19
リーズはいつも以上に難しい顔をして、薔薇園を駆け回るロゼリッタを見ていた。ロゼリッタの蜂蜜色の髪は黄色の薔薇よりも美しく、楽し気に笑う唇は深紅の薔薇よりも艶やかで、大きな空色の瞳は希少な青の薔薇よりも鮮やかで、陶器のような肌は白の薔薇よりも透き通っており、夜闇をひらひらと舞うドレスは紫の薔薇よりも甘く、駆けた後の地面はベージュの薔薇をしき詰めたように輝いてさえ見えた。そしてその笑顔は薄紅の薔薇ですら勝てないような愛らしさをたたえていた。
だがその心は表面上しか見ない愚者を嘲笑うように棘で覆い隠し、本心を知ることは困難だ。だが自分こそはと思う者は後を絶たず、また、リーズ自身もそんな薔薇に見惚れた愚か者のひとりなのだろう。
眺めていたいと思うと同時に、手元に置いておきたいが為に手折ってしまいたいとも思う。そんな矛盾した気持ちを抱えながら、リーズはロゼリッタを目で追っていた。
「リーズ! 来て! 凄く綺麗!」
薔薇を世話する妖精の光がふわふわと浮かんでいる。おかげで月のない夜にも関わらず、人間のロゼリッタの目にも薔薇は美しく見えていることだろう。
しかしリーズはロゼリッタが顔を覗かせた場所を見て首を傾げた。リーズの記憶ではあんな所に薔薇は咲いていなかったはずだ。正確には咲いているが、いくら妖精の光があっても人間の目で見える色ではない。何故なら其処はノワールの象徴、黒薔薇の園のはずだからだ。
リーズは角を曲がり、唖然とした。其処には確かに黒薔薇が咲き乱れていたが、目を細めるほど眩しい光も溢れていたからだ。光の元は滾々と湧き出ていた大きな泉のようだ。白銀に輝くその泉はまるで、月のない空から落ちて来た月そのもの。
「綺麗ねぇ……」
ロゼリッタの側にリーズが行くとロゼリッタは感嘆の息をつく。今まで息を止めていたのか、それは大きく空気を震わせた。
「こんなに綺麗な景色、初めて見たわ」
まるで夢でも見ているような軽やかな足取りで、ロゼリッタは黒薔薇を見て回る。リーズも現実感のなさに戸惑いながら泉に近寄った。
あまりに眩しくてリーズは目を細めたが、刺すような光ではなく、月のように淡く柔らかい光が泉から放たれている。ゆっくりと近づいて泉の縁に片膝を着き、リーズは左手を泉の中に差し入れた。
冷たさといった温度はなく、柔らかい印象をリーズは受ける。とても澄んだ清らかな水がリーズの左手を包んでいるようだ。
夢を見る為に眠るように目を閉じて、リーズの体はゆっくりと傾いた。その瞬間、音が、消えた。
泉に抱きしめられたリーズは自分がとてもちっぽけな存在であることを悟った。ヴァンパイア公爵として重たくのしかかっていた荷物を全て降ろしたような解放感。自分がヴァンパイアであろうが何であろうが世界には全く関係なく影響しない。
ゆらゆらと漂いながら静かに沈むリーズは仰向けになる。自分の体に誰かの腕が巻き付くのを感じて、リーズは目を開けた。
泉の輝きを受けてキラキラと琥珀に波打つそれが目に入り、リーズは視線を下げる。吸い込まれそうな程の真っ青な瞳が不安そうにこちらを見ていた。
ロゼリッタだ。
リーズは微笑し、左手を伸ばしロゼリッタの腰を支えて抱きしめた。右腕が動けば良いのにとリーズは思う。そうすれば、両腕で彼女を抱きしめられるのに。だが右腕が動かなくとも、とてもちっぽけな存在であっても誰かを抱きしめることが出来る。世界には何の影響もなくても、自分の中の小さな世界にはある。
リーズは泉の底に体を横たえた。水を吸って重さを増した包帯が邪魔で使いものにならない。リーズは左手を移動させてロゼリッタの後頭部にあてがうと、深紅の薔薇でさえ負けたその唇に静かに自分の唇を押し付けた。
温度のない柔らかい泉の中でロゼリッタは嫌がる様子も見せず目を閉じると、リーズを強く抱きしめる。お互いに隙間を埋めようと寄り添えば体が浮かび上がり、二人は息をつく為に底に足を着けた。
元々そんなに深くはない泉は、足を着ければ全身は浸からない。ロゼリッタの胸の辺りで水面が揺れて音を立てた。
「……牙がないわ」
リーズの頬を挟むように両手を添えたロゼリッタが不思議そうに首を傾げる。濡れて張り付いたロゼリッタの前髪を左手で避けながらリーズは笑んだ。
「……何故だろうな」
「不思議ね」
「……ああ、不思議だ」
それはとても不思議な感覚だった。時の流れも何もかも現実感がなく、夢の中に居るように幻想的で美しく、ただ幸福だ。
「夢を見ているみたい」
「私もだ。今までで最高の夢だな」
ほら、とリーズは包帯をした右手を上げてみせる。全く動かなかったはずの右手が動いていた。夢でないなら何だと言うのだろう。
「夢なら、覚めなければ良いのに」
ロゼリッタの目尻から涙が流れる。リーズは親指でそれを拭い、身を屈めた。




