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昼の間狂人の悲鳴のような太陽に照りつけられた街路は、午前二時を過ぎるころようやく、ほんの少し涼しいと思えるようになった。ひどい湿気を巻き込んで道の奥から吹いて来るやわな風のにおいは、どこか人間の内臓の中に居るような気分にさせた。一、二杯飲んだハーパーの酔いはやはり中途半端で、だがそれ以上飲めるほど酒に強くもなかった。この週末にそこら辺の馬鹿みたいに酒を飲んで真夜中にうろついている理由は、ほんの気まぐれだった。ほら、特に理由はないけどなにかいつもと違うことをするべきだという衝動に駆られる時があるだろう?俺にとってはその夜がそういう夜だったんだ。文明の端っこ、文化なんて祭りぐらいしかないこの町には、酒を飲むところだけは山ほどある。誰とも話したくないならバーに行けばいい。訳知り顔のマスターは黙って酒だけを入れてくれる。どんな曲が流れていようが、どんな客が周りに居ようが、そんなの知ったことじゃない。それは俺の生きるべき世界じゃない。俺がそういう店に行くときはいつでもただのゲストだ。それ以上の存在には決してなり得ない。昔の友達の何人かは繁華街にほど近いところで店をやっていると聞いた。でもそれを聞いたのは何年も前のことだし、このご時世じゃもうなくなっているかもしれない。そんなに親しいやつらでもなかったから特別覗いてみる気にもならなかった。それに、そもそも場所すら聞いていないんだ…いままでそんな店のことは思い出すこともなかった。たまに酒を飲んだ夜にだけ思い出す記憶がある、そのほとんどは取るに足らないものだ。きっと俺にとっては酒自体がそういうものなんだ。親族のほとんどは酒で死んだ。みんな判ってるはずなのに飲み続ける。もしかしたら俺が時々こうして酒を飲むのは、取るに足らない彼らを時々思い出してやるためなのかもしれない。でも取るに足らないことの理由なんてべつにはっきりさせる必要もない。酒を飲むと帰り道は最短距離にはならない。いつでも長い散歩になる。枯れた、小さな川のそばをずっと歩いて、小高い山に登る―丘、と言うべきかどうか、いつも迷う程度の山だ。その山には頂上まで一直線に上る苔むした幅の狭い石の階段がついていて、登り切ると草にまみれた小さな空地がある。階段の様子や土地の規模から、小さな神社か祠のようなものがあったのだろう。そこに上る。そこから眺める小さな町には、俺の送って来た人生のすべてがあるが、それはやはり取るに足らないものだ。べつに、町のせいにするつもりもない。俺がその町で取るに足る人間になろうと思わなかっただけだ。懸命だろうと嫌々だろうと、この町で出会う人間たちはある意味で適当だった。一言でまとめるとそういう言葉になる。そう―借り物の主義主張で満足している。世間一般的な素晴らしい人生、男らしさ、女らしさ…そんなものの上面をなぞるだけで、目指すだけで満足している。そんな集まりの中に入っていきたくはなかった。それは本当に時間の無駄だという気がした。といって、反旗を翻したり、なにかまるで違うことをやろうという気もなかった。要するに、彼らとは違う適当の中を生きてきただけなのだ。憧れや、目標もおぼろげにはあった気がする。でもそれを実際に手に入れるために生きるには、俺は白け過ぎていた。いつでもなにか、寝起きのようなぼんやりとした気分で生きていた。そう、だから酒を飲む必要がないのかもしれない。古い言葉で言えば、昼行燈というやつだ―そんなことをいつも、その山の頂上で考える。空地の端にある、腰かけにちょうどいい石に座って。週末にはいまでも馬鹿みたいに街路に沸いているタクシーのヘッドライトがあっちこっちに走るのを見ながら。そして、あと何度こんな光景を眺めるのかと自問する。未来か。そんな言葉にリアリティを感じなくなるくらいには歳を取った。いまとなってはそれは過去と同じようなものだ。なにかを諦めたわけではなく、なにかを求めたわけでもない。そんな日々を過ごしてきたわけだ。散漫な流れは区切りを必要としない。溢れることも枯れることもないからだ。立ち上がり、石のすぐそばの崖を見下ろす。剥き出しの岩肌が、月光を受け止めて焼きの甘いトーストのような色に見える。若いころ、何度かここから飛び降りようとしたことがある。リセットボタンを押そうと思ったわけだ。でも下らな過ぎて実現には至らなかった。そんな結末は自分の人生には懸命過ぎる気がした。だからいつからかそんなことは考えなくなった。こうして、ただ見下ろすだけだ。ただこうして―ふと、崖の一番下に見慣れないものがあるのに気付いた。大きめのリュックサックのように見えた。拾ってみようか?そんなことを思った。だが、その崖を下る手段は見つからなかった。少なくともここからは。崖の下は枯れた川になっていて、そこにもまた崖があった。川の方からは絶対に行けない。崖の横はどうなっていただろうか?―そういえば、この階段以外に道があるかどうかは知らなかった。探してみてもいいかもしれない。リュックサックはまだ新しいように見えた。それがなんだか気になった。俺は階段を少しずつ降りながら、スマートフォンのライトで周辺を照らしてみた。中腹辺りに、以前は遊歩道かなにかだったらしい小さな道を見つけた。もしかしたら、そこから川に降りるような道がついていたのかもしれない。雑草がこれでもかと生えていたが、この際それは気にしないことにして…手ごろな枝で先を突きながら進んだ。なにしろ地面がどうなっているのか見えないのだ。虫の声も、鳥の声も聞こえなかった。そういえば、ここでそんなものを聞いたことがなかった。不思議だよな、とその日初めて思った。でも、それについて考えるのはあとだ。俺は出来るだけ急いで崖の近くに出た。道はなかったが崖の渕に沿ってなだらかになっている部分を見つけた。滑らないように気を付けながらなんとか降りることが出来た。そうしてリュックサックにたどり着くころには、盛大に息を切らしていた。ライトで照らしてみる。思った通り、まだ新しいもののようだった、というより、新品みたいだった。いったいどうしてこんなところに?あちこちをライトで照らしてみると、なんだか微かに動いているように見えた。目の錯覚だろうか?俺はライトを一点に当ててじっとしてみた。ううん、とバッグが声を発し、大きく動いた。そのせいで崖の端から落ちそうになった。俺は慌ててリュックを抱えた。ずしり、とそこそこの重さが腕に感じられた。冗談だろ?どこかに移動するか?いや、このままじゃ駄目だ。俺は意を決してリュックを引き寄せ、ジッパーを開けた。全体に大きく開くタイプで、かなり大きなものを入れることが出来た。だけど、このリュックのメーカーにしてもきっと、女の子がうずくまって入ることは想定していなかったに違いない。