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夜明けまで、少しの間眠っては目覚め、また眠るというのが何度か続いた。いつもの起床時間より二時間早く起きて、顔を洗い、出かける支度をした。といっても、大したことはしない。普段着で、財布とスマートフォンと鍵を持って出るだけだ。着替えていると陽子が起きてきた。ゆりはまだ寝ているようだった。
「気を付けてくださいね。山間部は雨の所もあるみたいです。」
「山間部は雨の所も、って言っとけば天気予報はそれっぽくなるんだ。」
もう、と陽子は口を尖らせた。俺は、腹話術の人形みたいにヘラヘラ笑ってから、行ってくるよ、と言って部屋を出た。メットを被り、原付にまたがってスタートさせた。途中、仕事場に電話をかけなきゃいけないことを思い出し、路肩に止めて電話をした。空はよく晴れていて、絶好のツーリング日和だった。原付でもツーリングって言えるのかどうか、知らないが。町を東西に横切る国道を半時間ほど走り、それから北へ折れてまた半時間近く走ると、高速への入口がある。そこへは上がらず(当り前だけど)、11トンダンプに煽られながら峠を登り、頂上手前の自販機で朝食代わりの缶コーヒーを買って一休みした。確かに山の上の方には雨雲があったが、俺の進む方角には関係なさそうな雲だった。と言っても、まったく降らないという保証はないのだが。山の天気はナショナルジオグラフィックでよくある早回しみたいに変わるからな。時間が早いせいか、ダンプなどの大型車両以外の車にはあまり出会わなかった。といっても、この道が混むことなんてあまりない。週末は近県へ旅行に出かける連中でもう少し混むのかもしれないが。俺はあまり週末にこのルートを通ろうとは思わない。さっき上って来たふもとからの道を眺めながら、昔はよく仕事を無断で休んでこんなふうに遠出したな、なんて考えた。いまは違う―もちろん、無断では休まないという意味でだが。ゆりもあの日この道を通ってやって来たのかな、と俺は考えた。そう思うと休んでいる気も起きなかった。ここから三時間は走ることになる。あまり気負わないように言い聞かせて、もう一度原付を走らせた。峠の小さな町を過ぎると、しばらくはレストランや道の駅ばかりで、人間の住むところはあまり見かけなくなる。道の駅で小便をしといたほうがいいだろうな、と思いながら少しだけスピードを上げた。この辺りまで来るとパトカーに出くわすことはほとんどないからだ。いや、パトカーどころかすれ違う車自体ほとんど見かけなくなる。俺がこうして原付で走り始めたころにはまだ営業していた小さな商店やレストランは、ほとんどが潰れていた。この辺りでは役目の終わった建物がすぐに壊されることはあまりない。このまま放っておくと倒壊してしまうのではないか、あるいは、倒壊してしまった、そんな状況になるまで放っておかれる。予算の関係だの持主の事情だの理由はいろいろとあるのだろうが、正直言って広いとは決して言えない県境の国道に、そうした建物ばかり並んでいるのはあまり印象が良くない。まるで安手のホラー映画のイントロじゃないか?「その町は、すでに死に絶えていた…」なんてコピーで始まるCM、あるだろう?―一時間ばかりでまた小さな町に出る。町と言うか、集落とでも言った方がいいような小さな区域だ。そこにはいくつかの小さな工場が軒を並べて建っている。金属や鉄を激しく叩くような音や、アナログな警告音を鳴らしながら動き回っているフォークリフトが居る。そこで働いているのはほとんどが俺とあまり歳の変わらない男で、皆一様に髪の色を染めている。金髪とか、茶色とかだ。ここを通るたびに、俺は彼らの人生を考える。こいつらはずっとここに住んでいて、この工場でなにかの部品を造り続けているのだろうかと。それともどこか、都会に憧れを持って出掛けて、叶うことなく帰って来たのだろうかと。若いうちに好きな女が出来て、子供が出来て、だからここで働いてそいつらを養い続けてきたのだろうか?―いや、誤解して欲しくない、俺には彼らの人生を馬鹿にするつもりなどない。ただ俺自身がそういう人生を送ることが出来るのだろうかと考えたとき、そんなことは絶対に出来ないとそう思うのだ。だけどじゃあそれは何故なのかと考えたとき、俺はいつでもその答えを出すことは出来ない。俺は自分の人生に実感を持って生きたことなどなかった。欲しいものもなかったし、なりたいものもなかった。やりたくないことだけがたくさんあった。いや、出来ないことと言った方がいいのかもしれない。そこにのめり込めないというものだけがたくさんあった。目の前でその仕事を本当に信じ込んで、愛していて、躍起になって取り組んでいるやつらを見るとひどく気持ちが萎えた。そんなふうに働いているやつらのことが信用出来なかった。そいつらはそいつらで、真面目にやりはするが決してやり込みはしない俺に不信感を抱いた。どこに行ってもそうだった。俺は目の前にあるものを彼らほどに信じることは出来なかった。だから、ずいぶんと仕事を変えた。いまの仕事に就くまでは。いまの仕事は大きめの工場で、ただただ丸一日部品を基板にはめ込むような作業だ。そんなに急かされることもなく、個々が出来る限りのことをしていればそれ以上要求されることもない。気に入っている。俺みたいなのには似合いの仕事だ―同じことなのかもしれない。俺には選ぶものがあって、彼らには選ぶものがなかった。ただそれだけのことで、俺も彼らと同じなのかもしれない。久しぶりに目にした小さな集落の工場は、そんなふうに俺を少しだけ面白くない気分にさせた。俺はもう少しだけスピードを上げて、その集落を後ろへやり過ごした。それからさらに一時間ほど走って、大きな道の駅で小便を済ませ、すぐに動きたくなかったのでパンを買って食べた。近頃は道の駅にも大手のコンビニが入っている。俺みたいな適当な旅人には関係のないことだろうが、旅行気分を味わいたいやつには少し白ける材料なんじゃないのかな、なんて気がする。小休止して、もう一度小便をし、もう一息だと出掛けようとしたとき、広い駐車場の端に渓谷を見下ろす展望台があるのを見つけた。原付をそこまで走らせて上がってみると、二階建てくらいの古いコンクリの展望台は、ふとした拍子に土台ごと谷底へ転落してしまうのではないかというくらいに心許なかった。早々に階段を降りかけて、ふと、ゆりの親もあの日ここから谷底を眺めたのだろうかという気がした。その時そいつは、あるいはそいつらは、どんなことを考えたのだろう?一度は考えたかもしれない。でも、この場所は投げるにも投げてからも、目立ち過ぎる。だからそれは実行されなかったのだろうか?あるいは、さすがに死んでほしくはなかったのか―それは俺をとても暗い気持ちにさせた。余計なことは考えずにゴールを目指すことにした。そうだよ、先を急いでいて、あの展望台なんか目に入っていなかったかもしれないじゃないか。