参:地獄見学
果たして地獄は、碧羅の想像を軽く超えるものだった。
鬼の労働環境についてコンプライアンスがどうのこうの言っていたくらいなので、地獄とはいえそれほど過酷ではないのではないかと思っていた碧羅だが、目の前の光景には言葉を失った。
橋を渡り切った場所はかなり高いところだったようで、地獄の景色を一望することができた。
眼下に広がるのは赤黒い岩肌が露出した果てしない峡谷で、所々煙が上がっており、彼方此方でマグマのようなものが噴き零れているのが見える。
そして悲鳴と絶叫、嗚咽と謝罪の言葉がどこからともなく、幾重にも響いてくる。
「驚いたか?」
「ええ、まぁ……でも、古い絵巻とかの地獄絵図って、まさにこんな感じですよね」
「ああ。地獄は古い習慣を大事にしているからな」
「こっちはコンプライアンスがどうのこうの言われないんですか?」
思わずその疑問を口にすると、蘇芳は真顔で頷いた。
「ああ。この魂の禊をしっかりやらず、中途半端な状態で輪廻転生の環に入れようものなら、その瞬間に天使が血相変えて飛んできて、ちゃんと禊をしろと怒鳴り散らされる羽目になる」
「鬼の仕事と、禊の過酷さはまた別なんですね」
「当然だ。こっちは仕事。あっちは贖罪だ」
蘇芳の話によると、生前に犯した罪によって、禊の種類やこなす量が変わるらしい。
しかも既に死んでいるので、どれだけ過酷でも死ぬことはない。そのため、閻魔大王によって個々に定められたノルマをこなすまで、延々とそれが続くらしい。
寧ろ、それによって、己の犯した罪がいかほどかを思い知ることが大事らしい。
しかも、それで禊をこなしたとしても、人間には転生できず、まずは単細胞生物から徳を積み直すことになるのだそうだ。
「地獄の禊は全部で八種類ある。等活禊、黒縄禊、衆合禊、叫喚禊、大叫喚禊、焦熱禊、大焦熱禊、無間禊……」
聞き慣れない単語の羅列に、碧羅が戸惑いつつ頷く。
蘇芳はそんな碧羅を横目に、橋の横に並んで止められていた屋根の無い馬車のような車輪付きの大きな箱を示した。
「乗れ。地獄は広いからな」
「は、はい……でも、これ、何が引くんですか?」
馬車はあるが馬がいない状態だ。
と、蘇芳はパチンと指を鳴らした。
すると、そこに炎の鬣を有した黒い馬が現れた。人間界の馬より、一回り大きく見える。
見た目は猛々しい雰囲気ながら、漆黒の双眸はとても優しそうに見えた。
「すご……」
「獄馬と呼ばれる、鬼が使役する馬だ。大枠では妖怪だな」
説明しながら、蘇芳指を動かすと、獄馬はゆっくりと歩き出した。
峡谷の峰の部分を進んでいく。
暫く進んだところで、蘇芳はついとある方向を指差した。
「あれが等活禊だ」
そこでは、すり鉢状の闘技場のような場所で、ごった返す死者を獄卒と思われる鬼が刀で斬って回っている様子が窺えた。
死者は斬られたそばから回復し、何度も何度も斬られている。
死者は悲鳴をあげて逃げ惑うが、結局は髪を掴まれて引き倒され、首を掻き切られてしまう。
「うわぁ……」
あまりに残虐な光景に、つい、あんな風に斬ったら死んじゃうよ。あ、もう死んでるのか、と脳内で自分にツッコミを入れる碧羅だ。
「等活禊は、主に殺生をした者が送られる場所だ」
「殺生……動物を殺した場合もですか?」
「当然だ。ただ、生きるために動物を殺して肉を食らうことは罪ではない。悪戯に命を奪い、それを悔いることがなかった者が対象になる」
ふむ、それなら安心だが、そうなると、大概が子供の頃に虫に対して残虐なことをしたことがあってこの地獄に送られるのではないだろうか。碧羅だって人間の頃に心当たりがある。
そうなると、天国に行ける人間は一体どれほどいるのだろう。
自分も、鬼になる選択をせずに裁きを受けていたら、地獄へ堕ちていたかもしれない。
あの地獄に送られることを想像して、碧羅は思わず身震いする。
「……あれを斬り続けている鬼の方も大変そうですね」
「ああ、基本的に獄卒課は肉体的な意味で激務だな」
勤務時間中ずっと刀を振り回して死者を斬り刻むことを考えたら、現世警護課に配属されてよかったと心から思えた。
「……で、次は、黒縄禊の場所だ」
獄馬は止まらずに進み、次に蘇芳が示した谷底では、黒い縄に縛られている死者達がいた。
そこにいる獄卒らは、その縄を引っ張り回して死者を引き摺り回し、岩に叩きつけたり、縛り付けたまま四肢を引き裂いたりしている。
「……これはまた凄惨な……」
「ここは主に窃盗を行った者が送られる場所だ」
黒い縄に巻かれていて自由が奪われている分、先程の等活禊よりも過酷そうに見える。
「殺生よりも窃盗の方が過酷なんですか?」
「等活禊の場合は悪意の有無は関係ないからな。窃盗は明らかに悪意しかない……それに、受ける禊が一つとは限らない」
わかるようなわからないような理論だが、妙な説得力がある。
「……ところで、地獄ってどのくらい広いんですか?」
「さぁな」
「さぁなって……」
「現世でどれだけの人間毎日死んでいると思っているんだ。しかも、人間の大半は何かしらの罪を犯して地獄へ堕ちてくる……膨大な数の人間が、膨大な時間禊を行う。それを成すための広さが必要だ。そしてここは現世とは異なる理で存在する世界……その果てなど、誰も知らん」
そう言われたらその通りだ。
世界中で毎日十万人以上が死んでいる。そのうち何割が地獄に堕ちるのかはわからないが、少なくとも半数以上は地獄行きだろう。
それを受け入れるということは、間違いなくな敷地が必要だ。
「じゃあ、鬼ってどのくらいいるんですか?」
「さぁな。閻魔大王様なら把握されているだろうが……」
地獄の鬼といえど、全てを把握している訳ではないのか。
「少なくとも、現世に生きる人間よりは少ないはずだ。おかげで、冥府はいつも鬼手不足だ」
蘇芳はげんなりした様子で溜め息を吐いた。
「……という訳で、この後は少し飛ばすぞ。俺も早く業務に戻らなければならない」
「は、はい」
思わず頷くと、獄馬は突然、大きく前足を蹴って駆け出した。
「っ!」
強烈な加重に、碧羅は思わず馬車の縁にしがみ付いたのだった。
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