あの日のイシュタル
ヘルダムド国歴──992年の3月19日、夕方頃。
イシュタルはその日の政務を終えて、自分の側近眷属である紅鱗の女性竜人ミーティアが入れてくれたお茶を優雅に飲んで寛いでいた。
そんな時、ふと思い出したかのようにミーティアがイシュタルに話題を振ってきた。
「そういえばイシュタル様。確か昨日でしたよね」
「ん? 何が昨日なんだ? ミーティア」
「あら、お忘れですか? 確か昨日の早朝頃に、タツロウさんとアイさんがアムネリ大森林の初層に出現したのではありませんか」
「……ん? おおっ! そういえばそうだったな。今は気を抜いていたせいか直ぐに思い出せなかった」
巨大なティーカップをそっと机に置くと、その手をそのまま自分の顎にまで持ってきて思案顔をし始めるイシュタル。
それにミーティアは何となく何を言おうとするのか解ってしまい、渋い顔をした。
「──ふむ、そうか。昨日来たのか………………なあ、ミーティア」
「ダメです」
「まだ何も言っていないだろう」
「どうせ、ちょっと見に行ってみたいと、おっしゃられるのでしょう?」
「私の事がよく解っているな」
「当たり前です。生まれてからずっと、貴女様だけを見てきたのですから」
「……面と向かってそう言われると恥ずかしいものだな」
だが悪い気分ではないと、イシュタルは少し口元に笑みを浮かべて再びティーカップを手に持ち、ほんのりと温かい紅茶を嚥下した。
そして全て飲み干すと、ゆっくりとその場に立ち上がった。
「だが私は行くぞ。この世界に来たばかりのタツロウたちを見てみたい!」
「だからダメですっ! 真竜であり、このイフィゲニア帝国の皇帝たる貴女様が、そんなにホイホイと他国の領地に入ってしまうのは不味いのですから!」
「むぅ。少しくらい良いではないか。
誰にも見られないよう注意して飛んで行けば大丈夫だろう。
危険地帯でもあるアムネリ大森林とて、何も奥地まで行こうというわけでもあるまいに」
「それでもダメです」
「しかし──」
などとどちらも譲らず平行線をたどる話し合いを続けていると、不意に部屋の一角の空間が歪みはじめる。
それに気が付いた二人が口論をやめて歪みをじっと見ていると、そこからプラチナの鱗に覆われた、この世界に現存するもう一体の真竜が現れた。
そう。イシュタルの母、エーゲリアである。
「母上。来るなら来ると連絡ぐらい寄越してくれ」
「あら、別にいいじゃない。今日は、ただのお母さんとしてやって来ただけなのよ」
「娘の所に突如転移してくるのもどうかと思うのだが……まあ、いい。
それで、今日は何しに来たんだ? 私と遊んでくれるとでもいうのか? 母上」
イシュタルのその冗談交じりの言葉に、エーゲリアはクスリと笑うと気取ったように肩をすくめた。
「あら、それはとても魅力的な提案だけれど、今日は少し違うの」
「だろうな。それで?」
「そろそろイシュタルが、タツロウ君たちを見に行ってみたいと言い出す頃じゃないかしらと思って来てみたのよ」
「…………なあ、ここの会話でも聞こえているのか? 母上には」
まさにその事を話していただけに、イシュタルはギョッとしてエーゲリアを見つめた。
それにエーゲリアは「は?」と目をぱちくりさせると、くすくすと上品に笑った。
「そんなわけじゃないでしょ。流石にそこまで悪趣味な事はしないわよ。
………………まあ、やろうと思えば出来るけれど」
「なにっ!?」
「あなたも成長すればその位できるようになるわ。それで話を戻すけれど、イシュタル。
あなたはタツロウ君たちを見に行ってみたいのよね?」
「ああ、そうだ。母上が反対したって私は見に行くぞ」
イシュタルはエーゲリアの前でしか見せない様な、少し子供じみた拗ねたような口調でそう言った。
そして、そんな会話の流れを近くで聞いていたミーティアは、自分の言葉ではなくエーゲリアの言葉なら、最後には聞き入れるだろうと安堵していた。
しかし、エーゲリアはそんな彼女の期待を軽く蹴散らした。
「別に私は反対しないわよ。さあ、行ってきなさい。
その為の許可も私が取っておいたわ」
「お、おお?」「エーゲリア様っ!?」
イシュタルはどういうこと? と戸惑いの表情を。ミーティアは何でそうなった!? と、驚愕の表情を浮かべていた。
「どうしたの? イシュタル。行きたくないの?」
「い、いや、行きたいが……いいのか? 本当に?」
「ええ、いいわよ。ここには私がいてあげるから、パパッと行って見てきなさい」
「──恩に着るぞ! 母上。それじゃあ行って来る!」
「ええ、気を付けていくのよ。驚かせちゃうから、誰にも見られない様に目的地までは高い場所を飛んで行くのよ?」
「解っている!」
エーゲリアの気が変わらないうちにと、イシュタルは取るものも取らず急いで部屋を出て行った。
するとそこに残っているのは、エーゲリアとミーティアだけとなる。
「不服かしら? ミーティア?」
「い、いえ。エーゲリア様がお決めになった事ですので、私に否はありません。
──ですが、どうか教えてください。何故、エーゲリア様はお許しになられたのですか?」
「それはね。ミーティア。あの子とタツロウ君は、おそらくアムネリ大森林で会っているのだと思うわ。それも、ここに来る前にね」
「……そうなのですか?」
「ええ。イシュタルを初めて見た時、タツロウ君だけおかしな反応をしていたから間違いないはずよ。
そしてずっと一緒にいるアイちゃんはそのまま。カルディナちゃん達も初対面の反応だった。
ということは、カルディナちゃん達が生まれる前と言う事。
さらにそれでいて、アイちゃんも見ていないとなると……恐らく夜、互いに襲われない様に見張りを立てて交代で睡眠をとっていたとしたら、例えずっと一緒にいてもあり得るんじゃないかしら?」
「………………確かに。まさか、それだけの情報でそこまで察ししてしまうなんて……。
御見それいたしました。エーゲリア様」
イシュタルと竜郎達が謁見の間で出会った時、エーゲリアは竜郎たちの前にいた。
そして一度も振り返った様子もないのに、誰も気が付かなかった竜郎の微妙な変化に気が付いたことに、正直ミーティアは格の違いを感じざるを得なかった。
「ふふっ。あなたもこれからイシュタルと共に長く生きていれば、この位できるようになるわ。
セリュウスだって、これくらいはできるもの」
「セリュウス様と私を比べられても困るのですが…………いえ、精進致します」
「ええ、精進なさいな。そしてイシュタルを一番近い所で支えてあげて」
「はい。もちろんでございます。では、お茶を入れてまいります。
エーゲリア様はどうか、ごゆるりとおくつろぎくださいませ」
「ええ、そうさせてもわ。ありがとう、ミーティア」
そうしてエーゲリアは、先ほどまでイシュタルがいた柔らかそうな大きな座布団に腰かけ、娘のお土産話を楽しみに待つのだった。
一方。イシュタルはといえば……。
数時間かけて何とかアムネリ大森林までやって来たはいいが、竜郎たちが何処にいるかなど聞いていなかった為に、ずっと森の初層の辺りを空のはるか上から見ながらウロウロしていた。
「いったい、どこにいるんだ? あれだけの力を持っていたら、直ぐに見つけられたはず──っと、そういえば、この頃のタツロウたちは、まだ来たばかりで弱かったのか。
失念していたな……。さてどうするか」
強い存在ならば、まだレベル1の解魔法にも頼ることなく本能的に解るはずだったが、そこいらの存在とほとんど変わらないとなると話は別だ。
これは地道に探していくかと、イシュタルはまた来た道を戻って探し直す事にした。
そして、どうせ夜のこの森をうろついている者など竜郎たち以外いないだろうと、下から見上げれば見える程度の高度まで下がっていった。
そんな事をしていると、すっかり夜も深くなってきてしまった。
イシュタルは解魔法が得意な者でも連れてくれば良かったと後悔しながら飛んでいると、不意に誰かの視線を感じた。
「──ん?」
なんとなくそちらの方へと視線をやると、一人の少年と目があった。
たったそれだけで、その少年──波佐見竜郎は身動き一つ出来なくなっていた。
(……本当にあれがタツロウなのか? 私を倒した男とは、とても思えないぞ。
もしや似た別人……? いや、隣にいるのはアイのようだし、顔の造詣もあんな感じだったはずだ。という事は本当にあの男が……。
この時点ではあの程度の力しか持っていなかったのか。そう考えると、凄い成長速度だな)
イシュタルは感心しながら観察していると、竜郎の冷や汗が大量に出ている事に気が付いた。
(いかんな。せっかく休んでいるのに、これでは疲れさせるだけではないか。
ここで死なれては困るし、そろそろ退散するとしよう。
──ではな、タツロウ、アイ。また数十年後、私の所に来るのを楽しみにしているぞ。
勿論その時はカルディナ達やリア、レーラも一緒にな)
そんな思いを込めてイシュタルはニヤリと笑いかけると、そのまま居城に戻るべく、さっそうと飛び去っていったのだった。
「どうだったかしら? この世界に来たばかりのタツロウ君たちは?」
「信じられないほど弱かったな」
「それはそうよ。まだシステムがインストールされて一日かそこらでしょ?
その時点でイシュタルが強いと感じるレベルだったら、あの時のイシュタルなんか簡単に倒されていたわ」
「解っているさ。ただ、未来のタツロウの方が弱くて、過去に会ったタツロウの方が強いというのは、少し不思議な気分だというだけさ」
「なかなか面白い子達よねぇ。私も長いこと生きていたけれど、こんな経験は初めてだもの。
きっとイシュタルにとっても、今回の事は良い経験になってくれるはずよ」
「ああ。本当に今から先が楽しみだ──」
ちゃんとした形でイシュタルと出会い、そして別れてから竜郎の感覚ではさほどの時も経っていないが、こちらはさらにここから約36年後となる。
その間、イシュタルはこの先の未来にどんな事が待ち受けているのだろうと心躍らせた。
そして当然のことながら、彼女はまだ知らない。
イフィゲニアとは別の系譜の新しい竜王種の誕生。
ニーリナという大英雄の存在を、ほぼそのままに受け継いだ竜の誕生。
そんな竜大陸全土を揺るがすほどの大事件に、この先、盛大に頭を悩ませることになるという事を──。
おそらくですが12月17日(月)に、このレベルイーターの最終話後から始まる新たなシリーズのプロローグと1話が投稿できると思います。
レベルイーターを読んでいなくても、そちらからでも入れるような風に書こうと思っているので(ネタバレ満載なので、そんな人がいてくれるかは不明ですが……)、そちらで最初に登場してくる人物には軽く紹介文が入ります。
こちらの話をここまで読んで下さった方たちなら、分かっている事なのでくどく感じてしまうかもしれません。
なのでその辺りは、ああカルディナの事ね。ああジャンヌの事ね──と適当に読み飛ばして貰っても大丈夫です。
またそちらの更新頻度についてなのですが、今現在完全新作の方の執筆にも乗り出しておりまして、とりあえず完全新作の1章が書き終わるまでは、完全新作の執筆を優先したいと考えています。
なので恐らく週2くらいの更新になってしまうと思いますが、完全新作の方が落ち着けば、もう少しなんとかできないか考えてみます。




