批評家とは誰なのか ーハロルド・ブルームと北村紗衣ー
最近、AIと哲学・文学・歴史について議論するのが趣味になっているのだが、その途中でAIがハロルド・ブルームの名前を出してきて、内容的に面白そうだったので、「聖なる真理の破壊」という本を買って読み始めた。
ハロルド・ブルームはユダヤ人でユダヤ教に深い影響を受けているので、ユダヤ教の話から始めている。正直、(ユダヤ教の細かな理屈の話しされてもあんまりなあ…)と思っていたので気乗りしなかったが、読んでいるうちに(ああ、そっちに行くのか。それならいいな)と思った。
どういう論旨を展開しているかというと、ブルームは旧約聖書のエレミヤ書に注目している。エレミヤ書には預言者エレミヤの言葉が載っているのだが、エレミヤは神であるヤハウェに対して恨みつらみの言葉を述べている。ブルームはこの点を強調している。
正直、私はまだ最初の十数ページしか読んでいないのだがその時点で(ああ、いいな)と思った。何がいいかと言うと、ブルームが、旧約聖書という聖典中の聖典の中に主客の分裂を認めている事だ。
まだブルームについては読み始めたばかりだからわからないが、おそらくはこの分裂の認識こそがブルームの批評の核心にあるのだろう。
ブルームが旧約聖書という固定化され、一つの完全な形態として見る事しか許されていない書物の中に、明白な分裂を認めているという事はまさにブルームが批評家である事を示している。
また、見方を変えれば、神を呪いつつも、神に従わなくてはならなかった、エレミヤや、ヨブ、キリストといった聖書中の人々もまた批評家的な精神を持っていたと言える。
私がここで「批評家」という言葉で言わんとしているのは、対象に対して深く帰依しつつも、自己と対象との違いを認め、時に対象に抗い、時に対象に従うという、そうした葛藤を行う精神の事だ。
ブルームが旧約聖書をそのように読むという事は、私のようにユダヤ教とは何の関係もない人間に対しても、旧約聖書という本を「開いて」くれたと考える事ができるだろう。
というのは固定化された聖典というのはもう意味が決定されていて、いるのはまわりの信者ばかりであり、彼らは聖典とそこから導き出される答えを確定的に知っており、私はもう旧約聖書にもユダヤ教にも一切入る事を許されていない。聖典に対しては解釈は不可能である。聖典には従うしかない。
しかしブルームのような読みをするという事は、古典をもう一度、その当時の活き活きとした葛藤に連れ戻すという事でもある。そこには確かに生の闘争があった。神と人との対立があった。
ブルームが旧約聖書を読むという事は、もう一度、時の懸隔を越えて、この、神と人との葛藤を我が物として考えるという事である。そして、今を生きる私もその書物を活き活きとした自分の物語、自分の可能性として読む事ができるようになる。ブルームが批評する事によって、その可能性が開いたのだ。
この分裂、対立と共に和合を目指す、生きた精神こそが批評家の本質であろう。
それと比べると、以前から批判している北村紗衣のような人はそもそも批評家ではない。
北村紗衣のような人物は、まずシェイクスピアという聖典を権威として固定化する。そうしてその内容には切り込まず、周辺をぐるぐるとまわり、言ってみれば近衛兵である彼女ら研究者もシェイクスピアという権威の一端を貰い受けているかのような顔で、素人を威嚇する。
こうした人々は、ブルームのように、例えば、シェイクスピアの中に分裂を認めない。こうした研究者からすると、対象は固定化された聖典である事が望ましい。
これらの人々は、聖なる建物を守ってる門番になぞらえられるだろう。彼らは中に入らないし、自分達も入る事はできない。彼らは芸術とも文学とも縁がない。
しかし彼らはそれだけではなく、素人が、自らの理解や直感で文学と芸術とかいう建物の中に入ろうとするのを押し止める。彼らは自分達がその本質を理解できないだけではなく、本質を理解しようとする人間を疎外する。
なぜならどのような素人でも、自らの精神と知力で作品を深く読む事ができて、それは権威と何ら関係ない事が証明されれば、大学や研究者という権威で食っている彼らからすれば不都合だからである。
このようにして彼らは芸術の門番の役割を果たす。彼らは自ら中に入らないし、他人をも入らせない。そうしてこのような人を崇拝する人々もまた、芸術の中に入り込む事はない。彼らは門番が着ているきらびやかな装備や佇まいに惚れ惚れとしているだけなのだ。
こうした研究者からすると聖典は静止した固定的なものであるのが望ましい。その作品が生き生きとした作品であっては困るのである。
例えばシェイクスピアが神の如き権威だとすると、自分達シェイクスピア研究者は、その一つ下の段に座っている。そうしてシェイクスピア研究者ではない下々の者は、それよりはるか下の段で蠢いている。このようなヒエラルキーがある事が望ましい。
もちろん、文学の歴史を考えると、文学はそのようなものでは全くない。文学は個々の魂に宿るものであるから、そのようなヒエラルキーを軽々と越えてきた。しかし研究者らにとってはそうではないから、彼らは自分達の作品理解が固定的であるのと同様、自分達が研究している相手もまた固定的で、死んだ存在であるべきだと願っている。そうでなければ、自分達の地位も危ういからだ。
※
ブルームについての言及が中途半端になったが、批評精神とはそのようなものだろうと思う。
批評とは、対象を意識しつつも、同時に自分を意識する事である。自分が対象とは違う存在であるという事だ。
対象は自分に対して問う。「何故あなたはそうなのか?」と。しかし、批評家も対象に対して問う。「何故、あなたはそうなのか?」
小林秀雄は批評というものを「他人をダシにして自分を語る」事と言った。この言葉は随分と誤解されてきたように思うが、ある意味でこの言葉を正当に行使して、自分語りをする「批評家」も随分と増えてきたようだ。
しかし自分語りをする批評家らの言葉はまず、ただの自分語りであって、対象との間にいかなる関係をも持っていない。あるのは表面的な関係だけだ。(どこで読んだか、いつ読んだか、誰に教えてもらったか等)
小林秀雄の批評はそのような一方的な自分語りではなく、自分を語る事が対象を語る事になり、また対象について語る事が自分を語る、そこまで対象と自己との魂間の対話を深めたものとなっている。
無論、小林秀雄も完全な天才ではないから失敗作もあるが、例えば小林のアルチュール・ランボー論は小林秀雄という魂とランボーの魂の対話、その融合という形で、小林秀雄の作品の中でも特に美しい批評になっている。
批評というのは日本という国の伝統でも「守破離」という言葉がある。これなどは批評の極意を語っていると言ってもいいぐらいだ。
批評はこのように分裂しつつも統合し、輪舞しながら進んでいく精神の前進運動である。この前進運動が全くわからない人々が批評家のような顔をする事はいつの時代でもあったし、今の時代でもそれは起こっている。そういう意味において北村紗衣のような人は古くて新しい現象である。
また北村紗衣がなにかにつけ自分の権威を誇らないと気が済まないのも、内心では自分が文学とか芸術とかいう建物に全く入る事ができていないというのが無意識的にはわかっているからだろう。つまり、このような人々は深い部分では自己が対象から疎外されているのを感じているので、権威という形で表面的な関係をみせびらかしていないと不安で仕方ないのだ。




