ひっそりと隠れるノラネコのように。
ニャアア…。ネコの朝は目覚まし時計よりも早い。
私はしなやかに動き回るネコたちにエサをやり、身支度をし、出勤した。まだまだ暑いけれど、まるでひっそりと隠れるノラネコのように秋の気配は感じられる。
あの日の翌日は休みを取ってリフレッシュした。私はお酒が好きなので行きつけの立ち飲み屋さんでサワーを何杯か飲み、そこの常連さんたちと話をした。
漬けマグロを食べ、ホタテのお刺身を食べ、その後おでんのがんもを注文した。箸を入れるとじゅわっと出汁がしみ出るがんもに私は弱い。出汁もたっぷり入っている。だが一口食べた瞬間、私はマスターの元へと駆けつけていた。
「なに?どうしたの?何か問題でもあった?」
常連さんが言う。私はすぐに
「あの、レンゲかスプーン貸してもらうことはできますか?お出汁がおいしすぎて、全部飲みたいんですけど…。」
「なぁんだぁ、オレ何かあったのかと思ってびっくりしちゃったよ。」
常連さんたちに笑われる中、ニコニコ顔のマスターがスプーンをくれた。
結局その日は常連さんたちと二次会まで行って楽しんだ。
出勤するとまず床を掃除する。テーブルを拭き、マウスピースの補充。フレーバーを袋から出し、袋にくっついたものをスプーンでこそげとってタッパーに詰める。炭の用意。空調管理。やることはたくさんある。
そんなことをしていると、ふと思い出す。以前勤めていたシーシャ屋でお客様に言われた事を。
「Aさんのはすごく煙が出ていいけど、牧さんのはまだまだだなぁ。」
冗談だったのかもしれない。笑いながら言ったそのお客様は、私の作ったシーシャを、まるでフレーバーを炭にすることだけを考えているかのようにゴボゴボと大きく吸い、大量の煙を吐き出した。
悔しかった。思わず涙が出そうになった。それでもにこにこと笑って
「いやー、Aさんにはまだまだ敵いませんよ。たくさん勉強させていただいています。」
と言った。そもそも、Aさんと私では作り方にかなり違いがある。お客様の好みがたまたま合わなかっただけかもしれないのだ。それでも、やっぱり。
全ての人に好かれようとは思わない。ただ私は、そんな風にフレーバーを炭に変えることだけ、煙を吐き出すことだけを目的としたシーシャを作りたくはないだけだ。複雑な香りを楽しみ、そして煙を吐き出す。正直、私は香りさえ出せれば煙は出なくても良いとさえ思っている。けれど、煙も楽しむ人が多いのがシーシャだ。そこは外してはいけなかった。
そんな物思いにふけっていると、お客様が来店した。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?こちらの席へどうぞ。」
お客様を席へご案内し、ドリンクの注文を伺う。
「あの、以前こちらへ来た時もお姉さんが作ってくれたんですよね。」
アイスティーを飲みながら、そう男性は様子を伺うように言った。
少し考えて、思い出した。2週間ほど前、お一人で来店された方だった。
「そうですね!またご来店いただきありがとうございます!その時は確か、ライムとレモングラスと…。」
「すごい!よく覚えてますね!僕あの味がすごくおいしくて、またここに来たんですよ!」
私は唇をきゅっと結んだ。鼻の奥がツンとして、目がうるみそうになった。こんなに嬉しいことがあるだろうか。自分の作ったシーシャがおいしくて、それを求めてまた来店してくれるなんて。
「ありがとうございます!今日のフレーバーはいかがしますか?」
だめだ。にこにこが抑えられない。私は冷静を装いながら聞いた。
「そうだな…じゃあ今日は香水系で。実は今この香水を持ってるんですけど…。」
と彼が見せてくれたのはキンモクセイの香水だった。そういえば、そろそろ秋の香りが近付いている。
「この香水の香りに近いものを吸ってみたいんです。」
さっきとは打って変わって冷や汗が出た。香水はトップノート、ミドルノート、ボトムノートといって時間が過ぎるごとに香りが変わっていく。トップノートだけでも3種類以上香りが重ねてあることが多く、香りが分からない今の私には自信がなかった。しかし、この人は私のシーシャが好きでこの店にまた来てくれたのだ。期待を裏切りたくない。
まずは香水本体の香りを試させていただく。ふわりとキンモクセイが香り、秋の妖精が迷い込んできたみたいだ。さらに香りを試す。これは…フルーツ?ピーチのような。フルーティーな香りがした。
これなんですけど…とその時彼が見せてくれたのは、まさにトップ、ミドル、ボトムの香りの一覧表だった。まるでテストの答えを写させてもらっているようだ、と思いながらもありがたく見せてもらう。
トップにピーチがあった。やはりあのフルーティーさはピーチだったか。それにプラム、チェリー。なるほど。
ミドルにキンモクセイ、ジャスミン、ローズ。ジャスミンとローズもはいっていたのか。
そしてボトムにムスク。
やはり今は鼻が利いていない。こんなに分からなかった事なかったのに。チェリーが分からないなんて。自分の嗅覚にがっかりした。病院に行った方がいいのかも。いや、そんなことより今は目の前のお客様に集中だ。頭の中をいろいろな事が一気に駆け巡る。ハッとした。そうだ。目の前のお客様にシーシャを作らなくては。やるしかない。
私は香りの一覧表を暗記し、厨房へ向かう。炭がいい感じに焼けている。
まず一番下にほんの少しジャスミンとローズを足す。うちの店にはキンモクセイのフレーバーはノンニコチンしかない。香りが弱いので多めに足したいところだが、香水を嗅いだ時に最初に感じたピーチも多めに出したい。迷ったあげく、ピーチを一番上に置いて炭に一番近くし、火が通りやすいようにした。プラムはほんの少し。チェリーももちろん加える。ムスクはないので省いた。真ん中にキンモクセイが乗るようにし、炭で温めていくうちにだんだんキンモクセイが香っていくように調節した。炭を置いて少し待つ。
さて、どうなるだろう。
味見をしてみる。やはり鼻は利かない。でも、あれ?不思議な感じがする。なんというか、舌の煙への感覚が敏感になっている気がする。煙の香りが舌に当たる時に、それぞれの香りの何かが違うのだ。
これは…できるかも。吸い上げをして、何度も確認をする。まるで、必ず来ると信じている友人からの電話を待つかのように、私は根気強く吸い上げをした。
出来上がったシーシャを緊張した面持ちを隠すように笑顔を作り、お客様のところへ持っていく。どうだろうか。どきどきしながら一口目を吸っていただく。お客様がゆっくり深呼吸する。さらにもう一口。
「うん。すごくおいしい。やっぱりお姉さんにお願いして大正解でした!」
今度は私が深呼吸をする番だった。おいしくできたようで本当に良かった。でも香水の香りはどうなんだろう…?そう思っていると、
「すごい、香水の香りもちゃんとする!」
と言われた。今度こそ本当に安心した。どうやら、鼻が利かない分舌が敏感になっているようだ。あとはフレーバーのグラム数を計算しつつ吸い上げて確認するしかない。そう思った。全く、この症状はいつまで続くのだろう。本当に病院に行った方がいいのかもしれないが、そんな時間は私にはない。
だけどひとまずは安心した。シーシャは作れそうだ。
「今は火力を弱めてありますので少しピーチの酸味が出るかもしれませんが、吸っているうちに甘みが増していきます。そのあと、火力を強めてキンモクセイを出していきますね。吸いやすさは大丈夫ですか?」
そう私が伺うと
「はい、すごくおいしいし、吸い加減も大丈夫です。」と答えてくれた。安心した。
私はさっきからずっと安心ばかりしている。それだけ、そのシーシャを作ることが不安だったのだろう。
私は小さな声で鼻歌を歌いながら厨房へと戻った。