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誰も全部は喋らない  作者: ホロウ・シカエルボク
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そういうわけで自宅の台所に自主的に閉めだされた俺は、良い布団のかたわれを敷いて横になった。もうここには長いこと住んでいたが、こんなふうに台所の天井をまじまじと眺めるのは初めてのことで、やたら新鮮な感じだった。いますぐにも眠れそうなほどに眠いのに、いざ横になってみるとなぜか眠りの入口を捕まえることが出来なかった。考えることが多過ぎるせいだ、と俺は思った。台所の方に眠ると、いつもは聞こえない物音とかよく聞こえた。その音に耳を澄ましながら、ゆりを拾ってからのことをじっくりと考えた。はっきりしていないこと、たとえばゆりの両親や、ゆりが捨てられた理由などについては考えないことにした。ゆりが言葉を発せないこととか、考えられる原因はいろいろあったけれど。俺はゆりの描いた絵のことを考えた。身体の能力が一部失われた状態で生まれてくるものは、残された感覚のどこかが秀でるという話を聞いたことがある。ゆりは言葉の代わりに、あれだけの絵を描く能力を持って生まれたのだろう。俺はスマホの画像を開いて、ゆりの描いた絵をもう一度眺めた。拡大して、隅々まで眺めてみた。線と線が接する部分で、どちらかの線がはみ出しているなんていう箇所はひとつもなかった。信じがたいことだった。俺なんかいまでもきっとそんなふうには描けないだろう。陽子の話じゃたいして時間もかけずにささっと描いたらしい。きっともうこの画像を見返さなくても、現物を目にした時点でそうと気づくことが出来るだろうな、と俺は思った。居間の方では陽子が小さな声で子守歌をうたう声が聞こえていた。綺麗な声だった。上手いだけじゃなく、そこには不思議な安らぎがあった。いままで何度も歌ってきたんだろうな、と俺は思った。その時初めて、この部屋に女が居るんだということに気付いた。自慢じゃないがこの部屋にこれまで女が来たことは一度もなかった。それがどうだ、ゆりを数に入れれば二人も居る。居間で寝ている。まったく人生はなにが起こるか判らない。夜中の散歩で女の子を拾うことだってある―そうだ、ゆりだ。俺は途中ですごく下らないことを考えていることに気付いて、軌道修正した。どうせ眠れないのだから、パソコンを開いて明日のルートでも考えてみようと思った。電源を入れて起動を待つ間、もう一度顔を洗った。もう眠気は飛んでいたが、作業の途中で眠くならないように念を入れたのだ。マップを開いて、○○市の地図を出す。俺の住んでいる町は山と海が近く、視覚的に開けた場所というのは海岸沿いくらいしかないが、○○市はだだっ広い平野だ。県境の峠を越えた瞬間にそれは判る。そういえばここ半年はどこにも行っていないな、と、目的の場所をマークしながら考えた。とくに理由があったわけではない。そういう気分にならなかった。人生がルーティン化し始めたのかもしれない。そんなふうに思う瞬間もあった。だが、だからといってその気もないのに出かけることもなかった。そういうことはあれこれ考えてもしかたのないことだ。ショッピングモールも、総合病院も、だいたいの見当はついた。少しは景色も変わっているだろうが、迷うようなことはなさそうだ。ゆりの家はどのあたりなのだろう?少しヒントでもあればな…あれだけの豪邸なら、新興住宅地とかそういうところを探した方が早い気はするのだが。だけど俺にはそんな場所の知識はなかった。陽子の友達の看護師はどれだけ期待出来るだろう?彼女が協力してくれるとして、たとえばゆりの両親の住所まで手に入れることが出来るだろうか?カルテを見ることが出来るなら不可能ではないだろう。だけど総合病院だ。なにもかもが手を伸ばせば届く距離にあるわけじゃない。陽子の友達がたとえば泌尿器科なんかの担当なら、産婦人科や小児科のカルテをこっそり見ることが出来る可能性はまずないような気がする。ええい、と俺は首を振った。病院のこともとりあえず置いとこう。ショッピングモールだ。ルート検索を使って、二つのショッピングモール間の移動距離と時間を出してみた。車なら一時間。原付ならもう少しかかるだろう。とはいえ、どちらの店でもやることは同じだった。それほど時間がかかることではないし、上手くすれば近い方の店で情報を手に入れることが出来るかもしれない。実を言うと、俺はゆりの親がそこでリュックサックを買っただろうことはまず間違いないだろうと考えていた。もしも俺の予想通りゆりの親がこの町の出身で、ゆりを捨てようと思ったときにあの場所のことを思いついたのなら、○○市からこの町に向かうルートの途中で買うのが自然だからだ。また、そうではなくて土地勘のない人間がたまたまあそこにたどり着いたのだとしても、こちらを目指してきたのなら道中で買物をしたと考えるのが自然だ。もうひとつの店でリュックを買ったとしたら、東隣の県を目指した方が絶対に近い―もちろん想像に過ぎないが、どうだろう、誰かが子供を捨てようと思ったときに、わざわざ遠回りするルートを選んで車を走らせるだろうか?俺は子供を捨てようと思ったことはないから判らないが、まずそんなことはないだろうという気がした。なるべく時間をかけずに、さっさと片付けようと思うのが自然じゃないか?そのとき居間と台所の境目のドアが、控えめにノックされ、陽子が顔を覗かせた。

 「起きてます?…めちゃくちゃ起きてますね。」

 なんだい、と俺は尋ねた。

 「看護師の友達から返事来ました。仮眠の時間だそうです。」

 俺はパソコンの時計を見た。午前三時になろうとしていた。

 「許せない。出来る限り協力する。夜勤明けにでも産婦人科の友達に事情を話して協力してもらう―とのことです。」

 「心強い文面だ。」

 そりゃもう、と陽子は保証した。

 「彼女、もと剣道部ですから。」

 陽子が居間に戻って、俺はパソコンを閉じた。少しでも進展したという思いからか、急に眠くなった。もう数時間しか眠ることは出来ないだろうが、いつものことだ。暗がりで天井を眺めていると、知らない間に眠りに落ちていた。

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