壱:天国からの使者
目を開けると、ここ数日ですっかり見慣れた天井があった。
「……夢……?」
漆黒の目を瞬いて、碧羅は身を起こした。
不思議な夢を見た気がするが、内容を思い出せない。
それなのに胸の奥がぎゅっとなり、無意識に胸元の勾玉を握り締める。
と、壁に掛けられていた時計を見て飛び上がった。
「……っ! もうこんな時間!」
針は八時半を示していた。
今日は出勤。九時までに現世警護課の部屋に行かないと遅刻である。
碧羅は、地獄を管轄する冥府に務める鬼なのだ。
大慌てで仕事着である墨染めの狩衣に着替え、夜食も摂らずに寮を飛び出す。
冥府は人間が暮らす現世とは次元を異にしており、生活時間は逆転しているため、今は夜で、勤務時間は翌朝の六時までだ。
そのため食事は、起きてから軽めの夜食を摂り、深夜十二時頃に夜食休憩で、現世でいう昼食に当たる夜食を摂る。そして勤務後に朝食、必要に応じて昼食を摂るのが一般的である。
夜食が二回登場するため、便宜的に深夜十二時の夜食は深夜食とも呼ばれている。
「お、お疲れ様ですっ!」
全力ダッシュで天元城に入り、現世警護課に着いたのは八時五十八分。ギリギリだった。
「あら、今日は遅かったのね」
少し揶揄するように笑ったのは黒鬼の玄。
艶やかな黒髪と紫の瞳が印象的な、一本角の妖艶な美人であるが、見た目は美女だが実は男である。
「す、すみません……寝坊してしまって……」
ぜぇぜぇと息を整えながら自席に着いた碧羅に、現世警護課の課長である赤鬼の蘇芳が眉を寄せる。
「一人で出勤してきたのか?」
冥府が目をつけている危険な呪術師が、碧羅を狙っている可能性が高いということで、彼女は蘇芳から単独行動禁止を命じられているのだ。
「は、はい……」
嘘をつく理由もないので頷くと、蘇芳は額を抑えた。
「桔梗は?」
「今日は体調が優れないから休むと、先程連絡が入りました」
主任の緑鬼、松葉が答える。
今話題に出た紫鬼、桔梗が出勤だったとしても、自分を待って一緒に出勤してくれたとは到底思えない碧羅だ。
何せ自分は嫌われているはずだから。
碧羅の推測では、桔梗は蘇芳に想いを寄せている。そのため、蘇芳が部下として自分を心配したり気遣ったりする度に敵意の籠った視線を向けられるのだ。
「……仕方ない。明日から俺が女子寮の前まで行くか……」
嘆息する蘇芳に、黄鬼の琥珀が心底驚いた顔をする。
「えっ! 蘇芳さんがっ? そ、それなら俺が……!」
「お前はたまに遅刻するだろう。そうなった時、碧羅が巻き添えを喰らうことになる」
ピシャリと言われた琥珀が押し黙る。
「……蘇芳ちゃんってば過保護ねぇ……でも、このことは、桔梗ちゃんには秘密にした方がいいわね」
玄がそっと碧羅に耳打ちする。
やはり、玄は全てを悟っているのだ。
と、その時、鈴の音がりんと鳴り響いた。
次の瞬間、ファックスのように紙に文字が浮かび上がる装置から、一枚の紙が滑り出てくる。
それを手にした松葉が、露骨に嫌そうな顔をした。
「どうした?」
「……本日、天国から使者が来るそうです」
「は? 何のために?」
蘇芳も嫌そうに顔を顰める。
「詳細は書いていないので何とも……ただ、担当者の欄には……」
言いながら松葉が紙を蘇芳に見せる。
そこに書かれた名前を見た蘇芳が、深々と溜め息をついた。
「コイツが現世警護課に来るってことは……」
「ええ、間違いなく、乱鴉の件でイチャモンをつけてくるつもりかと……」
蘇芳と松葉のやり取りの背景が見えない碧羅がきょとんとしていると、それまで黙々と作業していた白花が苦笑しつつ捕捉してくれた。
「乱鴉は天国からも危険視されているのよ。そんな乱鴉をいつまでも完全に滅することも、無間地獄へ送ることもできずに野放しにしている私たちを、天使たちは心よく思ったいないって訳」
「そんな! 悪いのは乱鴉なのに、理不尽すぎます!」
「その通りだ。蘇芳さんの炎でも魂が焼滅しないなんて、普通の人間じゃねぇ。そんな奴の処理を鬼に丸投げしてるくせに、毎回偉そうにグチグチ言いやがるんだ」
琥珀が不愉快そうに吐き捨てる。
「まぁまぁ、琥珀ちゃん、もしまた理不尽すぎるイチャモンをつけてくるようなら、アタシに任せなさい」
玄がそう言って不敵に微笑む。
とても魅惑的に見える表情なはずなのに、妙に背筋が寒くなる気がして顔を引き攣らせる碧羅。
そんな様子を見て、白花が乾いた笑みを浮かべて嘆息した。
「……天使のね、地獄とやり取りをする担当者って大体決まっているんだけど、前回ネチネチしつこく現世警護課の過失だと責め立ててきた担当者の天使は、玄が宥めながら連れ出して以降、ここへ寄り付かなくなって、そのまま担当が変わっちゃったのよ」
その説明に、玄は肩を竦めた。
「あら、アタシは別に酷いことをした訳じゃないのよ? あくまでも合意の元、新しい扉を開くお手伝いをして差し上げただけ」
新しい扉、そう聞いた瞬間、琥珀と松葉が身を震わせて尻を押さえた。
「……前任者の急な辞職は貴方のせいだったのですか」
急に響いた声に振り向くと、いつの間にか入り口に一人の青年が立っていた。
金髪碧眼、背中には白い翼を有した二十歳くらいの、儚げな美貌の持ち主である。
純白の神父や牧師のような服を纏っていて、一目で天使だとわかった。
「失礼ね。ちゃんと合意は得たし、その後少しだけど正式にお付き合いもしたわ! 向こうが前のめりになりすぎて続かなかったけど……」
反論した玄に、天使は僅かに目を細めた。
「別に、僕は前任者のプライベートまでは興味ありませんよ」
そこで話を切り上げて、彼はふと碧羅に目を止めた。そしてほんの僅かに目を瞠る。
それから我に返った様子で一度こほんと咳払いをし、ふわりとした笑みを浮かべる。
「……初めまして、青鬼のお嬢さん。僕は天使のアイア・ムジエン・ジエルと申します」
「アイアムジエンジェル……?」
完全に英文に聞こえた名前をそのまま口にすると、彼はぱっと表情を明るくした。
「はい! どうぞアイアとお呼びください!」
名前がそのまま自己紹介になっていることに本人は気づいていないのだろうか。
というか、天使も思い切り日本語を話しているのに、名前は異国風なのか、と変なところが気になるのは、碧羅がまだ冥府に来て間もないからだろうか。
と、蘇芳がすっと立ち上がって、アイアと碧羅の間に立った。
「……アイア殿、新人の碧羅だ。碧羅、こちらは天地連の……」
「正式名称は天国地獄庁第三連絡局調整機構だ」
省略されるのが嫌だったのか、アイアは遮ってそう教えてくれたが、碧羅の率直な感想は「早口言葉かよ」である。一度聞いただけでは到底覚えられそうにない。
「毎度ながら長ぇよな。俺たちは天地連って呼んでるけど、略すと何故か怒るから気をつけろ」
琥珀がこそっと碧羅に耳打ちしてくる。
後で紙に書いてもらおう、そう思いつつ視線をアイアに戻すと、目が合った彼はにこっと微笑んだ。
「……で、用件は? こちらも立て込んでいるので手短に頼む」
蘇芳が冷淡にそう告げると、アイアは不満そうに眉を顰めた。
「こちらがわざわざ出向いているというのに、相変わらず鬼というのは無礼だな」
「そんな苦情を言うために、わざわざ天国から来たのか? 天使は暇なんだな」
蘇芳とアイアの間に、視えない火花がバチバチと散り始める。
鬼と天使は仲が悪いのか、と碧羅は内心はらはらしつつも、口を挟める雰囲気ではなく、成り行きを見守るしかできないのだった。
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