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プラチナブロンドが木漏れ日を反射させている。誰もいない学園の裏庭の端の端で、少女が肩を震わせて泣いていた。顔は隠れているが希少で美しい髪と丁寧に手入れされた制服から、その少女が今も昔も時の人であり続ける、美しき氷姫のレイチェル・U・アインホルンという公爵令嬢サマだと誰だって気づくことができるだろう。冷静で気が強く才能溢れる彼女が泣くことなど、私でなくとも予想はつかなさそうだ。だが、このままでは彼女を蹴落としたい連中が嬉々として噂を流すことだろう。弱小貴族である自分は巻き込まれたくないが、さすがに泣いている未成年女性を放置するのは目覚めが悪い。着用している女性用制服のジャケットを脱いで彼女に近づき、彼女の頭にばさりとかける。
「淑女が個室以外で泣くもんじゃない。やるなら魔法で隠せるようになってからだ」
「っ、あなた」
「おおっと、ジャケットを乱暴に扱うのはよしてくれ。顔を隠していたせいで君がどこのご令嬢かはわからず共感を得られないかもしれないが、私のような弱小貴族は制服を買うのも一苦労なんだ」
表向きは、愚か者のふりをする。“あなたを公爵令嬢と扱わない代わり、あなたの失態を他に話すことはない”という言葉の裏は公爵令嬢サマにすぐ伝わったようで、彼女は被せられたジャケットから顔を出すのをやめた。冷静になり、自分の状況が危ういことを理解したからだろうか。彼女はすんすんと鼻を鳴らしているが、少しずつ落ち着いてきたようだ。
「……クリスティーナさんね」
「んあ!?」
「声域からして女性。さっき一瞬乗馬用の靴が見えたわ。女性で祭事以外はお下がりの男性の乗馬用の服と靴を身につけている生徒はあなただけ。でも、わたくしも不勉強だから、あなたの家名は存じていません」
「……そりゃあ、どうも」
苦い顔で答えると、ジャケットの中の彼女は小さく喉奥を鳴らした。意外と愉快な人である。
クリスティーナ・レイヤード。制服も満足に買えない、歴史だけ長い貧乏子沢山な名ばかり貴族の次女の名前だ。父である領主は領民からは慕われているが、工業が発展している国の中で、まだ一次産業だけをやっている領地なんて金が生まれるはずがない。品質はまあまあいいからブランドをつけて売り出すようになったのが数年前。だがそんなに軌道に乗り切れていない悲しい家である。ウチに商才があるやつがいればよかったのだが、それらしきものがうっすらあるのが家を継がない次女の自分なのが本当に残念でしかない。金がない貧乏令嬢から色仕掛けをして玉の輿なんて現実的に考えて無謀すぎる挑戦はせず、なんとか変人として名を売り、領地とブランドを売ることに必死な女だが、流石に高貴なお貴族様に名を知られているほどだとは思わなかった。なんとも恥ずかしい話である。
「……そのジャケットの内ポケットに予備のハンカチが入ってる。使ってないからご自由にどうぞ。鼻かんでもいいけど、さすがにその場合は君が持って帰って処分してね」
「あら、ハンカチは買い替えが必要ではなくて?」
「淑女の涙ほど高いものはないでしょうに」
「金銭の価値などないわ。わたくしのものなら特に」
彼女の声に硬さが混じる。卑屈とも感じられるその発言は、今の彼女の境遇を考えると仕方ないことなのかもしれない。かの氷姫は、“下賎な一般市民の女に婚約者を取られた公爵家の恥”として学園中で蔑まれている。彼女は未来の王太子妃として申し分ない実力と血統を持っていたのだが、何をとち狂ったのか王太子がそこらへんの一般市民の女子生徒に陥落してしまった。玉の輿成功である。それは王太子妃教育を済ませた婚約者を押しやるほどのものらしく、女子生徒に王太子妃教育のさわりを仕込み始めたという噂まである。バカな主君を持つと自分のような弱者にツケが回ってくるものだ。ぜひ王族にはこの王太子を廃嫡するか目を覚まさせるしかしてほしいところだが、弱者である私にそれを訴えるだけの権力はない。罰されるどころか不敬と言われて黙って実家の取引先を潰されるくらいがオチだ。だからこそ氷姫には頑張って欲しいのだが、いくら冷静沈着才色兼備とはいえ人の子。こうやってダウンしてしまうことだってあるだろう。
「かわいくて愛されるやつより、かわいくなくても国を豊かにしてくれる人」
「……急にどうされたの」
「いや? 私がもし主君を選べるのなら。そういう人に頑張って欲しいなと思うわけです」
「なあに、随分と殊勝なことを言うのね」
「当然でしょ。弱小貴族とはいえ、私の身の振り方が領民の先を左右する。それがわかってくれるのなら、かわいさや綺麗さは求めない。そういうのがほしけりゃ猫でも飼えばよろしい」
「猫が好きなの?」
「ええ。猫の可愛さに比べたら人間の可愛さなんてたかがしれてるもんでね」
「わたくしは馬が好きよ」
「馬ァ!?」
「賢くて強いもの。懐くと擦り寄って可愛いわ」
猫と張り合うのに馬出してくる人初めて見た、とは言えずコメントに困っていると、彼女はまた喉奥を鳴らす。
「ねえ、クリスティーナさん。もう少しジャケットを借りていてよろしい? 人伝いになってしまうでしょうけど、後できちんとお返しするわ」
「そりゃあもう。存分に借りて落ち着いてくれ。私は一足先に帰るとするから、ロッカーにでも投げ入れてくれたら」
「投げ入れないわ。綺麗にして返します」
「そりゃあよかった。大事な制服だからね」
思い出が、脳裏を駆け抜ける。目を開ければ土煙が視界に広がり、吸い込んだ空気には血の臭いが混ざる。
「あのあと、新品のハンカチと一緒に帰ってきたんだっけ……?」
夢の続きを思い出しながら体を起こす。気づかなかったが上に何かが乗っかっているようで、なんとかそれらをどかし立ち上がる。自分を下敷きにしていたものは2体の死体だった。おそらくこれが上手くクッションとなり、強烈な攻撃を受けたのにも関わらず生き残ったのだろう。突然の出来事に脳がくらくらとする。吐き気を感じる余裕もなく周囲を見渡せば、大きく壁にかけられた王族のエンブレムや絢爛豪華なホールは見る影もなく荒れ果て、崩れ、血に染まっていた。いたるところに散らばる人間は自分以外のすべてが事切れている。
「うまく作動したわね」
かつん、とヒールが鳴る音が聞こえ、自然とそちらに視線が向く。プラチナゴールドを短く切り揃えた美しい髪に赤みが強い紫の瞳。大人びてはいるが、忘れたことのない顔。
「レイチェル・U・アインホルン!」
───厳密に言えば、その名を持つものはもういない。その人物は4年前にアインホルンを追放された。“嫉妬に狂った用済みの公爵令嬢”として。あろうことか一市民だった女子生徒にハメられ、犯罪まがいの虐めをしたと冤罪をかけられたのを覆せなかった。王太子が手を貸したのかもしれないが、“ただの一市民の女にはめられる程度の公爵令嬢など殺した方が安上がり”だと、世間とアインホルンはあっさりと彼女を放り出した。(自分はそこで「この国もうダメだあ」と思って弟や領民たちをこっそり国外に逃すことになったのだが、それはまた別の話である。)
兎角。そんな追放された令嬢は、どこからともなく建国の祭事に現れたのだ。酸化した血のようなワインレッドよりも暗い赤色のドレスを身に纏い、笑みを浮かべ、まず最初に国王の首を軽々と刎ねた。そしてぱちん、と指を鳴らしたと思えば、一瞬にして爆発が起こり……。そこからは気を失っていて覚えていない。
「お前を覚えているわ、クリスティーナ・レイヤード。……今はクリストファー、だったかしら? レイヤードの後継が次々に国外へ飛んだものだから、あなたが最後に残ったのよね。男性名まで使って商売して仕送りなんて、健気だわ」
「よくご存知で」
「この国の者のことで知らぬことなどない。アルコール依存症の先代王妃、色狂いで仕事をしない王太子夫妻。王はその様子に疲れ果て宗教にハマり、実際政治をしているのはどこぞの新興宗教の教祖。税が上がり反抗する国民を見せしめに殺した軍部最高司令官のカストロ・E・ガードナー。……ああ、魔王の討伐とか言ってそこらへんの騎士と一緒に駆り出された第二王女は逃亡して処刑されたのに、都合がいいから税収の理由にされたまま。よくもまあ、数年でここまで落ちぶれることができたものよ」
「それについては同感だ」
「ふふ。……でももう全員滅ぼしたけど」
ゆっくりと、彼女はこちらへと近づいてくる。深紅に染まった唇は弧を描き、瞳はまっすぐクリスティーナの方に向けられ逸されることはない。
「復讐か?」
「そうかもね。自由に考えなさい。お前に教える必要などないわ」
逃げるかどうかと足に力を入れ、数秒のち諦める。一瞬でこの場を蹂躙し殺しきった彼女から、魔法の魔の字も使えない自分が逃げられるはずがない。さながら魔王に相対する哀れな人間の図だ。足から力を抜きその場にくたりと膝をつく自分の頬に、彼女は手を伸ばす。戯れに捨て犬の如く可愛がられているのか、このまま首をぶちりとちぎる気なのか、彼女が何を考えているかが読めない。ただ、病的にまで美しい彼女に看取られるのは、同性であっても喜ばしいことなのかもしれないな、と思いながら彼女を見上げる。
「───復讐だとして。君にはその権利がある。好きにして構わないよ、レディ」
クリスティーナは、冤罪だと判っていても何もしなかった。自分の家族を優先し彼女を見殺しにした、と言われたら言い訳もできない。自分も復讐相手だとレイチェルが主張するのなら、それを黙って受け入れるしかないのだ。むしろ雑に殺されないだけ、1人の人間として尊重されているとも捉えられる。自分が死んでも身内が生きていける手配は済んでいるし、せいぜい彼らが1ヶ月ほど悲しむ程度の命しか持ち合わせていない。
「本当に愚か」
温度のない声とともに、ぐ、と頭を引っ張られる。ここで死ぬのか、と反射的に目を瞑れば、ふに、と唇に何か当たった。いや待て、唇? そう思って目を開ければ、彼女の顔がめちゃくちゃに近い。
「だから私に見つかってしまうのよ、クリスティーナさん」
「は?」
ぎゅ、と間髪入れず抱きしめられ、ぱちんと音が鳴ったかと思えば。
次に自分が目を覚ましたのは、展覧豪華な一室だった。