嵐を呼ぶ犬
彼は、犬と人の間に生まれた"獣人"と呼ばれる種族であった。
別にそのことをどうとは思わなかったし、父が獣人であることも、母が人間であることも、あるがままに受け入れていた。
異物。
しかし親戚たちは、人とは異なる姿を持った彼とその家族を、そう言って遠ざけた。
そんな中でも、両親は彼を誰よりも愛してくれた。しかし、そんな両親もいつしか憔悴しきって、彼の前からいなくなった。
「……」
―――嵐を呼ぶ犬。
彼はそう呼ばれていた。
そもそもの所以は、彼がまだ生まれる前の出来事からだった。
母につわりが起こるたび、決まって嵐が起こったのだ。
つわりと言ってもそれほど強烈なものではなく、月に二、三度吐き気が起こる程度の珍しい部類にあたるつわりであった。
食べ物は何でも食べられたし、これといって苦痛も感じなかった。
「この子には、何か不思議な力でもあるのかしら」
毎回嵐の日につわりが起こる。つわりの程度のこともあって母親もさすがに不思議に思ったが、それ以上の追及はしなかった。
そうして、彼が生まれた日。
その日も、ひどい嵐だった。
街では、街路樹が根こそぎ倒れ、信号が折れ、交通機関が軒並み止まり、停電が相次いだ。事故も多発し、安否確認もままならない。湿った地面や強風のせいで怪我をする人や、遂には雷に打たれる人まで出た。
そんな阿鼻叫喚の街の中で、彼が生まれた病院だけは被害を免れた。
停電もせず、窓ガラスも割れず、患者も誰一人として怪我をしなかった。
まるで、そこが台風の目であったかのように。
そんな日に生まれた彼は、父の遺伝子を継ぎ獣人として生を受けた。
しかし、獣人という種族はこの世界ではイレギュラーな存在であり、世間からの風当たりは強かった。
両親が憔悴したのには、そういう理由も含まれていたのだろう。
そんな生い立ちを持つ彼は、いつしか己の意志で嵐を呼び起こせるようになっていた。
そうなった経緯は、彼にも分からない。
元々自分にそんな特異な力があることすら、そうなるまで知り得なかった。
しかし、そうと知った時には、まるで息でもするように力を使えるようになっていた。
***
彼が、何気なく道を歩いていたときだった。
「れ……、誰かっ……」
助けを呼ぶ声が聞こえた。
彼は獣人特有の聴力を用い、その音源が近くの路地裏であることを特定する。
「……!」
そうとわかると、身体が勝手に走り出していた。
そして、路地裏に入った瞬間。
彼は、硬直した。
「あ……う……」
そこでは、一人の女が、二人の坊主男に囲まれ、服を脱がされているところだった。
助けを求め、虚ろな瞳でこちらを見るその女は、確かに、「助けて」と告げていた。
「……」
彼は、無意識に憤怒した。
その卑劣な行為に。
あるいは、その行為を働いた男たちに。
その憤怒が、彼の特異な力を引き起こした。
快晴であった空に、黒雲が立ち込める。
程なくして、遠くから雷鳴が聞こえてきた。
「何だ?」
「雨?」
やがて、雨が冷たく大地を叩き始める。
それは、それほど時間を置かずに激しさを増していった。
「……」
彼は、不可思議な現象に慄く二人の男へ意識を集中する。
風がうなり、雨を強く凪いだ。
雨は激しさを極め、彼の毛皮を強く叩く。
「ひ、い……」
「あ、う、うわあ……」
彼の周囲に、遂に暴風が吹き始めた。
事の奇怪さに気づき、二人の男は恐怖の表情を浮かべる。
―――そして、彼の憤怒は頂点に達した。
「アオオオオオオオオオオォォォォン!!!」
嘶きがこだまし、辺りに一層強い雷鳴が轟く。
風は乱暴に吹き荒れ、雨は激しく大地を打つ。
「ひいいい!!」
「た、助けてくれえ!!」
遂に恐怖に耐えられなくなった二人の男は、情けない叫び声を上げて路地裏から飛び出していった。
「フゥ……フー……」
未だ鎮まらぬ怒りを呼気に乗せながら、彼は肩から力を抜く。
そうすると、雷鳴も、風も、雨も、全てが幻想であったかのように、ぴたりと止んだ。
「……」
いつの間にか服装を正した女が、こちらを見る。
その瞳は、明らかな恐怖を湛えていた。
「……」
女は、何も言わず彼の横を逃げるように走り去る。
彼は、その背中を見ようとはしなかった。
「ふー……」
毛皮から冷たく雫が滴る。
呼気には、もう何の感情も乗っていなかった。
所詮、自分は人ならぬ存在なのだ。
あの女は、人間として当然の反応をしたのだ。
自分は、この世の異物なのだから。
彼は、まるで何かに導かれるように、路地裏をあてもなくふらふらと進んだ。
やがて、どこか薄暗い、鉛色の雲が垂れ込める場所へ出た。
誰もいない、陰湿な雰囲気を持った場所。
「……」
彼は、濡れた毛皮も意に介さず、ただそこを見つめた。
陰湿な場所。
誰もいない、暗い場所。
「……」
その場所を見つめるうち、彼の心も静かになっていった。
「……」
嵐を呼ぶ力を持った、獣人。
半分が人間で、半分が獣。
人ならぬ存在。
そんな異物がいるべき場所は、ここである気がした。
今までに決まった棲み家があったわけでもなかったので、好都合だった。
それから彼は、長いことそこで暮らしている。
人も獣も寄り付かぬ、陰湿な場所で。
天候にも、心にも、もう二度と、嵐を呼ばぬように。