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「あんた、リーズ公爵が怒ってる中でよくあんなこと言えたよな」
リーズ達から大分離れた城の塔へ向かいながらウッブズが言った。ロゼリッタは無言を貫き通している。
「ヴァーン侯爵が助け舟を出して下さらなかったら俺までミイラになっちまうところだったぜ……ミイラの狼男……あんまり欲張ってもな」
その一言でうつむいていたロゼリッタが顔を上げた。
「やっぱりさっきのって私を助けてくれたの?」
初めてウッブズに対して口を利いたからか、ウッブズは驚いたようにロゼリッタを見た。満月の日以外は人間とそう大して変わらない狼男のウッブズは、キョトンとした顔をしている。
「違うの?」
ロゼリッタは首を傾げウッブズに問う。我に返ったウッブズは曖昧な返事を返した。それから理由を呟く。
「リーズ公爵が怒るのなんて見たことなかったからよ……つい、な」
へへ、と照れ臭そうに笑うウッブズはロゼリッタが話に聞いていた人狼と、随分とイメージが違った。長い間、人間を襲っていないと言われている魔族だが、子孫の残し方は人間とは異なる。その為、何処かで人間を襲っていると言われていた。ヴァンパイア達は長く生きるが狼男、人狼とされる者達は人間と寿命が変わらない為だと。
だが今ロゼリッタの前に居る人狼はとても人間に近い表情をしていた。リーズよりは好きになれそうだとロゼリッタは頬を緩める。
「あの人に任えてもう五十年くらい経つが、あの人が表情を変えるところなんて今まで一度も見たことがねぇんだ」
塔の上へと続く階段を上りながらウッブズは言った。ロゼリッタはリーズの弱点を聞き出そうとその話題に食い付いた。
「もう六百年もノワールを治めてるんですって?」
当たり障りのない一般知識から深いところへ。
「ああ。俺の親もそのまた親も、リーズ公爵に任えててな。病弱で畑仕事が出来ねぇ俺を捨てた本当の親の家付近でのたれ死にそうな俺に目をかけてくれて、俺は人狼になれたんだ」
ロゼリッタは面食らった。人狼になれたとはどういうことだ。
「人間より魔族さ。自分の腹痛めて産んだ息子を捨てる母親より、通りすがりの俺に目を留めて下さったリーズ公爵の方がよっぽど優しいぜ」
ロゼリッタは混乱する頭を整理してウッブズに尋ねる。
「ちょっと待って。貴方……人間だったの? ってことはやっぱり魔族は人間を襲うんじゃないの!」
話に聞いた通りだったわとロゼリッタは青冷める。今このにこやかに遠い目をする人狼も次の瞬間には噛みついて来るのかもしれないと思うと、ロゼリッタは逃げ出したくなった。しかし行く場所などない。
「俺は襲われたんじゃねぇよ、助けて頂いたんだ。人間の体はどのみち死んでた。こうして五十年も生きられたのはリーズ公爵のおかげだ」
少し口を尖らせるウッブズの言葉にロゼリッタはまた分からなくなる。助けられた? 人狼に噛まれることで? 実の母親には捨てられて?
「リーズ公爵……あの人が? 貴方を助けた?」
塔の天辺に着いたのか階段は其処で終わっていた。ヴァーンに言われた通り鍵を五個も用意させたのか、ウッブズが扉を開くとガチャガチャと騒がしい音がする。
その部屋の中に入れられたロゼリッタは辺りを見回した。
誰かの私室のような家具の置き方だ。だが床や机に物は散らかされておらず、綺麗に掃除されている。
「此処は“乙女”の部屋だ。収穫祭までの一ヶ月、“乙女”になった者達はこの部屋で生活する。今年は俺があんたの世話を任された。食事は一日二回。魔女に頼んで水が出るようにしてやるよ。一日に必要な分だけ出るようになってるから何か企んでも無駄だからな。
収穫祭の前日に薔薇風呂へ入ることを義務づけられてる。この部屋の中でなら何をしていても自由だ。詳しくは机の中にある先代の乙女達の日記でも読んでりゃ分かるだろう」
早口にまくしたてられロゼリッタは唖然とする。ウッブズはそれから、と続けてロゼリッタを見つめた。
「わざわざ収穫祭なんて年に一度しかない祭の為に人間用の部屋を作ったのは、あんたみたいな非力な娘を他の魔族に奪われないようにしたのが大半の理由だ。だがリーズ公爵は、此処の空気は人間には一ヶ月も耐えられないからと窓を付けて下さったんだ。六百年前までは閉鎖的で明かりひとつなかったらしい」
真っ暗闇にひとり残されるのを考えてロゼリッタは体を硬張らせる。
「人間には耐えられねぇだろ、朝か昼か夜だかも分からない部屋に一ヶ月も居るなんてよ」
微かにロゼリッタは同意する。そんな所に居たら発狂してしまうだろう。
「人間だった記憶を残すリーズ公爵だから分かることなんだぜ」
「え?」
「俺だったら気にかけてる余裕なんてねーぞ」
じゃ、またなと言って乙女の部屋から出て行くウッブズを追い掛けて、ロゼリッタは鍵をしめる扉の向こうのウッブズに問いかけた。
「あの人が人間だったって何? どういうこと?」
知らねぇのか? とロゼリッタ以上に驚いた声が返ってきた。そんなに有名な話だったのかしらとロゼリッタは続きを待つ。
「リーズ公爵は六百年前、人間でありながらヴァンパイア公爵としての技量があり、一国を治めることを許される者であると証明する緋色の目のせいで人間であることを捨てざるを得なかった。それが最初で最後の“イヴ”ならぬ“アダム”だっていう、選ばれたヴァンパイアだ」
ロゼリッタは目眩を覚えた。リーズもまた、魔族の餌食とされた人間なのだろうか。
「何しろリーズ公爵を選んだのはその時代のヴァンパイア公爵だったっていうあのアルス=ホルゾン前公爵だ」
その名を聞いてロゼリッタが思い出したのは、数千年前に争いでバラバラになりかけた魔族を再び団結させ、王ではなく五爵に権力を分散させて各国に魔族をバランス良く振り分けたことで有名な初代公爵だ。その彼が選んだと言うのがリーズならば望まれるべくして生まれた存在だということなのだろう。それを本人が望んでいたかどうかは定かではないが。
「何てこと……」
「少しは見方が変わったか? 一方的にしか物事を捉えられないとその裏側があることを失念しちまうぜ」
五個全部の鍵を閉め終えたのかウッブズが去って行く音がする。ロゼリッタはズルズルと扉に倒れかけ、うつむいた。
「魔族をまとめるのが……元人間だったなんて……」
ノワールを治めるのは魔族として生まれた者だと思っていたロゼリッタは、リーズがそうではなかったことを知り愕然とした。魔族に人間が負けてなるものかと思ったからリーズには屈服しないと宣言したのだ。
ヴァンパイアに友人を毎年奪われることの苦しみなど分かるまいと思っていたから。それなのに。
「人間の世界と切り離されて突然魔族の仲間入りなんて……耐えられないわ」
ウッブズのように人間に見きりがつけば魔族として生きるのも悪くないと思えるだろう。だが、リーズは?
ヴァンパイアとしての力あるだけに人間ではなくヴァンパイアであれと言われたのだろうか。そんなことがあったのだろうか。
「どうしようか……皆……」
毎年選ばれる度に喜び生命を捧げ、帰って来ることのなかった友人達にロゼリッタは語りかける。彼女達はこの部屋で一ヶ月もの間、何を考えていたのだろう。自嘲気味にロゼリッタは笑った。
来るべきではなかったのかもしれない。目にもの見せてやろうと息まくより、町で憎しみを募らせていた方が良かったのかもしれない。
リーズが付けさせたと言う窓からは、一月後の収穫祭が待ちきれなかったとでも言うように赤味がかった月が覗いていた。
***
「リーズ公爵、お出掛けですか?」
堕天使達の前を通るリーズに堕天使のひとりが問いかけた。闇色のマントに身を包んだリーズは肯定する。
「ハリエルを知らぬか?」
「ああ、ハリエルなら今頃夢の中ですよ。先刻他の奴らより先に帰って来ましたからね」
くすくすと笑う堕天使達の額や手の甲といった目立つ処には堕天の証が刻まれている。だが彼らはそれを勲章のように思っている。悪魔にではなくヴァンパイアに忠誠を誓った為、元は白かった羽根が今は紅い。
「リーズ公爵、ウッブズは連れて行かないのですか?」
いつも一緒なのに、とでも言いたげな堕天使にリーズは頷く。ウッブズには今年の乙女の世話を任せているからと。
「もうそんな季節なんですね。道理で今夜の月は赤いわけだ」
堕天使の視線を追ってリーズも窓の外を見やる。赤と言うよりはオレンジ色の月は一月早い収穫祭を思わせた。
「今年の乙女もリーズ公爵に恋い焦がれていた娘ですか?」
肯定を前提とした堕天使の問いにリーズは否定を返す。堕天使は意外そうにリーズを見た。
「今度の乙女は、私達が捨てた色を持っている。大人しく乙女にはならぬ」
「“イヴ”の器ですか」
「……解らぬ。収穫祭にはおのずと答えが導かれよう」
堕天使は意外そうな表情のままリーズから離れた。他の堕天使が起こして来たのだろう、ハリエルがやって来たからだ。
美しく黒い翼を持つ鳥の姿をしたハリエルは、眠そうに羽ばたくとリーズの差し出した右腕に止まる。夜が明けぬ間にと闇色のマントをひるがえし、リーズとハリエルは消えて行った。
「……イヴ、ね」
堕天使は呟いた。かつてヴァンパイアの王と対等の位置に居るとされた者、それがイヴ。どちらかを伏すことなど出来ない。倒れる時はどちらかの手で最期を迎える。だが王という制度がなくなり公爵の地位がローズに誕生して数千年経つ。イヴは現れなかった。だが姿を変えて現れることはあるだろうか。
「収穫祭か」
先程のリーズの言葉を思い出し、堕天使は再び月を見上げる。もう二度と青い空を飛ぶことはないと思うと少し哀しくなった。
「堕天の証は我が勲章」
悔いてはいない。自分で選んだ道なのだから。彼の元に居たくて得た紅い翼だ。愚かな選択だなどと言わせるものか。
堕天使は仲間に呼ばれ、そっと舞い上がった。