない。そもそも君幽霊だし。触れないし。
「いや、何か勘違いしてたら困るから言うけど、単に君がずっとここに一人っていうのもあれだし、誰の目も気にせず話せるって意味で俺の家に来ないかってことだから。変な意味じゃ無いから。……それに君が何で死んでもまだここにいるのか、その理由を探す手伝いもしてあげたいしね」
慌てる俺の弁明を横に彼女は、相変わらず呆然としていたが、しかし数秒語急にぶわっと再び涙を流し始めた。
「えっ、今度は何で泣いてるの!」
「……嬉しいから。そんな言葉をかけてもらえるなんて。それにやっと、踏み出せるから。……私を見つけてくれた人があなたで……」
さっきも充分流していたのに、まだ足りないのか滞ることなく彼女は涙を溢す。拭っても拭っても、顔から雫が消えることはない。でもさっきまでとは少し違う。今度は、今までの想いだけじゃなくて新たな想いを乗せている。
「よろしくお願い、します……」
欄干の上から降りて、ペコリと行儀良くこちらに礼をする彼女。上げた顔はやはりどこか儚いが、それでも雨上がりの花のように輝いて見えた。
その光景は眩しく微笑ましいが、如何せんこれ以上話していると時間に比例して他人の怪しげな目線が増えていく。
「そっか、じゃあっさっさと行こうか。でも、ごめん。あらかじめ言っておくけど、周りの目があるから、人の目が多い所では君と話すことは出来ないから」
「そうですね、仕方ないですよ」
「ごめん」
自然と俺はもう一度、謝罪の言葉を口に出していた。
そうして、二人並んで帰路に着いて歩いている内に辺りに人が少ないのを確認して、彼女が思い出したように聞いてきた。
「そういえば、さっき変な意味じゃないって言ってましたが、あれどういうことですか。さっきの言葉、変な意味で捉えられるんでしょうか?」
「いや、ごめん。さっきのは忘れて!」
なんだ、気付いてなかったのかよ……。ただ嬉しかっただけか。
それに安堵したからか。いや、それだけじゃないな。俺は笑みが溢れているのが分かった。
俺達の一夏限りの物語は、こんな特殊な出会いを経て始まりを告げた。