陸:呪術師の気配
扉を開けると、その向こうは霧に包まれていて景色が全く見えなかった。
「この先は、現世と繋がっているが、絶対に真っ直ぐ進むこと。一歩でも逸れると、二度と帰って来られなくなるからな」
琥珀はそう言いながら、碧羅の手首を掴んだ。
「嫌かもしれねぇけど、不慣れなうちは本当に危ねぇんだ。少しの間我慢してくれ。念のため言っておくが、ここで新人の手を引くことはセクハラに該当しねぇって、ちゃんと規則でも決まってるからな」
言うや、彼は碧羅の手を引いて歩き出した。
薄い闇が広がるそこを少し歩くと、碧羅は名を呼ばれた気がして視線を滑らせた。
「……お父さん、お母さん……?」
闇の向こうに、人間だった時の両親が、何か言いたげな顔をして立っている。
「見るな。幻だ。そうして惑わせて、誘い込むんだ」
琥珀の冷静な声で我に返り、碧羅は軽く頭を振って再び前を向いた。
視界の隅で、和服姿の青年が両腕を広げて立っているのが見えたが、もうそちらは振り向かない。
「……琥珀さんは、鬼になって長いんですか?」
「んー? まぁ、現世で数えると五十年くらいかな。鬼の中じゃあ、まだまだ新参だよ。現世警護課では碧羅が来るまで下から二番目だったんだ」
勤続五十年で新参とは、鬼として一人前になるまでにはどれだけ時間がかかることやら。
「俺は新参だけど、現世管理課だと蘇芳さんと玄さんの次に攻撃力があるから、そういう輩の対処に駆り出されるんだ」
「へぇ、凄いですね」
率直な感想を溢すと、琥珀は得意げに笑い、それから不意に自嘲気味に視線を落とす。
「まぁ、蘇芳さんが強すぎて、三番手っていっても他の大きな部署と比べると十番手レベルなんだけどな」
「蘇芳さんって、そんなに強いんですか?」
「ああ、蘇芳さんは、現世部の部長より強いんだぜ。本来なら課長に収まってるようなひとじゃねぇの」
「それなのにどうして課長でいるんですか?」
「蘇芳さんは責任ばかり増やされたくないから昇進を拒否してるって言っていたけど……俺は、別の理由があるんじゃねぇかと見ている」
責任を負いたくないから昇進を拒否するというのは、現世でもよく聞く話だ。
まさか地獄でも同じ話を聞くとは思わなかった碧羅は目を瞬く。
「別の理由?」
「ああ。まぁ、ただの予想だけどな……っと、そろそろ抜けるぞ」
琥珀の言葉通り、霧が少しずつ薄れてきた。
「……よし、幻惑の路を抜けた」
完全に霧の中から出ると、目の前には手入れの行き届いた日本庭園のような景色が広がっていた。
「ここは……?」
初めて来たが、どことなく見覚えのある場所だ。
そして、空の明るさからして、おそらく夕方だ。
地獄を出た時は夜の九時過ぎだったが、次元を異にする関係で時差もあるということだろうか。
「……あ、ここ、もしかして神奈川の有名なお寺じゃ……」
見覚えがあったのは、死ぬ前夜に見たバラエティ番組で、芸能人がロケに来ていたからだ。
「そう、今回はこの寺の鐘楼の門が出入り口に繋がってたみたいだな」
琥珀が振り仰ぐと、確かにそこは大きな鐘が吊るされている鐘楼があった。
「今回はって、毎回変わるんですか?」
「ああ、現世と冥府は次元の違う場所にあるからな。常時繋がっている出入り口もあるが、そこを使うのはリスクがあるから、よほどの緊急事態の時でないと使わない」
「リスク?」
「固定の出入り口だからな。そこを開けると、三途の川を渡る前の魂が、逆走して現世に戻ろうとしちまうんだ。だが、その時には大体肉体はもう処分されていて生き返ることはできない。そうなると、行き場を失った魂は、霊体となって現世を彷徨うことになる」
つまり幽霊になるということか。
「そうなっても、良いことなんて一つもねぇからな」
「……固定されていない出入り口っていうのは、どこに出るかわからないんですか?」
「ああ、だがまぁ、基本的には人気のない廃墟とかに繋がることが多い。万が一人間と遭遇しても、普通の人間には鬼は視認できないから問題ない」
「なるほど」
「まぁ、稀にどこぞのカラオケの奥のトイレとかに繋がることもあるから、どこに繋がっても驚かないように覚悟しておいた方がいいかもな」
それは確かに、意外すぎて驚くだろうな。
男子トイレに出たら嫌だな、なんてことをぼんやり考える碧羅である。
「……さ、行くぞ。呪術の気配を辿る」
「はい!」
息を呑んで、琥珀が何やら術を発動したのを見守る。
「……思ったより近いな。こっちだ」
言うや、琥珀は宙へ足を踏み出した。
その足は虚空を踏み締め、体がふわりと舞い上がっていく。
「へっ?」
「ほら、何してんだよ。早く来い」
「え、いや、鬼って飛べるんですか?」
「あー、そっか。碧羅は鬼になったばかりだったか。飛ぶっていうか、妖力を脚に溜めて、見えない階段を上がるイメージで歩くんだよ」
妖力を脚に溜める、と言われても、碧羅はそもそも妖力が何なのかわからない。
とりあえず脚にぐっと力を入れて見えない階段を登ろうとするように右足を持ち上げると、何もないはずのそこで足が止まった。
左足を地面から離しても、右足が地面に落ちることはない。
「っ! 凄い! 浮いた!」
「慣れるまでは脚に意識を向け続けろよ。気を抜くと落ちるからな」
そう言いつつ、琥珀が手を差し出してくれたので、その手を借りて彼が進む方へついていくことにする。
生前恋人もいなかった碧羅にとって、異性と手を繋ぐなど幼稚園以来のことで、変にドギマギしてしまうが、彼の言葉通り、油断すると階段を踏み外すように片足がずり落ち、空中で転びそうになってしまうため、結局それとは別の意味で緊張することになってしまった。
何度も落ちそうになったが、その度に琥珀が手を引いてくれたので墜落は免れることができて、碧羅は心底ほっとした。
「近いぞ。あの島だ」
「あれって……」
神奈川でも屈指の観光地として有名な島だ。
本土とは橋で繋がっており、行き来も簡単であるため、休日は大変人で賑わう。
実際、夕方の今でもかなりの人が橋を歩いているのが見える。
「……裏側の岩場だな。急ぐぞ」
琥珀が手を強めに引き、宙を駆け出す。
碧羅も懸命にその後に続いた。
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