1.プロローグ 1
電車の中、今日も朝からスーツ姿でつり革に掴まり、仕事場へと向かう。
俺の名前は藤原信秀、もうすぐ二十歳を迎える先の見えない派遣社員だ。
「だからさー!」
「嘘っ!? マジで!?」
座席に座る学生達からは元気な声が聞こえる。
その元気を少し分けてくれと思う今日この頃。
そして俺は静かに目を閉じる。
それは、駅に着くまでのわずかな時間でも、昨日夜更かしした分の睡眠を取り返そうとする涙ぐましい努力。
ガタンゴトンと小気味よい電車の揺れが睡魔を誘う。
やがて、揺れが無くなり――右手からつり革の感触すら無くなった。
はて、なんだろうか?
右手の違和感に、俺は目を開ける。
そして思わず、「は?」という間の抜けた声を漏らした。
だって仕方ない。
さっきまで電車に乗っていたはずが、気がつけばそこは真っ白い空間だったのだから。
「ど、どこだよここ!?」
「電車は! 座席は?」
「嘘、ゆ、夢なの?」
俺以外にも人がおり、彼らは一様に驚いている。
目算で百人ほどだろうか。
その中の何人かには見覚えがある。
同じ車両に乗っていた人達だ。
特に騒いでいるのは学生達で、俺含めて数人しかいない大人達は狼狽えてはいるものの、騒いではいない。
年の功……いや、学生達という大集団の中で騒ぐのは戸惑われた、といったところだろう。
他所のコミュニティで自分を出せる者など、そうはいない。
なにはともあれ、俺だけがこの異常空間にワープしたわけではないことに一安心である。
「ホッホッホッ」
しわがれた老人の笑い声がした。
なんだ? と思い、そちらを見る。
当然、俺以外の者も、この非常時に笑っている頭のおかしい者へと視線を向けた。
するとそこにいたのは、白の布切れを纏った、杖をつく白髪頭の老人。
顔の彫りは深く、青い瞳をしており、とても日本人には見えない。
「皆、慌てておるのう」
そしてまた、ホッホッホッと老人は笑った。
「何がおかしい!」
学生の一人が怒りをにじませて叫ぶ。
スポーツ刈りの逞しい体をした男子生徒であったが、なんて馬鹿な学生だ、と俺は思った。
なぜならば、その老人は俺達の中にあって明かな異常者――仲間外れ。
それすなわち、現在の状況があの老人となんらかの関わりがあると考えるべきなのだ。
さらに詳しくいえば、こんなわけのわからない場所に百人近い者達を、一瞬で移動させるなんて人間業ではない。
そんなことができるとすれば、それは……。
「これはすまんのう、ほっほっ」
謝りながらも反省した色はなく、また笑う老人。
これにまた先程の学生が文句を言おうとしたが、すぐ隣の同じ制服を着た同級生と思われる男子に止められた。
やはりそれなりの者は、老人がなにか特別な存在であることに気がついているのだろう。
そして老人が再び口を開く。
「ワシがお主らをここに移動させた」
その発言はダメだ。
まだ老人を特別な存在だと認識していない者には、火に油を注ぐ行為でしかない。
「な……っ! ふ、ふざけんなよ! だったら今すぐ元の場所に戻せ!」
「そうだ! 元いた場所にかえせ!」
ところどころで上がる、元の場所にかえせという声。
今の状況を正しく理解していない者はこんなにいたのか、と嘆息してしまいそうになる。
さて、俺はどうするべきだろうか。
ここであの老人の怒りを買うことは絶対に避けるべきだ。
あの老人が俺達の命運を握っているといっていいのだから。
ではどうするか。
……決まっている、非礼があったならやることは一つしかないじゃないか。
「す、すいませんでしたーーっ!!」
俺は手をつき膝をつき、地面に頭を擦り付けた。
そう、土下座である。
「どうか、数々のご無礼、何卒ご容赦ください!!」
この場にいる誰よりも大きな声で、俺は老人に謝った。
それにより、辺りが静かになる。
頭を地面につけているからわからないが、皆、俺の方を見ているのだろう。
そう考えると嫌になる。
「どうか、どうか、お許しを! お情けを!」
まあ、なんであろうと今は老人の機嫌を損なわないように謝るだけなのだが。
すると「ぷっ」という噴き出した声が聞こえた。
そこからは酷いものだ。
小さな笑いが水面に起きた波紋のように伝搬し、そこら中で笑い声が上がった。
「ちょっ、土下座とか。リアルでやる奴、初めて見た」
「マジかよ、だせえ」
「超ウケるんですけど」
さらに俺を卑下する声もちらほらと聞こえる。
これが若さというやつか。
だが、それでも俺は頭を下げ続けた。
こうなれば大人の意地だ。
そして、学生達も笑うのが馬鹿らしくなったのか、笑う声はすぐに止み、さらに俺へ向かって声がかけられる。
その声は老人のもの。
「頭を上げるがよい」
「は、ははーっ!」
俺は言われるがまま頭をあげた。
「ホッホッ。なに、気にしておらんからお主も気にするな。さっ、立つがよかろう」
「は、はい、失礼します!」
老人のありがたいお言葉。
どうやら懐の深いお方であるらしい。
「ぷぷっ、意味なかったね。ドンマイ」
茶髪の糞ガキのムカつく言葉を聞きながら俺は立ち上がる。
「では、皆も落ち着いたようじゃし、話の続きといこうかのう」
先程の騒ぎが嘘のようにシンとなっていた。
皆も老人の話を聞かなければ、何も始まらないということに気がついたのだろう。
「さて、まずは自己紹介をしよう。ワシは神様じゃよ」
その紹介に皆は唖然となる。
俺も予想こそしていたが、実際に本人の口から言われると、やはり唖然としてしまった。
「か、神様がなんで俺達を……!」
神であると聞いてもなお言及したスポーツ刈りの生徒。
プライドか、それとも神様に対してでかい態度とることがかっこいいと思っているのか。
「ふむ、なんで、か。それはのう、お前達に他の世界で暮らしてもらうためじゃ」
皆の口から等しく漏れた、「は?」という呆けは、神の言葉に対する不理解から来るもの。
そして段々と、その意味を理解する。
日本ではない世界で暮らす、その意味を。
「そんな勝手な!」
「横暴だ!」
そんな端々で上がる不満を、ホッホッホッと笑いながら受け流す神様。
やがて神様に何を言っても暖簾に腕押しと見て、文句を言う声は勢いを弱めていく。
すると、女子学生が「あの!」と一際大きい声で神様に呼び掛けた。
これにより、皆が一斉に静まる。
「い、いつまでですか……?」
「なに、死ぬまでずっとじゃよ」
女子学生の質問に返ってきたのは、皆の神経を逆撫でするような答え。
「ふざけるな!」
その声は一つではなく、多くの者が憤った。
しかし、それでも暴力という手段に訴えないのは、神という肩書きを恐れているから。
語気を強めて文句をいうのは、自尊心を保つためと、先程の件が許されたため。
ここまでならいいだろうという、ラインを張っているのだろうと俺は予想した。
そして神様はまた、ホッホッと笑ってから言った。
「ふざけてなどおらぬ。なにせ、ここにいた者は電車の脱線事故で全員死ぬ予定だったのじゃから」
神様が投下したのは特大の爆弾であった。