伍:襲撃
禁鍵門とは、以前琥珀と現世に行く際に通った青の扉ではなく、戻る時に出てきた赤い扉だった。
蘇芳曰く、緊急事態に『こちらの都合で現世の行きたい場所に強引に道を繋げるための扉』らしい。
この扉を開けるためには閻魔大王の承認が必要な上、管理職以上の鬼が三人、結構な妖力を注がないといけないという代物ということで、滅多に使われないそうだ。
つまり、今がそれだけ緊急事態であり、あの時現世側から蘇芳が無理矢理繋いだのもかなり凄いということである。
ちなみに、通常使用する青い扉は流冥門、常時現世と冥府を繋いでいるという扉は封幽門というらしい。
今回の目的地が、封幽門が繋がっている場所からは遠いのと、一度現世に出てから向かうとなると、前回のように気配で察知されて罠を張られかねないということで、今回は直接乱鴉の気配を察知した場所に繋げるということらしい。
「あの、調査本部のメンバーには知らせなくていいんですか?」
「ああ、それは連絡部が通達しているはずだ。あとは浅葱と玄がいれば会議自体は回るだろう」
確かに、浅葱と玄なら、上手いこと会議を進行してくれそうだ。
「それより、この扉を使用する際の注意事項だが、一瞬膨大な妖力の中を潜り抜けることになるため、自分の身体を妖力で包んで受け流すんだ。それができないと四肢と、最悪首が捥げる可能性がある」
「えっ……」
ただ普通に通れば良いと思っていた碧羅は、思いもよらぬリスクに言葉を失う。
「新人には妖力操作は難しいだろう。お前の身体も俺の妖力で包む。嫌かもしれんが、手を繋がせてもらうぞ」
「あ、はい。どうぞ」
ことの重大さに、碧羅が抵抗感なく手を差し出すと、蘇芳の方が一瞬驚いた顔をした。
「……嫌ではないのか? 仕事とはいえ上司と手を繋ぐのは……」
「大丈夫です。状況は理解していますし、前回現世に行った時も、幻惑の路で琥珀さんに手を引いてもらいましたから」
「……そうか」
大丈夫と答えたにも関わらず、蘇芳は何やら不愉快そうな顔で呟く。
それから碧羅の手を取ると、躊躇いがちにそっと握る。
その時、碧羅は琥珀の時には感じなかった何かを感じ取ったが、その正体はわからなかった。
「……行くぞ」
「はい!」
蘇芳の誘導で、碧羅も赤い扉を潜る。
中は、無数の色が交じり合う不思議な膜のようなものが続いていた。
しかし幻惑の森のように続く事はなく、ほんの数歩歩いただけでそれは消え、全く別の場所に出た。
「……ここは……」
見覚えのある湖が目の前に広がっていた。
生前、家族旅行で来たことがある、関東有数の観光地でもある場所だ。
「近いぞ。気を抜くな」
乱鴉の気配とやらを察知しているらしい蘇芳が、低く呟く。
碧羅も視線を周囲に滑らせる。湖上に鳥居があるのが見え、ここが有名な神社のすぐ近くであることを悟る。
二人がいるのは湖の畔だが、後ろは林になっていて、人の気配は感じない。
太陽は沈み、辺りは暗い。少し遠くに明かりが見える。
「っ! 結!」
突然、蘇芳が叫んだ。
二人の足元に六芒星が顕現し、結界が織り成される。
直後、そこに何かが激しくぶつかった。
「……まさか、瑠璃を連れて来てくれるとは……初めてお前に感謝するよ、赤鬼」
しゃがれた声が響く。
前に聞いた、あの声だ。
そちらを振り返ると、二十代くらいの男がゆらりと現れた。
不自然なほど白い肌と、艶のない黒髪。生気の無い虚ろな瞳が、じっと碧羅を捉えている。
「囮じゃなく、本人がお出ましか」
蘇芳が右手を掲げると、そこにあの深紅の刀身の日本刀が顕現する。
「ああ、瑠璃。こっちへおいで」
愛おしそうに名を呼ぶ、おそらく乱鴉の魂が入っているのであろう男が、緩慢な動作で手招きをする。
その瞬間、碧羅の背筋がぞくりと震える。
同時に、心臓が握りつぶされるように、息が詰まった。
先日乱鴉が天元城に侵入して来た時と同じ、あの感覚だ。
「ぐっ……」
碧羅は慌てて、首から下げている勾玉に結び付けていた護符を握り締める。
途端に、息苦しさが引いていく。凄い効果だ。
しかし、よく見ると護符が端から少しずつ黒ずみ始めている。
月白が、効力は数回程度と言っていた。つまり、それ以上呼ばれると、護符の効果が切れてしまうということだ。
「碧羅、大丈夫だ。落ち着け」
蘇芳の言葉にはっとする。
彼を振り仰ぐと、彼は真剣な表情で碧羅を見つめ、ひとつ頷いた。
その時の蘇芳の顔に、何故か既視感を覚えた。
最近ではない。とてもとても、古い記憶な気がする。
「この結界から出るな。そうすれば俺が守れる」
蘇芳はそれだけ言うと、乱鴉をぎろりと睨んだ。
「乱鴉、お前は一体、何度滅ぼせば本当に消滅するんだ?」
「貴様に教えてやる義理はない」
乱鴉の手に、黒い靄が集まり出す。それが、まるで刀のような形になる。
「それに、知ったところで貴様は此処で死ぬ」
「やれるものならやってみろ!」
蘇芳が、地を蹴って大きく跳躍する。
自ら張った結界に碧羅を残して飛び出し、勢いそのままに乱鴉に斬りかかる。
しかし乱鴉はそれを黒靄の刀で軽く受け止める。
乱鴉は剣の心得もあるらしく、物凄い速さで攻防が繰り返される。
「蘇芳さん……!」
戦闘に参加できず、祈るしかない碧羅。
歯痒い思いで見守っていた、その時。
黒い靄が、無数の刃となって結界にぶつかり始めた。
「無限靄刃……対象を破壊するまで止まらん。貴様の脆弱な結界なぞ、すぐに破れる」
蘇芳と剣の応酬を繰り返しながら、うっそりと嗤う乱鴉。その身体から、更に黒い靄が噴き出す。
それらを全て刀で振り払い、蘇芳も妖力を解放するが、自分の周囲の靄を払うだけで精一杯だ。
少し距離のある碧羅の周りまでは及ばない。
「くっ……!」
いっそ周囲丸ごとも燃やし尽くしてやろうか。自分の張った結界の中にいる限り、碧羅に炎は及ばない。
鬼は現世に極力干渉してはならない決まりだが、乱鴉が絡めば話は別だ。
乱鴉は、閻魔大王からも神からも仏からも、『危険極まりない害悪』だと認定されている。それを滅することができるのなら、多少の無茶は許される。はずだ。
よし、と蘇芳が術を発動させようとした、その刹那。
「どこを見ている」
蘇芳の耳元で、しゃがれた声がした。
「っ!」
咄嗟に後ろに飛び退いた蘇芳。
そこに待ち構えたように黒い靄の刃が顕現する。
「蘇芳さん! 後ろっ!」
碧羅が引き攣った声で叫ぶ。
同時に、無意識に碧羅から妖力が迸り、その黒い靄の刃と蘇芳の間を一閃した。
しかし、それと同時に、碧羅を守っていた結界に亀裂が走る。
「しまった……!」
まずい、結界が破られる。
蘇芳が悟ったと同時に、碧羅を守っていた結界が、音を立てて四散した。
「碧羅っ!」
色を失って叫ぶ蘇芳の声が、碧羅の耳に刺さる。
目の前に迫る黒い刃に、碧羅は死を覚悟してぎゅっと目を閉じた。




