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「公爵! リーズ公爵!」
巨体が成せる技か、古城の床板を踏み抜かんばかりの勢いで大きな影が通り過ぎて行く。影が行き過ぎるとキャンドルの灯りが不安気に揺らめいた。
「リーズ公爵、大変です!」
門番が飛び上がりそうな大きな音を立てて扉が開く。息を切らしながら入って来たのは大柄な男だった。体がキャンドルを遮り、暗い部屋に更なる闇を落とす。
「どうした、狼男君。満月の夜には厚い雲でもかかりそうかね」
「それとも求婚した相手に蹴りのひとつでももらったか」
「さてはリーズの好みの女性が現れたかのどれかだな」
低く笑い声が起こるその広間には、男の探していた者の他に三人も別の主が居た。四人で部下の摂って来た赤い液体を飲んでいたらしい。硝子のグラスには三分の一程度にそれが残っている。
「……下らぬことを言うな。ウッブズ、何の用だ」
プラチナブロンドの下から覗く紅い瞳に真っ直ぐに視線を向けられ、ウッブズと呼ばれた狼男は姿勢を正した。
「あ、大変です! リーズ公爵!」
再び笑いが起こる。狼男は満月が近付くと知性の欠片も無くなるのかと間接的に問われ、ウッブズは暗がりで頬を染めた。
「……何がどう大変なのだ、ウッブズ」
主人にそう言われ、初めてウッブズは自分がひたすら同じことだけを口にしていたのだと悟る。羞恥に一層顔を赤らめながらウッブズは詳細を説明した。
「来月の収穫祭でリーズ公爵に命を捧げる人間が例年とは様子が違いまして、その、申し上げにくいのですが……」
言いよどむウッブズにリーズは紅い瞳を向けたまま何だと尋ねる。ウッブズは困ったようにチラチラと視線をさまよわせながら口を開いた。
「何も捧げる物はない、と……」
部屋が沈黙に包まれるのを察してウッブズは言わなきゃ良かったと後悔する。この国の頂点に立つ主人の顔に泥を塗ってしまった。他領地を治める同族の面前で。
「あははは。今年は手強い娘が来たんだろう。良かったじゃないか、リーズ。張り合いがある」
「ヴァーン侯爵!?」
リーズの肩をたたく陽気な男は他の爵位に非難の色を含んだ目で見られたが、当のリーズは何も言わずにヴァーンという侯爵の地位を持つ親友をチラと見る。それから持っていたグラスをテーブルに置いた。
「ローズ屈指のヴァンパイアに盾突く娘はそうそう居ないぞ。世界の頂点に君臨するリーズから見れば人間の娘を手中にするのは蝙蝠を手懐けるより容易だろう?」
「……ヴァーン」
グラスの中の血液よりも赤い瞳で親友を睨むように見るリーズだが、ヴァーンは臆さない。別に睨んでいるわけではないことを知っているからだ。
「相手は私にとって“乙女”。それを手懐けるとは言い方が違うだろう」
またヴァーンの笑いが響く。ウッブズだけではなくその場に居た子爵・男爵もただ眺めていることしか出来なかった。
「人間が食卓のパンに躾ないのと同じだな」
くっくと喉で笑うヴァーンの手を避けてリーズは席を立つ。
「だが我々は人間ではない。“魔族”の上、ローズの闇の頂点に立つヴァンパイアだ」
立ち上がると椅子の背にかけていたマントをひるがえし、リーズは闇色に包まれる。血の気のない白い肌とプラチナブロンドの長髪だけがリーズが其処に存在することを主張していた。公爵としての技量があり一国を治めることを許される者であると証明するその血色の瞳は、同胞に背を向けた為ウッブズにのみ認めることが出来た。
「我々はヴァンパイア。暴れようが泣きわめこうが牙を突き立てれば相手は自らの無力さと終わりを知る。張り合うことなど有りはしない。
……失礼する」
ウッブズを付き従えてリーズは部屋を後にする。扉が閉まり、足音が遠ざかるのを確認してヴァーンはやれやれと息をついた。
「相変わらず力を入れてるな、彼は。そう何度もヴァンパイアであることを強調しなくても分かっているのに」
呆れてか、微笑ましくてか、ヴァーンは口元を緩めたまま呟く。納得がいかないとヴァーンに言ったのは、最近前髪が後退しているブラウンのオールバックを崩さないライガン子爵だった。
「何故貴殿はリーズ公爵の機嫌を損ねるようなことばかり仰るのです、ヴァーン侯爵!?」
「ライガン子爵の仰る通りです、ヴァーン侯爵。いくら親しいと言っても礼儀をわきまえぬ物言いは目に余ります!」
ライガンの腰巾着であるステファン男爵もやかましく言い出した。ヴァーンは両肘をテーブルにつき、それぞれを眼光鋭く見やった。二人は先程との変わりように息を呑むがライガンが表情に出さないよう徹しているのに対し、ステファンは露骨にライガンに視線を送り助けを求める。もうかれこれ六百年も同じようなことを繰り返しているのに何も変わらずよく飽きないなとヴァーンは内心で苦笑した。
「六百年空白の伯爵の地位に昇れないことへの腹いせに私を選ぶのか、ライガン“子爵”?」
あえて地位を強調し、ヴァーンはライガンを挑発する。その誘いに六百年もの間乗って来ないのを見ると頭が良いのか口先だけなのか未だに答えに窮するヴァーンだが、ライガンだけに矛先を向けていたのでは不公平とばかりにステファンへ顔を向ける。
「ステファン男爵も爵位を取り上げられたくなかったら自らの力を磨くことを覚えるべきでは? おべっかばかり使っていてはその牙も刀も錆びる一方だぞ?」
口でも力でも差があると思ったからか二人は押し黙り、目だけでヴァーンを殺そうとでもするように睨みつけてくる。しかし勢力争いは無意味であることを理解しているのか、いくら二対一とはいえども手は出さないようだ。
「さて、リーズに血を捧げるのを断わったと言うじゃじゃ馬娘でも見て来るとしよう」
ヴァーンはリーズ同様立ち上がりマントを羽織る。グラスに残ったままの血液を飲み干し、口元についた血をペロリと舌で舐め取ると二人に背を向けた。
惜し気もなく殺気を飛ばして来るライガンにヴァーンは背を向けたままの格好で歩きながら片手を振る。門番の蝙蝠にウインクをし、取っ手に手をかけヴァーンは今思い出したとばかりにライガンに横顔を見せた。
「次期伯爵だがね、リーズの中ではもう決まっているそうだ」
サアッとライガンの顔色が変わるのを見てヴァーンはおかしそうに笑う。
「その……次期伯爵、とは?」
様々な感情を表に出さぬよう努めているライガンに、ヴァーンはさあねと肩をすくめただけだった。
「何!?」
「私はそう聞いただけだ。誰が伯爵になるのか気になるなら直接リーズ公爵に訊きに行った方が早いのではないかね、ライガン子爵?」
ライガンがそう出来ないことを理解しながらヴァーンは言う。青かったライガンの顔が赤くなっていくのを実に満足そうに見やり、ヴァーンは扉の向こうに消えた。