天津神流の夜明け
永禄四年、織田信長が生きた桶狭間の時代。辺境の村に照と呼ばれる男がいた。彼の剣術には神が宿っており、「天津神流五代目」として後継者を募集していた。
しかし、彼の技術はとてつもなく難しく、六代目を襲名しようと挑んだ者は皆その難易度の高さに諦めた。ただ、一人を除いて。
「もう君一人になってしまったね。黄泉」
その名は黄泉。何者かに両親を奪われ、身寄りのないところを照に拾われた。
今まで門下生が入っては消えてを繰り返す中、黄泉だけは諦めずに剣術を磨いていた。
歳は15。国津神流の印でもある狐面を被り、朝から晩まで六代目になるため日々奮闘していた。
「いえ師匠、俺はまだやります」
「面白い。さあ、おいで!」
照は刀も取らず、黄泉の刀をのらりくらりと避ける。
一向に当たらない刀だったが、それでも黄泉は振り続けた。
「どうした、それでは電電虫も斬れないよ」
今日もまた、道場内に激しい足音がこだまする。
「師匠、参りました」
「そうみたいだね。だからここに飯を用意した」
言って、照は彼の前に3つの料理を出した。右からおにぎり、うどん、そば。
それを前に、続けて照は言った。
「この中から好きなものを選べ」
「うーん、じゃあうどん」
「残念」
黄泉は素直に答えた。しかし反応は、謎々に間違えた解答をした時のようなものだった。
不思議に思いつつも、黄泉は他2つも選んだ。しかし結果はどれも残念のみ。
納得が行かず、黄泉は怒って訊いた。
「じゃあ、何が正解なんです」
「全部」
「は?」
「だから、3つ全部だ」
黄泉は一瞬、この人は何を言っているんだろう。と思った。
普通、3つのうちどれかなら、その通り1つ選ぶはずだろう。
しかし、照はおにぎりを齧りながら言った。
「どれか一つなどと考えるのは時間の無駄だ。君は、死にかけの私と死にかけの見知らぬ老人、どっちを助けるんだね?」
「えっと、老人」
「そこは私を助けて欲しかったが、不正解だ」
照はケラケラと笑い、おにぎりを飲み込んだ。
「でも、なんで全部なんです? てか、何ですかこの話」
「さあ、何だろうね」
黄泉の質問にも答えず、照は笑いながら道場から出て行った。
正解がないって何だよ。黄泉は不満に思いつつも、正解と言われた3種類の料理を食べた。
その一方で、照は道場の奥にある墓の前に行き手を合わせていた。そこには、対になるように並べられた二つの墓跡がある。
「波殿、凪殿。あなたの子息はスクスクと成長しておられまする」
言ってから、突然苦しみ出した。照の狐面の奥から、吐き出された血が滴る。
(もう時間がない。早く、黄泉に全てを伝授しなければ)
「師匠?」
とそんな時だった。腹拵えを終えた黄泉が迎えに来てしまった。
仮面の奥は血まみれ。もしかしたらさっきの言葉も聞かれたかも知れない。そう思うと、照は気が気じゃなかった。
「ど、どうした? もう食べ終えたか?」
「はい。早く続きをやりましょう」
「あ、ああ。続けようとも」
「いいかい黄泉。何度も言うが、天津神流の剣はとても危険な代物だ。下手をすれば、君にも被害が及ぶ」
「はい。覚悟の上です」
「よろしい。ではまず、天照からやろう」
天照は身体中の水分を蒸発させるつもりで体温を高め、そこから陽炎を作り出し、斬撃をその中で乱反射させる技。
黄泉はその方法を導き出し、いつも通りに使った。
「はい。天照・陽炎の太刀」
黄泉は体温を高め、陽炎を作り出す。しかし、そこまで出来たはいいものの、刀を振っても何も起きなかった。
「うーむ。やっぱり君は足りないね」
「足りないって?」
「次は月詠・望月の太刀をやってみたまえ」
何がいけないのか。戸惑いつつも黄泉は言われた通りに月詠を使った。
望月の名の通り、周囲に刀の残像で満月を描く技。ただ平面の満月ではない。上からも下からも、何処から見ても球体となるようにしなければならない。
「月詠・望月の太刀」
しかし、黄泉の描いた月は平面的で、揺らいでいた。それはまるで、川の中の月のよう。
「ダメです師匠、一体俺に何が足りないって言うんです?」
「さあね」
「知っているならいい加減教えてくださいよ!」
「……急がば回れ」
煩わしそうに目を細める黄泉に対し、照は言った。
「心の中に揺らぎがある。それ以上のことは、自分で見つけたまえ」
照は冗談めかしく言い、黄泉の肩に手を乗せた。しかし次の瞬間、黄泉は照の手を払い落とした。
そして、顔を見てみると彼の顔は、人殺しを見るような目をしていた。
「師匠なんでしょ? 俺の親を殺したの」
「えっ」
「図星なんだ。やっぱり、あの人の言う通りだ」
嫌な予感が的中し、照の顔から血の気が引いた。更に“あの人”の存在。
しかし、考えるまでもなく、本人がやって来た。
「そうさ。コイツが極悪な人斬り、お前の両親を殺した犯人だ」
「やっぱり君か、蛇!」
現れたのは、蛇の仮面を被った細身の男だった。
「この道場裏の墓、あれがお前の両親の墓だ」
「違う! 確かにあれは黄泉の親の墓だが、殺したのは――」
「うるさい! この人殺し! ろくに剣術も教えないで、俺を騙していたんだな!」
その言葉が照に突き刺さった瞬間、彼の動きが止まった。
何も言えなくなった照を、黄泉は肯定と捉えて蛇と共に道場を後にした。
「これで天津神流も終焉だな」
真夜中の暗い森の中、黄泉と蛇は歩んでいた。
「ねえ蛇さん、本当に師匠が人殺しを?」
「ああ。あの墓が動かぬ証拠だ」
蛇は洗脳を施すかの如く、黄泉の中にある照への忠誠心を削いでいった。
しかし、黄泉の中にあった疑問がそれを引き止めた。
――では何故、殺した両親の墓をわざわざ建てたのか。そう思うと、あの時人殺しと叫んだ罪悪感に悩まされた。
「でも――」
「もう、ここまで来たらいいだろう」
その疑問をぶつけようとした時だった。優しかった蛇の態度が突然変わり、黄泉を突き飛ばした。
「お、蛇さん?」
「まんまと騙されたな、小僧」
「えっ?」
「逆だよ、お前の親を殺したのは、アイツじゃなくて俺様だ」
そう言いながら、蛇は刀を抜いた。その刀は蛇のようにくねっていたが、刀身は鋭く、満月を反射していた。
騙されたと知ったその瞬間、黄泉は先の罪悪感に胸を締め付けられた。同時に、親殺しだった蛇に苛立ちを覚えた。
「貴様あああ!」
「フンっ!」
しかし、蛇の素顔を見た時、まるで蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまった。
動けと頭で命ずるも、体は動かない。幾度も命ずるも、体と腰が竦んで動かない。
「蛇に睨まれた蛙とは、まさにこのことだな」
「蛇、どうして……」
「お前さえ居なくなれば、天津神流は照の代で終わる。俺達八岐流にとって、あの流派は邪魔でしかない」
その言葉に、黄泉は震えた。これから俺は殺される、と。
まだ国津神流の剣も極めていない、かつ剣も道場に置いてきてしまっていた。護身すらできない。とどのつまり、万事休す。
人殺しと罵った手前、助けを求めるなどと烏滸がましい事もできない。
黄泉は死を覚悟し、目を瞑った。
「くたばれ、小僧!」
と、その時だった。
気持ちのいいほどに斬撃の音が響き、柔らかな悲鳴が上がった。
「……! 師匠!」
「間に合ったみたいだね……」
それはなんと、照だった。しかし彼の腹部には、蛇の刀が貫通していた。
「貴様、何故!」
「所詮刀は人斬り道具。剣術も人殺しの技術に過ぎない。だが、その逆も然り」
「師匠! もう喋らないでください!」
「殺す剣があれば、生かす剣もあるっ!」
瀕死の重症を負ってもなお、照は叫んだ。そして、身体中に残った最後の力を振り絞り、彼を中心に陽炎を昇らせた。
そして、蛇の刀を引き抜き、その抜刀の衝撃で天照・陽炎の太刀を放った。
刹那、蛇は斬撃を喰らいながら吹き飛び、周囲の木々が犠牲となって横に倒れた。
「くそっ! コイツ一体何を――」
「師匠! 師匠、しっかり!」
蛇が負傷している中、黄泉は照に駆け寄った。
しかし彼の口からは血が流れ、仮面も割れて目元が露わになっていた。最早、死ぬのも時間の問題だった。
「師匠、ごめんなさい。俺、何も知らないのに人殺しなんて――」
「いいや。私の説明不足が原因だ。気にするな」
「でも師匠! このままじゃ俺は、俺は――」
その時、言葉を遮るように蛇が立ち上がった。それに気付いた照は、震える手で自分の刀を黄泉に託した。
そして笑いながら、最後の質問をした。
「お前はこれを持って生きて逃げるか? それとも、仇を……討つか……?」
「師匠、こんな時に何を――」
「君に、私の全てを託せて良かった。ありがとう」
その言葉を最後に、照は眠った。
「師匠!」
「――――――」
何度声をかけても、照は返事をしなかった。
師匠が死んだ。黄泉はその事実を受け入れられず、震えることしかできなかった。
「遂におっ死んだか。呆気のない」
しかし、背後には蛇がいる。
その時、さっきの照の遺言が再生された。
このまま逃げるか? 両親の仇を討つか? 二つに一つ。
決断を下すまでの残り時間は後わずか。瞬時に判断しなければならない。
「さあ! くたばれ!」
時間切れだ。蛇は刀を振り下ろした。その刹那、黄泉の中に走馬灯が流れた。
今までの鍛錬の記憶、意地悪な問題を出された事、そして苦しそうでも笑って誤魔化す師匠のこと。どれも腹立たしくも、楽しかった記憶ばかり。
しかしそんな中で、照の一言に気付いた。
『全部だ』
(全部。そうだ、全部! どっちも選べばいいんだ! 欲張るんだ!)
答えに辿り着いた瞬間、今までの照の行動の全てに意味を見出した。
いち早く剣術を学ぼうと思っていたが故に、天照と月詠の二つから選ぼうと焦っていた。だが違った。
天照も月詠も、敵討ちも生きて帰る事も、全部選ぶのが正解。欲張ることが正解だったんだと。
その瞬間、黄泉の中で何かが覚醒した。
「月詠・望月の太刀!」
蛇の牙が襲い掛かる瞬間、黄泉は照の刀を振り回し、満月を作った。それは天津神流の真髄を掴んだ、波紋一つない心そのものだった。
「な、何だとっ⁉︎」
「天照・陽炎の太刀」
続けて、両親を殺め、照までを殺めた蛇への怒りで体温を高め、周囲に陽炎を展開した。
そして斬撃を繰り出すと、その中で猛虎の如き勢いで斬撃が乱反射し、蛇を押し返した。
「くそっ! 照めこんな置き土産を――」
「師匠、全部。全部取ります。生きて帰ることも、コイツの仇も!」
言うと黄泉は、目の前で安らかに眠る照を見ながら納刀し、抜刀の構えをした。
「回れ、廻れ、日の本よ。輪廻転生の理のように……」
その時、黄泉の背後から太陽が登った。その太陽は黄泉の作り上げた満月と重なり、輪廻転生の菩薩のような神々しい姿に見えた。
更に、揺らめく陽炎が黄泉を神のように錯覚させる。
これぞ天津神、神の宿りし剣技の真髄。
「まさか……こんな小僧に……」
「輪廻・天津神の太刀」
それは満月のように、そして強欲な猛虎のように、そしてそれは慈愛の神のように、美しく儚い一撃だった。
それから夜が明け、太陽が登った時。
両親の墓の隣に、照の墓が建てられた。
「師匠、これからもこの剣は引き継いでいきます。だから、見ててください」
永禄四年、照の永眠と同時に新たな後継者、黄泉が生まれた。
後の世を照らす、夜明けの太陽ように。