第56話 危険が香る虹色玉
「オレは、やめろといっただろう!」
「はちみつ、食べたかったしゅ」
桃海亭の店内で、オレとムーは床を見下ろしていた。
ムーが、はちみつが食べたいと店内で、異次元召喚を行った。
召喚は失敗。
現れたのは、直径10センチほどの真ん丸の種。
「変なのがでてきたら、どうするんだ!」
「ヤバヤバになるしゅ」
「わかって、なぜ…」
種が割れた。
「はっしゅ!」
丸いボールのようなものが転がりでた。
半透明でボール内側は、煙のようなものが虹色に渦巻いている。
「触るなよ」
「わかってるしゅ」
「毒ガスとか噴出しないだろうな」
「わからないしゅ」
「わからないということは、知らない召喚獣なんだな?」
「はいしゅ」
「シュデルはどこにいる?」
シュデルがいれば、魔法道具の護符に一緒に守ってもらえるかもしれない。
「パン屋に行く言ってたしゅ」
「ダメだな」
「ダメしゅ」
「逃げるか」
「逃げるしゅ」
パン屋となると、隣のソルファさんのところかもしれない。
ソルファさんの店内なら、モジャの結界内で命の危険はない。
トラブル発生後だとオレ達は店に入れてもらえないが、今なら、シュデルを迎えに来たという感じで入れば、入れてもらえる。
「行くぞ」
「行くしゅ」
扉から飛び出し、隣のソルファさんの店に飛び込んだ。
店内には数人の客がおり、会計のカウンターにはソルファさんが立っていた。
「あら、ウィル、どうかしたの?」
「シュデル、来ていませんか?」
「シュデルくん、来ていないけど」
「そうか、どこに行ったのかなあ」
できるだけ、長く居座わろうと店内をゆっくり見回した。
外が騒がしくなった。
「桃海亭よ!」
「桃海亭だな!」
カウンターのソルファさんが、外を指した。オレ達に出て行けということらしい。
「あの……」
「何があったのか知らないけれど、トラブルを片づけてくれないと、みんなが困るでしょ」
「オレ達がやらないとダメですかね」
「当たり前のことを聞かないで」
オレとムーはうなだれたまま、扉を開けた。
花の香りがした。
清々しくてほんのり甘い香りだ。
向かいのフローラル・二ダウの奥さんが、駆け寄ってきた。
「この香り、急に商店街に漂いだしたの。たぶん、桃海亭だと思うの。うちの店の花の香りを、お客様がわからなくなるから、早く止めてね」
ちょっと、ひきつった笑顔だ。
「いま、調べますから、少しだけ待って…」
「急いでね」
「はい」
オレが店に向かってトボトボと歩き出したとき、店からシュデルが出てきた。
「店長、これは何ですか?」
持っているのは半透明のボール。
「お前か!」
「ゾンビ使いしゅ!」
「シュデルくんだったの」
キケール商店街に広がる、清々しくてほんのり甘い香りが、シュデルの側だと強く香る。
シュデルが首を傾げた。
自分では気がつかないらしい。
「この甘い香りがわからないのか?」
「甘い香りですか?僕には匂いませんが」
「本当に匂わないのか?」
「はい、わかりません。なぜでしょう?」
また、首を傾げたシュデル。
「それは、何かしら?」
フローラル・二ダウの奥さんが、シュデルが持っている半透明のボールを指した。
「店内に落ちていました。ムーさんのですか?」と言ってシュデルは、何気なく隣にいたムーに渡した。
「うわぁーーー!」
「なんですか、この匂い」
「放して、ボールを放して、ムーくん」
「はいしゅ?」
「甘いんだ。キャンディとはちみつを煮詰めたような強烈に甘い匂いがしているんだ!」
鼻がおかしくなりそうだ。
「はいしゅ」
ムーがボールを渡したのは、フローラル・二ダウの奥さん。
「匂いがおさまったわね」
奥さんはホッとした様子で言ったのだが、オレ達は首を横に振った。
「匂います」
「ちょっと、匂うかもしれません」
「葉っぱしゅ!」
ムーが言ったとおり、強烈な青臭い匂いに葉っぱの絞り汁に漬け込まれたような気分になる。
「奥さん、ボールを置いてください」
店から飛び出してきたのは、フローラル・二ダウで働いている女の子。
「そのボールを誰かが持っていると商店街に匂いが漂うみたいです」
「置くって、これを」
「地面に置いてください。それで匂いは止まるはずです」
女の子は落ち着いた態度で言った。
「これを置けばいいのね」
奥さんは地面にボールを置こうとした。
「離れない」
「えっ」
「手から離れないの、どうしよう」
「ウィルに、いえ、シュデルに渡せるか試してください」
「わかったわ。シュデルくんね」
「はい、シュデルです」
奥さんはシュデルにボールを差し出した。ボールは奥さんの手からすんなり離れて、シュデルの手に渡った。
「この香りはシュデルくんの香りなのね」
再び香りだした、清々しい甘い香りに奥さんが納得した。
女の子が奥さんの腕をつかんだ。
「桃海亭に関わっちゃダメです」
引っ張ってフローラル・二ダウの店内に連れて行った。
「どうしましょう」
シュデルが手の中のボールを見た。
「本当に地面に置けないのか?」
シュデルがボールを地面に置こうとしたが、手に張りついて離れない。
「無理そうです」
広がる甘い香りに、人が集まり始めた。
「この匂いは何なんだ」
肉屋のモールさんが近づいてきた。
「このボールが原因みたいです」
オレが言った直後、モールさんがひょいとボールを持ち上げた。
「これは…」
「ベーコンですね」
「美味しそうしゅ」
焼きたてのベーコンの匂いだ。油っぽくないので我慢できなくはない。
「オレは匂わないぞ」
モールさんが不思議そうに言った。
「持っている人は匂わないみたいです」
「持っている人間の香り、ってやつかな」
モールさんから受け取ったのは靴屋のデメドさん。
革のなめした匂いだ。
「こいつをずっと嗅いでいたくはないな」
モールさんがしかめっ面をした。
「パンの香りなら大丈夫よね」
ソルファさんが、デメドさんからボールを取った。
「うわぁー!」
「目が、目が」
「滲みるぅ!」
「いたぁーい!」
周りが阿鼻叫喚になったのを、ソルファさんはキョトンと見ている。
シュデルが素早くボールを取り上げた。
「タマネギ、生のタマネギをすり下ろした時の匂いがしました」
息も絶え絶えに、ソルファさんに教えている。
「先ほどから変な匂いがするが、どうかしたのかい」
ワゴナーさんが人混みをかき分けて近づいてきた。
「このボールを持つ人間の匂いがするんですよ」
デメドさんが言うと、ソルファさんが
「違います。持った人間によって香りが変わるだけです」
自分の匂いが生タマネギすり下ろしというのを認めたくないらしい。
「人が持つと匂うなら人が持たないというのは、どうだろう?」
ワゴナーさんの提案に、一斉に首を横に振った。
「地面に置こうとすると、手から離れないんです」
シュデルが実演して見せた。
「どれ、私が」
ワゴナーさんがボールを持った。
「これは」
数人が鼻をつまんだ。
「会長、放してください」
「金属臭がひどいです」
「置けないのかな」
それでも、地面に置こうとして、手から離れないことを確認した。
「会長、渡してください!」
デメドさんがひったくった。
「革の匂いが」
モールさんが取り上げた。
ホッとした空気が漂った。
「ところで、こいつはなんなんだ?」
モールさんがオレに聞いてきた。
「すみません、失敗した異次元召喚獣です」
「店長、失敗召喚獣を放って出かけたんですか?」
シュデルが非難の眼差しを向けた。
「いや、お前を迎えに…」
「なるほどね、失敗したから逃げてきたのね」
ソルファさんの視線が冷たい。
「今はウィルを責めることより、こいつをなんとかしないとまずいだろ。失敗召喚ということは3日いるんだろ。オレがずっと持っているわけにはいかないぜ」
モールさんが手に張りついているボールを差し出した。
ワゴナーさんがみんなを見回した。
「とりあえず、キケール商店街のみんなで順番に持ってみないか?」
「時間制で、商店街を回すんですか?」
デメドさんが聞くと、ワゴナーさんは手を振って否定した。
「商店街に来てくれたお客様が、気持ちよく過ごせる香りの持ち主を探さないといけないと思うんだ」
「そうよね、淡い香りなら長い時間でも耐えられるかもしれないし」
ソルファさんが言うとデメドさんもうなずいた。
「いまのところ、短時間なら我慢できそうなのが、モールのベーコンとシュデルの花みたいな香りだな」
「それじゃあ、これは私が持って」
ワゴナーさんが持ち上げた途端、強烈な金属臭に襲われた。
「シュデルくん、シュデルくん」
ソルファさんに言われて、シュデルが慌てて取り上げた。
「会長とシュデルに商店街を回ってもらう。会長が事情を説明して、シュデルがボールを運ぶ、それで、どうだ?」
いつの間にか現れた金物屋のパロットさんが言った。
「それで行こう」と、言ったのはモールさん。
「じゃあ、オレからやるぞ」
パロットさんがボールを持ち上げた。
「ぐわっしゅ!」
「置いて、置いて」
「頼む」
「き、気持ち悪い…」
金属臭なのはワゴナーさんと同じだが、ワゴナーさんが新品の金属の匂いに対して、パロットさんのは錆びた金属の匂いだ。
「オレなら大丈夫だと思ったんだけどな」と、言いながらシュデルに戻した。さわやかな甘い香りに変わる。
ワゴナーさんがシュデルの肩を叩いた。
「シュデルくん、行こうか」
「はい」
「右から行くか、それとも左がいいかな」
「お任せします」
「右からにしよう」
ワゴナーさんとシュデルがキケール商店街に右の端に向かって歩いていった。観光客らしき人々もそれについて行く。
それから1時間ほどの間、キケール商店街には様々な怪しげな匂いが漂い、そのたびに悲鳴が響きわたった。
「使えそうなの香りは、モールさんのベーコンの香り、シュデルくんの花の香り、イルマちゃんの紅茶の香り、くらいだった」
ワゴナーさんが肩を落としている。
ワゴナーさんとシュデルが桃海亭に戻ってきたのは、1時間ほど経ってからだった。2人に続いて、喫茶店のイルマさんがボールを持って入ってきた。ほのかな紅茶の香りは刺激がなくて、心地よい。
「商店街の男性陣は協力してくれたのだけれど、女性には半分くらい拒否されてね」
イヤな匂いが出る可能性を考えれば、当然かもしれない。
「仕事があるから、いつまでも持っているわけにはいかないんだけれど」
イルマさんが眉を寄せた。
「一番いい香りなんだ、もうちょっとだけ頼むよ、イルマちゃん」
ワゴナーさんに頼まれて「もう少しだけですよ」と言って、壁にもたれかかった。
「何か良い考えが思いついたかな?」
ワゴナーさんがオレに聞いた。
「すみません。思いつきませんでした」
「そうか…」
オレとワゴナーさんが床に目を落とした。
イルマさんが壁から離れてオレの側に来た。
「ねえ、ウィルはどんな匂いだったの?」
「オレですか?」
「店長は、まだ触っていません」
「不幸の香りが商店街に広がったら、みんなが困るだろ」
ワゴナーさんが当然のことのように言った。
「試しに、触ってみてよ」
イルマさんがオレの前にボールを差し出した。
「えっ」
「もし、問題ない匂いなら、3日間ウィルが持っていればすむことでしょ」
「そうですが」
恐る恐るボールに手を伸ばした。
ボールが動いた。
オレの手を避けて左右に逃げ回る。
「こいつ!」
オレがつかもうとすると、イルマさんの腕を転がって上り、シャツの間から胸の谷間に潜り込もうとした。
「このエロボール!」
イルマさんがつかんでオレに差し出した。
「早く!」
「はい!」
受け取ろうとしたオレの手を避けて、床に落下。跳ねて、ワゴナーさんの手に張りついた。
「なによ、これ!」
「金属臭です」
オレが捕まえようとすると、また、落下。跳ねて、イルマさんの足に張りついた。メイド服のスカートの下、スラリとのびている足のスネの部分にピタリとくっついていた。
「シュデル、コップを持ってこい」
「わかりました」
「早くしてよ」
イルマさんが苛立ったように言った。
「持ってきました」
受け取ったガラスコップを素早くボールに被せた。
「シュデル、コップを持ってくれ」
「はい」
シュデルに持たせて、オレが両手でコップの入り口を塞ぐようにして、すくいあげた。ボールは無事にコップに収まった。
オレの手で塞いでいるせいか、ボールは底でおとなしくしている。
逃げないように塞いだ状態で、右手の人差し指を伸ばしてボールに触れた。
ボールが濃い緑色に変わった。
プルプルと振動している。
イルマさんが鼻白んだ。
「これがウィルの匂いなの」
「この匂いが嫌いで、逃げ回っていたのでしょうか」
シュデルがボールを見ている。
「どんな匂いなんだ?」
「予想と違って驚いています。店長のことですから、墓場とか、地底のスライム集合場所とか、そんな匂いだと思っていました」
失礼なことを、さらりと口にした。
ボールから指を離すと、元の虹色渦巻きに戻った。
「匂いませんか?」
「大丈夫だよ」
「あとはこのボールを人が触れない場所に入れれば終わりです」
「よかったです」
ホッとした空気が漂った。
気が緩んでいたのだと思う。
「何色だった?」
イルマさんに何気なく聞かれ、つい答えた。
「黒でした」
イルマさんの強烈なローキックで、オレはスネを押さえて転がり回った。
鍵のついた箱に入れておいたら、ボールは3日後には消えていた。
ボール事件からしばらくの間、二ダウではローカルな流行があった。
【爽やかミントは、不幸の香り】
ミント系の食材、香料、化粧品などの売れ行きが落ちた。
「店長、すこしは反省してください」
「やっぱ、オレのせいなのかなあ」
オレがボールに触れている間、爽やかなミントの香りが商店街に漂ったらしい。




