復讐によって幸福を得た男とそれに伴って不幸になった人々の記録
その男には生きる理由があった。
ずっと不幸だったからだ。
いつか幸せになるまではオレは死んでなんてやらない、と。
漠然と信じていた。いつかは幸せになれる日が来ることを疑っていなかった。
そんな男はいつだって孤独だった。幼少のころに親を病気で無くし、兄弟も親戚の縁も無く、ずっと長いこと施設の中で育った。
ただ男は耐えていた。孤独と言う不幸に耐えていた。
そうすることで、いつかは想像もつかない幸せの中に身をおけるようになる。
それが男が生きてきた理由の全てだった。
けれども、そんな男は、どこまでも不幸に魅入られていた。
―――余命数年。
不幸の中にあって、唯一望むことを許されていた輝かしい未来。それすらも、彼は取り上げられてしまった。
そうして、見つけなければいけなくなった。
宣告された僅かな時間で、自分にできる何かを探さなくてはいけなくなった。
『復讐』
ふと、唐突に、男は今まで自分だけが不幸になってきたことが許せなくなった。
復讐してやる、と思った。
誰でもいい。何に遠慮するまでも無い。誰に罵声を受けようと、たくさんの人を泣かせようと、どうせ自分の命など残り少ないのだ。たとえ法で裁かれ、死の判決をうけたところで、今の自分がどこまで怖いと思えるというのだ―――
男はほとんど泣いたことが無かった。許される人生ではなかったし、気づけばありふれた不幸など、感じなくなってしまっていた。
それゆえ、漠然と誰かを泣かせる行為は、この世でもっともの悪だと信じていた。
だから、泣かせてやろうと思った。
自分が死ぬことで、沢山の人を不幸のどん底に叩き落し、涙を流させる。
なんて完璧な作戦だと、男は思った。
復讐の相手には、自分なんかに深く依存するような人間ばかりを選んだ。
輪からあぶれた孤独な学生と、親友のように昼夜問わず遊び倒し。
伴侶に先立たれた独り身の老人の下を、他愛ない談笑をするために通い。
家出した少女と、恋愛まがいのことをして。
クスリに依存した子供を、立ち直らせる手助けをしたこともあった。
皆が皆、笑顔で男に、ありがとう、と言った。
計画は進んだ。男は自分の計画のために、一生懸命に誰かに幸せになって貰おうとした。
結果、たくさんの人が男に感謝をし、依存した。そうして、いつしか男の周りは人で溢れる様になっていた。まるで、何かのヒーローのように。
男の活躍はテレビにも取り上げられ、それを見た誰もが男に好感を抱いた。男はそういう自分を完成させたのだ。
そんな最中。男の寿命が残り少ないものだと、あたかも、今しがた分かったかのように人々へと知らせられる。
男は街で一番大きな病院の、一番いい部屋に入院した。
あたりまえのように、周りの人間がそう取り計らった。
沢山の手紙と折鶴が届けられ、同じぐらいの頻度で人々が病室を訪れた。
その全てが、男の回復を懇願し、突然のように訪れた不幸を悲観した。
全ては順調だった。
復讐は計画通り進んでいた。
男の元に最終的に寄り添ったのは、一人の女だった。
幼少時に火事で両親を失くし、顔に大きなやけどを負い、その薄気味悪さゆえ、人から避けられ続けた不幸な人間。彼に最も依存した女。
「なぁ、お前は、オレが死んで、それからどうやって生きる?」
二人きりの病室、臥せったベットの上、男は聞いた。
「心配しなくても、私は、貴方がいてくれたことだけをずっと覚えて生きていけますわ」
「―――はっ、嘘言え。お前、そんなに強くないだろ」
男はあざ笑った。少女の告げた覚悟が虚勢であると、信じて疑わなかったのだ。
元々は一人で生きていた強い女を、男は強いまま生きていけなくさせるよう依存させ、自分の死で深い絶望を与えて、二度と立ち直れないようにし、あわよくば、自分のような男に、死後も付き添わせる。
そういう計画だったから男は彼女を選んだのだ。伴侶として、最後まで添い遂げる相手として。
「あら、何を言うの? 貴方が、こんなにも私を強くしてくれたというのに」
だが、返されたのは男の思いもよらなかった言葉だった。
「・・・・・・オレが、何をしたって?」
「私ね、ずっと自分のことが嫌いだったのよ。自分で自分を殺してしまいたくなるほどに。でも、私は貴方を好きになって、壊してはいけないものが、愛おしいと思えてしまう物が私の中に生まれてしまったの。人はこれを、愛なんて呼ぶのかしら」
はにかんだ笑み。自分の言葉に照れたような、女の声。
「―――だから、生きます。あなたのくれたこの思いを壊してしまわぬように。精一杯、生きていきます」
あぁ、なんてことだ、と男は思った。
人間とは、こんなにも馬鹿な生き物だったのだ。自分なんかが与えたハリボテの感情でも、ここまで騙され続けてしまうほどに。
男は、そっと目を閉じて、この数年間で自分のことをしてきたことを思い返す。
その、今まで綴ってきた、記録の中で。
ある日この病室を訪れた子供は、自分は夢を与えてくれたと言い。
ある日この病室を訪れた親友は、自分は理想を与えてくれたと言い。
ある日この病室を訪れた老婆は、自分は希望を与えてくれたと言い。
今、最後の復讐の対象だったはずの女は、自分は愛を与えてくれたと言った。
そして、皆が皆、男がくれたと言った、ハリボテだったはずの幸福に、笑顔して泣いていていたのだ。
あぁ、本当に馬鹿らしかった。
彼らは騙されているとも知らず、醜い復讐者が与えた嘘の幸福に、感謝ばかりしている。きっと、どれほどに男の死で泣こうとも、その果てで、彼らは本当に幸せそうに笑うのだ。
ありがとう、なんて口にして。
完璧だったはずの復讐は、誰にも理解されないままに終わる。唐突にそれを理解した。
「・・・・・・愛や、夢。希望や、理想、か」
ぼんやりと、男は呟いた。彼には、こんな自分なんかを信じ続ける、誰も彼もがどうしょうもなく悲しいものに思えた。
「―――生憎と、人間って言うのは、そんな大層な物にすがらなくたって生きていけるもんなんだぜ。それはどうしょうもなく、悲しいことなのかもしれないけれど」
「けれど、食パンの上にはジャムを塗りたくなるものでしょ? 上に何も乗ってないパンなんて、ただ味気ないだけじゃない」
「味気なかろうが、生きていくのにはさほどの支障なんてないだろうさ」
「でも、生きていくしか出来ないなんて、それはまるで人形みたいね」
「・・・・・・じゃぁ、オレも、さっさとバターでも、探しとくべきだった、かな」
呟いた彼を、女は、そっとか細い両腕抱く。優しく、疲れきった男を慈しむように。
「―――ねぇ、貴方はきっと、自分がたくさんの人に愛されてるってことなんて、知らなかったのね」
「うん。でも、知りたくなんてなかったよ。出来ることなら、最後まで無知を許されたかった」
「駄目よ。きっと、それが貴方を知る人を残して先に逝ってしまう、貴方への罰だもの」
「けれど、その罰なんて、大多数の人は許すんだろうさ。オレはそういう風に生きて来んだから。彼らに、希望なんて与えてしまったんだから。なぁ、お前はオレを許すか。それで―――最後には忘れてしまうのかな。最初から、そんな存在、なかったみたいに」
「安心してください。私は、決して貴方を許しませんから。折角永遠を誓い合った愛だったのに、置いていってしまわれたら―――ずっと追いかけるしかなくなるでしょう?」
「あぁ、本当だ。お前、強くなってしまってたんだな。気づけなかったよ」
「今さらですね」
「うん。今さら気づいたよ。オレ、きっと一人で死ぬことがさびしかったんだなって」
彼は呟き、女はそっと、男の頭を撫でて答えた。
「ねぇ、さびしがりやさん。貴方は、本当はどんな幸せを望んでいたんですか?」
「・・・・・・もう、覚えてないや。オレが、どんな幸せを、求めていたかなんて」
「じゃぁ、どうでしたか、あなたの人生は」
「まいったなぁ」
男は困った顔で笑った。
「結局、最後までオレは不幸だったよ」
結局のところ、その男は多くの人間を不幸にした。
男の葬式には、式場に入りきらない参列者が列を成し、誰もが彼の死に涙した。
彼は、自分の求めていた物を、そうして手に入れることが出来たのだ。
ならば、この復讐は成功したのだろう。
彼の安らかな顔の前、こんなにも沢山の人が泣いている。