玖:忍び込んだ悪意
蘇芳が退出したすぐ後に、食堂の結界が作動し、外の音が遠くなった。
「……あの、こういうことって、よくあるんですか?」
放送では緊急事態と言っていたが、食堂に介した鬼たちはあまり動じていない様子だ。それを不思議に思った碧羅が尋ねると、琥珀は乾いた笑みを浮かべた。
「んー、よくあるって程ではないけど、地獄から脱走しようとした死者が侵入してきたり、たまーに生きた人間が紛れ込んだり、そういうことが起きるんだよな」
「生きた人間が紛れ込むなんて、あり得るんですか?」
「本来ならあり得ない。でもほら、俺たちが通って現世に行った出入り口は、どこに繋がるかわからないって言っただろう? 普通の人間はそこを通ったとしても冥府には来られないんだけど、人間でも霊力が強いと通れちゃったりするんだよ」
つまり、冥府への通路がたまたま繋がっている場所に、たまたま霊力の強い人間がやってきて、たまたまピンポイントにそこを通らないといけない、ということか。
確かに偶然それが起きるとしたら物凄い確率だろう。
「でも、乱鴉のことがあって、すぐに霊力検知の警報が鳴るっていうのは、正直気になるよな」
「そうですね……蘇芳さん、大丈夫でしょうか……」
「蘇芳さんの心配はいらねぇよ。超強ぇから」
それはわかる。
だが、何故か嫌な予感が胸に広がっていくのを感じた。
「……琥珀さん、一度結界が張られたら、解除されるまで外へは出られないんですか?」
「いや、結界は外からの侵入を防ぐためのものだから出るのことは可能だ。だが、出たらもう結界が作動してる部屋には入れねぇ……そこでやべぇのに遭遇したら逃げ場がねぇ」
琥珀は、碧羅の意図を汲んだのか、じっと青の瞳を据えてくる。
その目が、馬鹿なことは考えるなよ、と如実に語りかけてくる。
しかし、その時だった。
「っ!」
碧羅の鼓動が、突然大きく跳ねた。
胸が詰まり、呼吸ができなくなる。
「碧羅っ? どうした!」
突然胸を押さえて蹲った碧羅に、向かいに座っていた琥珀が駆け寄ってくる。
「きゅ、に……いきが、できな……」
途切れながらに伝えると、琥珀は両手を碧羅に掲げた。
「浄!」
琥珀の妖力が碧羅に流れ込み、僅かに息苦しさが和らぐ。
「何だこの症状……まるで、瘴気に充てられたみてぇな……」
琥珀が眉を寄せる。
しかし、瘴気の気配は感じない。
そもそも碧羅には、呪詛に対する耐性がある。呪詛耐性があるということは、瘴気にも強いというこだ。
「……呼んでる……」
碧羅は、胸を押さえたまま、無意識に呟いた。
自分が呟いたのだと、自分の声が耳に届いてから気づく。
そして、胸は痛いのに、身体が勝手に動き出した。
「碧羅?」
「……行かなきゃ」
ふらりと、碧羅は立ち上がって歩き出す。
「おい待て! 今出るのは危険……!」
琥珀の制止も虚しく、碧羅は食堂から出てしまった。
自分も外へ出ることを、琥珀は一瞬躊躇し、しかし意を決して碧羅を追いかけて飛び出した。
「碧羅!」
食堂から少し進んだ先は、天元城の正面ロビーがある。
碧羅は迷うことなく、真っ直ぐにそこへ向かった。
そこでは蘇芳が、謎の何かと対峙していた。
黒い人影のようだが、その正体は判然としない。
「……碧羅っ? 何故出てきた!」
碧羅の気配に気付いた蘇芳が、驚いた様子で声を荒らげる。
同時に、碧羅の様子がおかしいことを悟る。
「……貴様、碧羅に何かしたのか……」
怒りを押し殺すような声色で、蘇芳が何かを睨む。
その何かは、くつくつと嗤った。
「何も。俺はただ、呼んだだけのこと。魂に刻まれた印は、必ず俺を求める」
勝利を確信しているかのような言い方に、蘇芳は弾かれたように床を蹴った。
「乱鴉ァっ!」
間合いを詰める蘇芳の手に、突如日本刀が顕現する。
深紅の刀身のそれは、鬼には一眼でとんでもない妖力が込められている剣だとわかる代物だ。
黒くもやもやとしたその何かは、蘇芳の攻撃をひらりと躱すと、碧羅に向けて手招きした。
「おいで、瑠璃」
別の名前で呼ぶ何かに、碧羅はふらふらと歩み寄ろうとする。
「碧羅っ! おいっ!」
追いついた琥珀が碧羅の腕を掴み、碧羅はぴたりと動きを止めた。
「……振り払うほどまでには、まだ達していないか」
何かが舌打ちしたその時、蘇芳の剣がそれを真っ二つに両断した。
どさりと、血生臭いものが転がる。
「……な、何だったんだ、今の……」
不気味な何かに唖然とした琥珀は、はっとして碧羅の両肩を掴んだ。
「碧羅! 大丈夫かっ? 俺がわかるかっ?」
顔を覗き込んでくる琥珀に、碧羅は数回瞬きをしてから、辺りを見渡した。
「琥珀さん……あれ? 私、いつの間に食堂を出たんですか?」
自分の足で歩いてきたことを覚えていないらしい碧羅に、琥珀は小さく嘆息する。
「碧羅、大丈夫か?」
蘇芳が駆け寄ってきて、心配そうに碧羅を覗き込む。
いつのまにか日本刀は消えており、彼の背後では、先程切り捨てられた何かが、深紅の炎に包まれていた。
「大丈夫です……でも、迷惑をかけてしまったみたいで」
肩を落とす碧羅に、蘇芳は首を横に振った。
「いや、お前の魂に傷がついていることに気付かなかった俺の責任だ」
「魂に、傷?」
不穏な響きに、碧羅が両手を胸の前でぎゅっと握り締めると、蘇芳はその手を掴み、「来い」と短く命じてずんずんと歩き出した。
「琥珀、お前は戻って松葉に報告しろ。俺は碧羅を医療部へ連れていく
「わ、わかりました」
勢いに押された琥珀が頷き、蘇芳は前を向いた。
蘇芳が戦っていた場所の程近くに、医療部救急課と書かれた看板の部屋があり、蘇芳はノックだけすると、返事を待たずにドアを開けた。
中は現世の学校の保健室のような造りをしていた。
「月白、いるか?」
蘇芳の呼びかけに、奥のカーテンの向こうから白鬼が顔を出した。
角はニ本、三十歳前後くらいの、赤い瞳の鬼だ。ショートヘアで、一見しただけでは男か女かわからない。
「蘇芳さん、どうしました?」
「コイツを診てくれ。新人の碧羅だ」
碧羅を示した蘇芳に、月白と呼ばれた白鬼はふむと呟いて碧羅に奥のベッドに横になるよう指示した。
「……魂に傷がありますね。ごくほんの僅かですが」
碧羅を凝視した後、月白はそう呟いた。
「乱鴉の仕業だ。人間だった頃の碧羅を呪い殺した」
「では、おそらくその呪詛の中に、魂を傷つける類のものを織り込んでいたのでしょう……」
「治せるか?」
「私には無理ですね。本来、魂の傷は輪廻転生を繰り返して癒えていくものですから」
鬼になった時点で、碧羅は輪廻転生の環から外れている。
月白の言葉に、蘇芳が沈痛な面持ちをした。
「……ただし、呪詛による傷であれば、術者が呪詛を解除すれば傷は消えるはずです。逆を言えば、術者が解除せず死亡した場合は、永遠に消せなくなります」
月白は淡々と事実を述べていく。
「とはいえ、それは生きた人間が生きた人間の魂に傷をつけた場合です。魂に傷をつけられたのが鬼であれば、術者である人間が死亡した時点で冥府へは来るはずなので閻魔大王様の法廷で待っていれば、死亡した後でも解呪させることは可能になりますが……相手が乱鴉となると、それもどうか……」
「……本来の輪廻転生を無視した呪術で転生しているとなると、魂の負荷も相当のはずだ。本当に死したとして、魂が三途の川を渡れるとは思えんな」
ふぅ、と嘆息した蘇芳を横目に、月白は一枚の護符を碧羅に差し出した。
「……応急処置ですが、この札を懐に入れておけば、術者に呼ばれても、操作されることはありません。ただ、紙なので入浴時はどうしても外す必要があるので、注意が必要です」
「ありがとうございます……これは折っても大丈夫ですか?」
「はい、小さく畳んで、巾着などに入れて首から下げておくことをお勧めします。効力は数回程度なので、解決するまでは定期的にここへ取りに来てください」
碧羅はそう言われたので閻魔大王から貰った勾玉の革紐に括りつけることにした。
「……鬼になる前に受けた呪詛の傷か……そうなると、労災の対象にはならないか?」
「そうですね……労災はあくまでも勤務中もしくは通勤中の怪我などが対象ですから……」
労災も完備なのか。地獄なのに。
二人の会話を聞きながら、そんなことを考える碧羅だ。
「とにかく、碧羅、乱鴉の件が片付くまで、単独行動は絶対に禁止だ。それと、何かあったらすぐに俺を呼べ」
「……はい」
不本意だが、乱鴉の狙いが自分である可能性が高い以上、勝手な行動は慎まなければならないだろう。
碧羅は今後の生活に想いを馳せ、鬼として与えられた第二の生の幸先の悪さに、密かに溜息をついたのだった。
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