肆:約束
誰かが呼んでいる。
その声に振り返る。屋敷の縁側に立っていた人物が、自分と目が合って破顔した。
「瑠璃!」
二十歳前後の青年だ。
質の良い狩衣と、烏帽子を被っていることから、かなり高位の存在であることがわかる。
「お館様!」
自分の口が、勝手に言葉を発して、その人の許に駆け寄って一礼した。
「何か御用でしょうか」
「いや、姿が見えたからつい呼んでしまっただけだ」
そう言って、彼は楽しそうに笑う。
自分を見つめる優しい眼差しが、兄のようで好きだったことを思い出す。
そうだ。これは、遠い過去の記憶だ。
彼は旭直影。
旭家の若き当主で、女中を務めていた瑠璃の主人である人物だ。
瑠璃は、優しい主人をとても尊敬していた。
しかしそれは、あくまで主人に対する畏敬の念。
「瑠璃ー? どこなのー?」
遠くから自分を呼ぶ、女中頭の声がした。
主人の手前勝手に下がることができず、直影を見上げると、彼は優しく微笑んで、行きなさいと言ってくれた。
一礼した瑠璃がその場を離れ、自分を呼んでいた女中頭の許へ向かう。
「すみません! 遅くなりました!」
駆け付けた瑠璃に、女中頭はにっこりと笑った。
「大丈夫よ。いい報せが来たから早く教えないとと思って」
「いい報せ?」
「戦が終わって、武士たちが帰ってきたんだって!」
「っ! じゃあ……!」
「ああ、帰ってきたって聞いたよ。芳鷹もね」
女中頭がその名を口にした瞬間、視界がぐにゃりと歪み、気付いた時には別の場所にいた。
陽が沈み、月明りが照らす川岸だ。
「瑠璃!」
呼ばれて振り返る。
狩衣姿の長身の青年が、笑顔で駆け寄ってくる。
その顔には見覚えがあった。
先日の夢に出て来た青年だ。
幻惑の路で、何か言いたげにこちらを見ていた青年と同一人物であると、碧羅はこの時気付いた。
「芳鷹!」
自分の口から、その名が飛び出す。
名を呼ばれた青年は、駆け寄って来た勢いのまま、瑠璃をぎゅっと抱き締めた。
「ああ、瑠璃! やっと帰って来られた!」
「おかえりなさい! 無事で良かった……」
涙ぐみながらそう告げると、芳鷹はにかっと笑った。
「俺が負けるはずないだろう?」
そうだ。芳鷹はそういう男だ。
いつも自信に溢れ、実際に実力も伴っている。
だから武将の覚えもめでたく、順調に出世しているのだ。
「……約束通り、結婚してくれるだろう?」
瑠璃の手を両手で握って迫る芳鷹に、瑠璃は泣きそうな顔で頷いた。
先の戦に出立する直前、彼は瑠璃に求婚した。
瑠璃の気持ちは決まっていたが、戦に赴く彼が心配で、無事に戻ったら結婚してやると答えたのだ。
「やった! 幸せにする! この先、何があろうと俺がお前を守るからな」
痛いくらいの力で抱き締められて、瑠璃も彼の逞しい背に手を回す。
その幸せを噛み締めた直後、また視界が歪んだ。
深い霧の中、目の前に芳鷹がいる。
鎧を纏い、今まさに戦に出向く直前の早朝だ。
「……本当に行くの?」
「……ああ。命令だからな」
「そんな……死にに行くようなものよ……!」
何とかならないのかと訴える瑠璃に、芳鷹は痛みを堪えるような顔で首を横に振った。
そして、瑠璃の両手を優しく握る。
「約束する。必ず生きて戻る! 戻ったら、祝言を挙げよう」
その言葉に、瑠璃は涙ぐみながら小さく頷き、彼の手をそっと握り返した。
「……どうか、気を付けて」
瑠璃の口から発せられたその言葉を聞いた瞬間、碧羅は夢から放り出された。
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