還り道
図体が大きい割に、情けない男だった。
「あのー、よ、よろしくお願いします!そのー、お見合い結婚なんて嫌かもしれませんけど、わ、私は結構、そのー」
小さい頃に会ったっきりのそいつは緊張してガチガチになって、あのー、とか、そのー、とか、いちいちうるさかった。
「……いいからハキハキ喋りな。アンタも見合い結婚なんざ勘弁って思ってるクチかい?」
思わず苛立って睨むと、ひぃっと頼りない声をあげながら、
「そ、そうじゃないです!あのー、でも、見合いじゃなかったら……そのー、ちゃんと求婚とかして、恋愛結婚とか、良かったかもなー、とは……」
なんて、照れながら甘いことを言ってきた。
「……甘い人ですね。それでよく、この家に婿入りなど考えたものです」
「い、いや……さっきの話し方、良家の娘っていうよりはやくざ」
「なんか言ったかい?」
「何でもありません!!」
最初はちっとも好きになれなかったけど、お互い仕方なかったんだから割り切った。
本当は結婚なんかしたくなかったし、そもそも色恋沙汰に興味がなかった。
「てめぇが「奥方様」なーんて呼ばれる側たァな。笑えてくるぜ」
「あたしにとっちゃ、アンタが若衆なんぞになれるってことの方が意外さね」
いつのことだったか、幼馴染とそんな話をした。
「……なんなら、俺と駆け落ちなんてどうよ?悪かねぇだろ」
「馬鹿言うんじゃないよ。こっちから願い下げってもんだ」
幼馴染……龍が、こっちにちっとばかし惚れてんのは分かりきってたが、その気は欠片もなかった。
恋だの愛だのに縛られず、自由でいたかった。せめて、心だけは。それは、相手が昔馴染みのゴロツキだろうが、家どうしで決めたボンボンだろうが変わりはしない。
「あ、あのー、花を……買ってきました」
「……はぁ。また花ですか。ずいぶんと小洒落た真似をするのですね」
「今回は気に入ってもらえると思います!」
「……確かに、綺麗ですね」
「……!良かったぁ~……また、趣味が悪いって言われるかと……花言葉まで考えて女々しい人ですね、とか……」
婿養子に来たその男は純朴で、呆れるほど素直だった。
こっちにその気はないのに、うっかり絆されてしまいそうになる。
「……では、庭にでも植えてくれますか。……ああ、あと、世継ぎの件についてですが」
「へっ!?」
「何を妙な声を……。分かりきったことでしょう。貴方も眞上……「大口真神」所縁の家から来た男。私など生まれた時から、貴方かお義兄様を婿に迎えると決められていたのですよ?」
だから、「眞子」。生まれた時から不自由な名前。……不自由な血筋。
「ま、まあ、そうですけど……。……でも、眞子さんにも、心の準備がいると思うんです。だって、あのー……子供のことですから」
そんな甘っちょろいことを言いながら、また、あのー、そのー、が始まった。
「もう覚悟はとっくに決まっていますので。お気になさらず」
「そうですか……。眞子さんは、強い人なんですね!」
その笑顔に、うっかり絆されてしまいそうになった。
……それくらい、明るくて、優しくて、いい顔をしていた。
「あ、向こうの方、海がありますよね。すごいんですよ。夕陽の沈み方というか、そのー、風景というか……」
「そんなもの……見慣れています」
ああ、そうさ、絆されてりゃよかったんだ。
庭に咲き誇る菜の花も、これで見納めになる。
「……おばあ様、お呼びになられましたか」
世継ぎはちゃんと生まれて、孫も目の前にいる。今年で十になる、可愛らしい少女。
……「大上の女」としての役目は果たした。
けれど、時代は変わる。この子はまた別の重荷を背負うことになるだろう。……世俗に取り残されたこの家で、私は心だけでも自由であろうとした。
自由であろうとしすぎたのだ。
「……そろそろ、もっと遠くで隠居しようと思いまして。さすがに隠れても誤魔化せませんから。私が、ヒトではないことを」
我らは異形。老いることはもう、おそらくない。けれど、だいたいの祖先は早死してきた。……息子も、ひとりは見送った。私が珍しいくらいだろう。
「かさね、貴方に伝えたいことがあります」
「……?はい、なんでしょう」
「心を殺してはなりません。強く鍛えるのは構いませんが……何かを感じる心は、残しておくことです」
「わかりました。肝にめいじておきます」
ああ、そうさ。あたしは変に歯向かおうとしただけ。強くあろうとして、見誤った。
屋敷の向かいに、神社がある。その奥には、小高い山がある。かつて、土地神……我らが先祖の住まいだったと言われる山……その麓に、あの人はいる。
「…………大次郎さま。30年ほど墓参りをしてきましたが、これで終いです。私は、山に篭もりますので」
愛していた。
「貴方がご実家で亡くなられた時、私は……初めて、人のために泣きました」
心の底から、本当は愛していたのに、
身体は不自由でも、心だけは……恋だの、愛だの、そんなのに縛られたくなかった。
そんなこだわりに、自分で自分に縛られちまったんだ。
単純な話、恋したけりゃすりゃあいい。したくなけりゃしなきゃいい。……そんだけだったのに。
祖先が祀られる山の奥深く、宛もなく進んで行く。足元も悪けりゃ道もないが、とにかく歩いた。何かがある予感がして、着物が裂けても転んでも進んだ。
何かを掴みたかった。あの場所にいたらできないことをしたかった。それに、子供の時からずっと、この山の深いとこまで行ってみたかった。ずっと、ずっと、「その先」に憧れていた。
走って、走って、転んで、走って、また転んで……
これだけ必死になってりゃ、これだけ夢中になってりゃ、
あの人を失わずに済んだ?
重荷だけ背負って、窮屈に生きずに済んだ?
あの子を、死なせずに済んだ?
考えが浮かんでは消え、それでも走って……
突然、視界が開けた。
「……え……」
澄み切った湖。
傍らにはいくつもの洞穴。
寂れた祠の向こうに、鬱蒼と茂る森がある。
振り返ると、朽ちた鳥居の向こうに、まだ新しい鳥居と本殿が遠目に見えた。
「……驚いたねぇ……」
海に沈みゆく夕陽が、ここからも、よく見える。
「…………一緒に見て、綺麗ですねー……なんて……一度くらいは言えばよかったねぇ」
風が凪ぐ、還暦を越えても黒い髪。
ああ、でも、目元や口元の小じわは、ようやく増えてきたんだっけか。
「……ああ」
背中に感じた温もり。
「そこに……そこに、いたのかい」
祠から覗く、数多の金の瞳が、どこか懐かしく思えた。
「……ちゃんと、綺麗に直さなきゃねぇ……」
そうじゃなきゃ、あの可愛らしい孫達が不憫だ。あたし一人じゃ、どこまでできるかわかりゃしないが……
その時、頭の上から、赤い花弁が舞った。……舞った、なんてもんじゃない。こんなにばさばさってばら撒いて、どうすんだい。
「…………そういや菊は、貰ったことなかったね。アンタ、不吉だとかそういうの……気にしちまうから」
図体の大きな影が、涙ぐんだ気がした。
「……なんだい。30年もしてきたことは無駄骨かい」
拍子抜けした途端、その肩に、別の温もりが触れた。
「……まあ、いいさ。あたしはまだまだ死ねないってことさね。……ああ、アンタはこき使ってやるよ。……ったく、親より先に死にやがるなんてねぇ……」
懐かしい相手が、指をついて頭を下げた気がした。
……変に堅苦しいとこは、誰に似たんだか。
また、海の方に向き直る。
沈みゆく陽が、登り始めた月が、静まり切った湖畔を照らしていた。
ある山の奥深くに、土地神さまの住まいがある。
忘れ去られたその場所に、一人の女が住んでいる。
今度こそ、呪われた因果を断ち切るために。