第一章『出会い』-2
「あぁ、そうだ。倒れたには倒れたけどお前が言うような症状はない」
声が聞こえた。聞きなれない、でも聞いたことのある優しい――だけど、低い声。
「……そうか、疲労だな。じゃあ病院には連れて行かなくていいのか?」
どこか不安そうな声はまるで彼の優しい性格を表しているようで、どこか微笑んでしまうような気さえする。
「あぁ、分かった。ちゃんと目を覚ましたら親の所に帰すよ……いや、そのギャグは面白くない」
そこで、会話は終わった。
一人の声しか聞こえなかったそれは電話だったのだろう。目を覚まし、首だけ動かしてかなえが声のほうを向けば、携帯電話を閉じた彼が見えて――
二人の視線が、交り合う。
どこか朦朧とするそれと、感情を見せないそれ。
かなえはとりあえず、思ったままのことを口にするとこにした。
「……あの、なんで仮面被ってるんですか?」
彼は、仮面を被っていた。白の下地に赤と青、そして黄色で模様が成されたそれはサーカスに出てくるようなピエロのように思えて、どこか微笑ましさを感じる。
「……趣味だ」
「そうですか」
頭の働いていない彼女は普通にそう答え返して「あの」と続ける。
「ここ、どこですか?」
「俺の家だ」
「どうして私、ここにいるんですか?」
「俺が連れてきたからだ」
「……誘拐?」
「子供に興味はない」
「ひどい……」
「興味を持たれたいのか?」
「……」
よくわからないままとりあえずフルフルと首を横に振るかなえ。彼は特に会話に興味を抱いていなかったのだろう。「そうか」と端的に頷くと、立ち上がる。
そのまま何も言わず部屋を出ていく彼をぼーと眺め、次いでかなえは周りを眺めた。質素な感じの部屋。あるのはテーブルとタンス、そして彼女が眠るベッド。そして一台のパソコン。趣味を断定するのが難しい、どこか寂しい部屋は妙に悲しい気持ちをかなえに与える。
そんな中で、彼女が思うのはどうして彼に対して恐怖を覚えないのかということだった。
知らない人、知らない部屋、奇妙な仮面。怖がるには要素が揃うに揃ったこの状況で、かなえは怖がるどころかむしろ安心感を抱いていた。
彼が自身に危害を加えるなんてない――
信頼していい――
そんな、根拠のない想い。
いつも友人から、ボーとしてると指摘されるかなえでも、流石にこんな状況なら危機感を抱いてしかるべきなのに、彼女にはそれがなくて――
「どうして、なんだろ……」
か細い声に答えるモノはなく、音は静かに虚空へ消える。
代わりに思い出すのは――気を失う前のこと。
未だ曖昧な思考は若干もやがかかったようにかなえの脳に一番近い記憶を映し――けれどそれはそんな状態でも痛かった。
水にぬれた原稿――
壊れてしまった、彼女の夢。
そんな悲しい思い出に、でも、温もりがあった。
そんな彼女の夢の残骸を、雨に濡れながら拾い集めてくれた人。
顔を覚えてはいなかった。
でも――優しさは覚えている。
感情がうかがえない、けれど温もりのあるあの低い声を覚えている。
そして、倒れた自身を支えてくれた腕の体温を、彼女は覚えている。
そんな彼に、かなえは言った。
曖昧な意識で、だがはっきりと――
「帰りたく、ないな……」
そんな自分勝手な独白を思い出し「あれ?」と気付くかなえ。
「……もしかして」
(だから……?)
答えに行き着いた彼女。と、ドアが開かれ仮面の人が部屋に入る。その手にマグカップを持って。
湯気の立つそれには温かな飲み物が入っているのは明白で、無言で渡されたそれをかなえが見れば中には黒々とした液体が入っていた。
「……飲んでいいんですか?」
「いらないのか?」
「いえ、いただきます」
「そうか」
淡々とした会話。かなえは初めて飲むそれにドキドキしながら口を付け――せき込んだ。
舌を襲ったのは、異常な苦み。
反射神経を伝達して脳に届いたかのようなそれは一気にかなえを現実に引き下ろす。
かなえは激しくせき込むと、これを渡してくれた仮面を見た。目しかまともに見れないその仮面は正に仮面の役割を果たし彼の感情を伺わせない。
「……これ、なんですか?」
「? コーヒーだ」
「違いますよ。コーヒーってもっと甘いモノですもん」
「……それはカフェオレのことだろう?」
「カフェオレはコーヒー牛乳でしょう?」
「……」
「……」
噛み合わない二人。
だが、彼のほうは何か理解したようだ。一人頷き、手を差し出す。
「……なんですか?」
「カップを」
「? はい」
再び彼は部屋を出ていく。が、今度はすぐに戻ってきた。
そして再度渡されるマグカップ。かなえは手に取り、見慣れたそれに頷いた。
中に入っていたのは先の黒々としたそれではない、クリーム色の飲み物。母がいつも朝に用意してくれるコーヒーだった。
かなえは一口飲み、「うん」と頷く。
「これがコーヒーですよ」
「……はぁ」
「え? なんでため息つくんですか?」
「いや。まぁ強いて言うなら全世界のコーヒー愛好家のために、といったところか」
「……よく意味が分からないです」
「つまりキミが子供だということだ」
「……子供じゃありません」
「俺にとってコーヒーをブラックで飲めない人間は概ね子供だ」
「子供じゃないもん」
何度も子供と言われ頬を膨らませるかなえ。彼女は憂さ晴らしのように一気にコーヒーを飲み干すと、「ありがとうございました」とカップを彼に帰した。
受け取り、彼はまじまじと仮面越しにかなえを見てくる。
どこか呆れているように思えるのは彼女の気のせいなのか。彼は何も言わず、再び部屋を出て行った。
そして、三度目の帰還。その都度彼はその手に何かしら持ってくるのだが、今回のそれにはかなえも目を見開いていしまう。
だって、そこに一枚の紙があったから。
若干にじんでいるモノの、まだそれが絵であることが判別できるそれはかなえが描いたもので――
差し出されたそれを、彼女は怖がるように慎重に手にとって――ギュッと胸に抱きしめた。
それは――彼女の夢そのものだから。
大切で、かけがいのないモノ。
「すまない」
その声にかなえが彼を向けば、仮面は無感情のまま言葉を紡ぐ。
「他も乾かしてみたが、何とかなったのはそれだけだった」
その声は、どこまでも無感情なのに――
どうしてか、かなえにはそう思えなくて――
「ありがとう、ございます」
微笑んで言えば、仮面は驚いたように震えて、そんな彼に、かなえは花の咲いたような笑顔で応える。
「私の夢を、助けてくれて」
「……」
それは、もしかしたら気のせい。
でも、かなえは確かに見た気がした。仮面の彼が、ふっと微笑んでいた顔を。
「キミは、変わった人間だな」
「そうですか?」
「あぁ。見ず知らずの人間に連れられ、知らない場所に寝かされたうえ、こんな仮面を被った人間に御礼まで言う。微笑んでさえくれる」
「変わっているよ」と彼はもう一度言った。
「いいえ」とかなえは返す。
「変わってなんていませんよ。だって――人に助けてもらったら御礼を言うのは当たり前じゃないですか?」
「それに」と彼女は続け、
「あなたはとっても優しい人だもん」
「……どうして、そう思う?」
「だって、私の夢を助けてくれた。私の願いを聞いてくれた」
「……覚えがない」
「『帰りたくないな』」
「……」
「私がそう言ったから、ここに居させてくれるんでしょう?」
答えはない。
肯定も――否定も。
だから、かなえは微笑む。
ありがとうという想いを込めて。
「私、南かなえって言います」
「はじめまして」と彼女は手を差し出した。
「……」
「……」
「……」
「はじめまして!」
「……はぁ」
ため息は、諦めの証。
根負けした彼は仮面のまま手を差し出して、
「はじめ。西はじめだ」
かなえは、その手を握る。その手はひどく温かかった。