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潮待ちのレール ― 宿火の庭 ―  作者: たむ


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第五章 庭をあずかる娘

 庭を守ることと、庭をあずかることは、少し違うのかもしれない。


 守るという言葉には、今あるものを崩さない響きがある。

 石の位置を変えない。

 木を枯らさない。

 縁側を傷ませない。

 それはもちろん大切だ。

 けれど宿の庭は、ただ保存されるためだけにあるのではないだろう。

 風が通る。

 火の気配が残る。

 人が少し長くほどける。

 そうした時間を受けながら、庭は少しずつ季節のほうへ開き続けている。

 だから本当は、庭は“守る”だけでは足りない。

 外で受けたものを少し遅く宿へ馴染ませる場所として、その働きを毎日あずかっていく人が要る。

 第十二作のここまで来て、汐里はまさにその役目へ近づき始めているのだろうと、湊は感じていた。


 翌朝、庭には薄い陽が差していた。

 晴れているが、光はまだ春の盛りほど強くない。

 縁側の板に落ちる影も、冬のように硬くはなく、かといって完全にやわらかくもない。

 その半端なやわらぎが、いかにも三月の宿火の庭らしかった。

 火鉢は昨夜の炭を片づけられ、縁には灰の匂いだけがわずかに残っている。

 火は消えても、すぐには終わらない。

 その遅れ方を、庭もまた静かに持っているのだろう。


 汐里は朝の片づけを終えると、庭に小さな桶と布を持って出た。

 手水鉢の縁を拭き、縁側の端を軽く磨き、火鉢を置いていた場所の灰を整える。

 掃除に見える。

 けれどそれだけではない。

 昨日までそこにあった火の時間を、消してしまうのではなく、次の火がまた自然に置けるように整えている。

 その手つきを見ていると、彼女はもう庭をただ“きれいにしている”のではなく、庭の時間を次へ渡す人になり始めているのだと思えた。


「相沢さん」

 彼女が手を止めて言った。

「はい」

「私、少し分かってきたかもしれません」

「何がですか」

「庭って」

「ええ」

「一回ごとに完成させる場所じゃないんですね」

「……」

「火を置いて、風が通って、人が座って、また片づけて」

「はい」

「そのたびに終わるんじゃなくて」

「次のぬくもりのために残しておく」

「そうです」

 湊は深く頷いた。

 それは第十二作の本質にかなり近い気がした。

 一回ごとに完了しない。

 少しずつ残し、少しずつ整え、次の人や次の季節へ渡す。

 庭とは、そういう連続の場所なのだろう。


「母も」

 汐里が言う。

「ええ」

「こうやってたんでしょうね」

「かなり」

「“今日は終わり”じゃなくて」

「次の火や、次の風のために」

「はい」

「それって」

 彼女は少し笑った。

「宿そのものと同じですね」

「本当に」

 湊も笑った。

 部屋も、帳場も、橋も、坂も、待合も、みなそうだった。

 春口では、一つの出来事がきれいに完了して終わることは少ない。

 少し残り、少し遅れ、次の時間へ渡されていく。

 庭もまた、その原理の中にあるのだろう。


 昼前、篠原が持ってきたのは、宿に勤めていた古い女中の回想だった。

 そこには澄江の仕事ぶりが細かく記されているわけではない。

 だが庭について、ひどく印象的な一文があった。


 ――おかみさんは庭を“片づける”と言わず、“戻す”と言っていた。

 ――火鉢のあとも、風のあとの落ち葉も、ただ消すのでなく、庭の元の遅さへ戻すのだと言った。

 ――そうすると、次の人が来ても急がない庭になるのだと。


「戻す」

 汐里が低く読む。

「それですね」

「ええ」

 湊が答える。

「片づける、よりずっと近い」

「庭の元の遅さへ戻す」

「……」

「母、ほんとうに分かってたんですね」

「かなり」

 篠原も頷いた。

「この一文は大きいです」

「どうして」

「庭は、ただの背景ではなく」

「はい」

「宿の速度を調整する場所だったことになる」

「そうですね」

 その言葉で、第十二作の庭がさらに明確になった。

 宿の速度を調整する場所。

 人が外から持ち帰った風やぬくもりや、言葉にならないものを、そのまま部屋や帳場へ押し込まないために、いったん遅くする場所。

 澄江はそれを知っていて、庭を“戻して”いたのだろう。


 午後、汐里は実際に火鉢を置く位置を少し変えてみると言った。

 ほんの半歩ぶん、縁側の中央寄りへ。

 台所の火の気配と庭の風の混ざり方を、自分の手で探ってみたいらしい。


「母と同じでなくてもいいと思って」

 彼女が言う。

「ええ」

「でも、同じ庭をあずかるなら」

「はい」

「自分でどこがいちばん遅くなれるかは、知っておきたいんです」

「それは」

 湊は静かに言った。

「かなり大事ですね」

「庭の人になるって」

 汐里は少し照れたように笑った。

「たぶん、そういうことですよね」

「そう思います」


 火鉢を少し動かすだけで、庭の空気は確かに変わった。

 風の抜け方。

 縁側の板に残るぬくもり。

 台所からの音の届き方。

 ほんのわずかな違いだ。

 だがそのわずかさの中に、宿の時間の質があるのだろう。

 汐里は火鉢の前にしゃがみ、しばらく何も言わずにその変化を確かめていた。

 その姿を見ながら、湊は彼女がもう母の仕事を「知る人」から、「自分の手で調える人」へ移り始めているのを感じていた。


「どうですか」

 湊が訊く。

 汐里は少し考えてから答えた。

「こっちのほうが」

「ええ」

「人が庭へ出たとき、火の気配に気づくまでが少し長い気がします」

「それがいい?」

「はい。すぐに“あたたかい”より」

「……」

「先に庭の空気があって、そのあとで火が分かるほうが」

「急がなくていい」

「そうなんです」

「第十二作ですね」

 湊が言うと、汐里は頷いた。

「かなり」


 その感覚は、彼女自身の宿の作り方でもあるのだろう。

 すぐに答えを出さない。

 すぐに役目を押しつけない。

 先に場所の空気があり、そのあとで火や灯りや言葉が届く。

 橋、坂、待合を通ってきた汐里が、庭においても同じように“急がせない宿”を作ろうとしているのが分かる気がした。


 夕方、近所の男が帳場へ寄った帰りに、汐里が「庭のほう、少しどうぞ」と声をかけた。

 男は用事は済んでいるのに、言われるまま縁側へ出た。

 火鉢のぬくもりは強すぎない。

 庭の影はまだ完全には落ちきっていない。

 男は少し腰を下ろし、「今日は風が高いな」とだけ言った。

 それ以上は何も言わない。

 だがその短い時間の中に、庭がちゃんと仕事をしているのが分かる。

 火の気配。

 風。

 まだ明るさの残る庭。

 それらが、男を“ただ帰る人”から、“少しほどけてから帰る人”へ変えているのかもしれなかった。


「いまの」

 男が帰ったあとで、湊が言う。

「ええ」

 汐里も頷く。

「よかったですね」

「はい」

「どうして」

「何も特別なことをしてないのに」

「ええ」

「庭が少し先にその人を受けてくれた感じがしたので」

「そうですね」

「母がやっていたことって、こういうことだったのかもしれません」

「かなり」

 湊は答えた。


 夜、庭にはもう火そのものは見えなかった。

 けれど縁側へ近づくと、昼や夕方より少しだけ冷たさがやわらいでいる。

 その“目には見えない残り方”が、宿火の庭らしかった。

 明るくなくても、ぬくもりは仕事を続けている。

 人の心も、たぶんそうなのだろう。

 はっきり前向きにならなくても、急がなくてよい場所を知っただけで、立ち方や戻り方が少し変わる。

 第十二作は、その遅い変化を描く巻なのだと思えた。


 ノートには、その夜こう書かれた。


 ――庭を守るだけではなく、庭をあずかること。

 ――火の位置を少し変え、庭の遅さを次の人のために戻しておくこと。

 ――澄江はそうして宿の速度を調えていたのだろう。

 ――汐里はいま、母の庭を理解するだけでなく、自分の庭として働かせ始めている。

 ――第十二作で、彼女は“宿を守る娘”から“宿の時間を育てる人”へさらに進んでいる。

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