第七幕 母ナル鬼
どもです。最近休みの日に昼寝をする時間が減りました。いいことですね。では今回もよろしくお願い致しますm(._.)m
《神州豊葦原中国》《五行万象術》《季華十二鬼将》《千刃暁學園》《穢土》
「づっ、ぅ……」
目を覚ましたと同時、ぼやけた視界に映る景色を前に覇切は自分が今どこで何をしているのか、一瞬本気でわからなくなってしまっていた。
「いっ……は、ぁ」
身を起こそうと力を込めたところで、全身に走る激痛に再び意識が飛びそうになる。
満足に動かない左手で最も痛みの走る腹部に手を当ててみれば、焼けるような熱さと共に手の平に広がるべっとりとした感触。
(ああ……そうだった。俺は、あの頭巾に……)
——敗けた。
その事実を再認識して、不思議と敗北感や悔しさというものは浮かんでこなかった。
こんなボロボロの状態を顧みて、自分が果たして奴との勝負の土俵に上がれていたのかどうかすら甚だ疑問だという理由もあったが、それ以前に気になることがあったからだ。
(百合は……みんなは、どうなった?)
頭巾に敗北を喫した後、今にも止めを刺されそうになっていた時になっていきなり地形変動が起きたことは憶えている。
確か以前比名菊に話を聞いた時は、次はひと月先ということだったが、図らずも先の突発的とも言える地形変動に助けられる形となったらしい。
下手をすればうねる地盤に巻き込まれて今頃土の下にいたとしてもおかしくはない状況だったため、今ここに生きていられるのは運が良かっただけかもしれないが。
「ぐっ……くぅ」
現状を知るため、痛みに歯を食いしばって上体を起こし、辺りを見回してみる。
覇切のいるこの場所は変動前の森林地帯にもよく似ていたが、意識を失う前には見当たらなかった廃墟のような建物の残骸が其処彼処に点在していた。頭上の木々の間から零れる陽光の帯は美しく、どこか幻想的な雰囲気すらも覚える。
「あ、れは……」
少し離れたところに見覚えのある千刃暁學園の制服を見つけ、這いずるようにしながら近くへ寄る。
「百合……」
そっと抱き起して確認すれば、恐らく彼女も頭巾にやられたのだろう、肩から深々ばっさりと大きな斬り傷があった。
呼びかけに答えることなく、瞼を閉じたままの彼女の様子に身体の芯から冷たくなるような感覚を覚えたが、よく見ると胸が小さく上下している。慌てて口元に頬を寄せてみれば、本当に微かではあるが、撫でるように頬を掠める空気の流れを感じた。
「よかった……まだ……——っ!?」
しかし、ほっと安堵したのも束の間のことだった。
視界の端に偶然映り込んだ巨大な影に気付き、反射的に身を低くする。
「■■■……」
業魔だ。完全に意識の埒外まで吹き飛んでしまっていたが、ここは穢土、それも中でも最危険区域に位置する侵入禁忌区域の中なのである。
幸い今は距離も幾分離れており、周囲に広がる瓦礫の影に隠れられているので、今すぐ襲われることもないだろうが、現状二人とも満身創痍。百合に至っては意識も戻っていない状態だ。このまま一ヶ所に留まっているのは危険すぎる。
もう一度辺りを見回してみても、他の特科生の姿はない。
「すぅ、はぁ……ぐっ!」
僅かな逡巡の後に決断し、ぐったりと力の抜けた百合の身体を背負う。全身を鋭い痛みが襲い、噴き出す血がぼたぼたと地面を赤く濡らした。
皆が無事かどうかはわからない。しかし今このろくでもない状況で唯一縋ることのできる希望があるとすれば、皆との合流、それしかない。
その僅かながらの蜘蛛の糸を手繰るような気持ちで、覇切は一瞬の気の緩みで飛びそうになる意識の中、歩き始めた。
◇
「はぁっ、はぁ……っ、ぜぇ」
朦朧とする意識の中、木漏れ日の降り注ぐ廃墟群の間を歩いていく。
一体どれだけの時間こうして歩いているのかわからない。まだ歩き始めたばかりのような気もするし、気持ち的には一昼夜以上歩き通している気分だったが、まだ随分と日が高いようなのでそれはあり得ないだろう。
ここに来るまでにすれ違った鬼は三体。いずれも嗅覚や動物的勘に優れた獣型とは別種の鬼だったため、先んじて身を隠すことで何とかやり過ごせたが、隠れた大木のすぐ裏を業魔級の鬼が通り過ぎていったときはさすがに肝が凍る思いだった。
「ぜぇ、っはぁ……っ」
一歩踏みしめるごとに二人分の体重が圧し掛かり、その度足元に軽い血溜まりを作る。加えて鬼との遭遇を危惧して、常に神経をすり減らしながら周囲を警戒しているため、精神的な疲労も果てしない。
「はぁ、はぁっ……! ぐっ、ごほっ……!」
不意にがくんと、足を踏み外し、その場に片膝をついてしまう。
「うっ、ぐ、げぇっ……! ごほっ、ごほ……っ」
胃から込み上げてくるままに吐き出してみれば、桶一杯分くらいはある血液が吐瀉物混じりにぶち撒けられた。
(くそ……頭が、ボーッとする……)
いよいよ以て霞みがかってきた視界に精神力だけで踏み止まり、血で滑る地面に足を取られながらも立ち上がる。
と、朦朧とする視界の先、きらりと光る何かが見えた。滴る汗と血に塗れながら近づいていくと、そこにあったのは……。
「み、ず……」
目の前に広がる、小さいながらも透き通った水がいっぱいに張った泉。陽光が水面に反射し、きらきらと輝いている。
「少し、待ってろよ……」
百合を手近な木の根元に降ろし、ふらふらとした足取りで水面へと近づいていく。そっと泉の中へ手を入れてみれば、手首までしか浸かっていないのに、まるで全身に染み渡るような心地よい感覚が駆け抜けた。
いっそこのまま水中に飛び込んでしまいたい衝動に駆られるが、ぐっと我慢し、手持ちの竹筒一杯に水を汲む。
「百合、飲めるか……?」
木陰で眠る百合の元まで戻り、そっと口の中に水を流し込む。すると僅かながらこくりと喉が動いた。その様子に安堵し、竹筒に汲んできた水がなくなるまで、ゆっくりゆっくりと飲ませていった。
(よかった。これで、ひとまずは……)
鬼剋士は五行万象術によって強化された体質上、通常の人間より生命力が高いが、負傷した身体に何もしなければ当たり前に弱っていく。適正な応急処置を施し、薬や水、食べ物などを与えなければ、衰弱していく速度が治癒する速度を追い越し最悪死に至ってしまうのは普通の人間と同じだ。
だが、逆を言えばそれらの処置をしっかり施すことができれば、普通の人間よりも遥かに単純な方法、速い速度で完治に向かっていく。
現に、現状ただ水を飲ませただけの百合だが、先ほどよりも呼吸がはっきりと安定したものに変化してきている。さすがに傷が急速に治っていくわけではないものの、とりあえず山は越えたと思っていいだろう。
それよりも、問題なのは覇切の方だ。
(ヤバい……意識が……)
百合の容体が落ち着いたのを見届けて緊張が緩んでしまったのか、一気に身体の力が抜けて倒れてしまう。
そのまま這いつくばって水辺まで戻ろうにも、腕にも脚にも全く力が入らない。
「……」
自らの命の灯火が今まさに消えかかっているのを感じる。
昔、もし死ぬとしたらそのとき一体どんなことを考えるものなのだろうかと、子どもながらに殺伐としたことを考えていたのを思い出す。その時自分は誰かに怒っているのだろうか、悲しんでいるのだろうか、それとも何かを成し遂げられなかったことを悔やんでいるのだろうか。
そんな風に様々な想像を巡らせていたものだったが、しかし今この瞬間、死というものの存在をかつてないほど身近に感じた覇切の胸中に訪れたのは、あの時想像していた怒りでも悲しみでも悔恨でもなく……疑問だった。
こんな時にどうしてと自分でも不思議で仕方がなかったが、何故だかここにきて湧いた、それも自分自身に対する問いを止めることができない。
しかしそれは考えようによっては当たり前の疑問だった。今際の際に振り返るこれまで歩んできた人生の軌跡。その道筋を改めて振り返ってみた時、とある分岐点での選択にどうしても違和感を覚えずにいられなかったのだ。
(そもそも俺は、どうして……)
どうして命を使い潰そうだなんて、そんな遠回りな……言ってしまえば回りくどい道をあの時選んだのか。死にたいのなら今すぐにでも死ねばいい。殺したいと言うのなら思い迷ってなんていないで殺せばいい。
死ぬのが怖かったわけじゃない。殺すのを躊躇っていたわけじゃない。それなのに、どうして……?
考えようにも、頭に血が回らず、意識が暗闇へと呑み込まれていく。
東雲覇切の原初の記憶。何より悍ましく、憎悪すべきあの日の記憶に、引きずり込まれるように……。
◇
「はぁ、はぁ、はぁっ!」
燃え盛る火の手が一帯を蹂躙している。
今宵は雨が降っていない。
にも拘わらず一面に広がる赤い水溜まりに足を取られながら、あの日の覇切は一心不乱に走っていた。
視界の端には何とも形容し難い二本角の巨大な化け物が家々を踏みつぶし、人らしき影を引き千切っているような光景が見えた気がしたが、余計な恐怖と感傷は総て押し殺して先を急ぐ。
震える脚は言うことを聞かず、途中何度かぐにゃっとした肉のような感触の何かに躓いたが、あれは石だと自分に言い聞かせて振り返ることなく村の農道を駆け抜ける。
「八恵っ……八恵——ッ!」
目の前で化け物に襲われる人間を見捨て、瓦礫に押し潰され助けを求める声を振り切って、ただ誰よりも大事な妹の名前を叫び、覇切はこの地獄を全速力で走っていた。
他の誰かを気にかけている余裕など存在しない。
ただ彼女を守ること。その最優先事項を果たすべく、目に映る総てを意識の外に排斥し、実家の屋敷を目指して走る。
そうして辿り着いた我が家。
玄関先で下半身を失くした兄とすれ違い、中へと飛び込む。全体の三分の一ほど潰された母屋の瓦礫に押し潰され動かなくなっているのは、年長の姉だろうか。
わかりたくない理解したくない知りたくない。
ひょっとしたらこの時の自分は、妹を守るという目的にしがみつき、ただ自我を保っていただけだったのかもしれない。
心が壊れそうになる光景が目に映り込む度に妹の姿を思い浮かべて、ただただ縋る。
これで彼女まで無事でいなかったら、自分は——
「はぁっ、はぁ……八恵っ!」
そうして戸を蹴破って入った一室の中心。そこには求めてやまなかった、何より大切な少女の姿があった。
「兄様……」
「ああっ……八恵、よかった……!」
怪我一つない無事な身体を目にし、覇切は確かにこの時救われた気分になった。
ここに来るまで様々な人たちを見捨ててきた。
しかし、一番守りたかった人を失っていなかったという事実が、砕け散りかけていた覇切の精神の最後の支えとなっていたのだ。
「こうしてる場合じゃない。八恵、早くここから出よう。父上たちはど、こ……に」
——そう、支えとなっていたはずだったのに。
「八、恵……? それ……な、に」
妹の足下に転がる小振りな西瓜ほどの大きさの塊。
その塊の表面が人の顔に見えるのは、気のせいだろうか。それどころか、毎日顔を合わせていた馴染みが深いどころでは済まない、よく知る人物の顔に見えるのは気のせいなのだろうか。
「これ? たぶん、父様だと思うんだけど……よくわかんないなぁ。だってほら、父様ってもっと背がおっきかったでしょ? こんなにちっちゃくなってたら誰なのか八恵にはわかんないよ」
言いながら爪先でころころと、父の頭部を転がす八恵。その声音は本当にわからないという風で、そもそも今足で弄っている物体が人の一部であるという認識すらないのではないかと疑うほどだった。
——何だ、これは? 何なんだこの光景は? 一体今目の前で何が起きているというんだ?
「う——」
目の前で、つい一瞬前まで求めてやまなかった大切な人が平然と行う鬼畜の所行。
その異常極まる光景を前に精神の許容の限界を超えた覇切はがくりと膝をつき、逆流した胃の中身を堪えられずにその場に総てぶち撒けた。
「ぅ、げぇ……! げほっ、ごぉぇ……っ!」
「兄様っ! どうしたの? 大丈夫?」
口を押さえてえずき悶える兄の異変に、心の底から心配した顔で八恵が駆け寄り背をさする。
これだけを切り取ってみれば、いつもの心優しい妹で、別人などではないことを証明していたのだが、この時覇切の抱いていた気持ちは——紛れもない、恐怖。
「いつもは兄様が八恵を看病してくれてるのにね。えへへ、何だか新鮮だなぁ」
大好きなはずの彼女の笑顔が、震えるほどに恐ろしく……悍ましいものに見えた。
(何考えてんだ俺は……八恵は、俺の妹だぞ)
そう自分に言い聞かせ、改めて愛しい妹の姿を視界に収める。
いつも通り変わらぬ様子の八恵。献身的で、従順で、朗らかで、優しくて……そう、いつも通りなのだ。
この非日常の地獄にありながら、いつも通り。
そしてここにきてまた一つ、気づく。この場に充満する噎せ返るような濃厚な血の匂い。
周辺に転がっているのは父の頭部だけではない。腕、脚に止まらず、内蔵や脳髄、ありとあらゆる人の部位が塵糞の如く打ち捨てられている。
その数はおよそ数人ほど。正確な数はわからないが、先ほど発見した兄や姉も含めれば自分の家族の数とおおよそ一致する。
「八、恵……?」
「ん〜? なぁに兄様? どうしたの?」
「お前……もしかして、父上たちを——」
胃の中身総てを出し切ってなお、催す吐き気を堪えながら、覇切が口を開きかけたその時——
「■■■……っ」
「っ!? なっ……」
突如天井が降ってきたと思えば、頭上に開けた夜空に照らされる巨大な化け物の姿がそこにあった。
そして——
「——ねぇ、兄様」
そしてまた一つ、気づく。いや、本当は最初から気づいていた。八恵を見つけた時からずっと。気付いていながらも、その現実から目を逸らし続けていた。
いつもと変わらないのなんて『中身』だけだ。
かつては白磁のようだった肌は今や闇へと溶け込む艶やかな褐色へ、髪は背筋が震えるほど妖しげな光を纏う白髪へと変貌していた。
まるで色彩が反転してしまったかのように黒く沈んだ色に変化した眼球は、輝く銀色の光をその中心から放っている。
「兄様は——」
そして極め付け、その額から生えている二本の角のような突起は、あの化物と同じ——
「——八恵とずぅっと一緒にいてくれるよね?」
まさかこれは、この惨劇の夜を誘い引き起こしたのは——
「あ、ああ……ああぁぁぁああああ……!」
視界が真っ暗になる。もう何を見て、何を聞いていいのかもわからない。五感総てで感じられるものが悍ましく、何より守りたいと思っていた少女の変貌に生きる意味さえ見失う。
頭上から巨大な鬼がこちらを見下ろし眺める中、八恵の小さな手の平がゆっくりゆっくりと覇切の頬を伝い、柔らかな親指の腹が右の眼球に優しく触れる。
そして、そして——
「ね、兄様? 八恵と一緒に、行こ?」
◇
「っ……!」
これは夢だと理解した瞬間、ガバッと勢いよく起き上がった。もう一瞬たりともあの場に留まり続けたくはなく、逃げ出すようにして現実世界へと帰還する。
「はぁ、はぁ、はぁっ! ぐっ……はぁっ、はぁ……はぁっ!」
過呼吸気味に荒れる動悸を落ち着かせようと、ギュッと胸を押さえつけて何度も何度も心に念じる。
(落ち着け、静かにしろ……今のは夢、夢なんだ……!)
しかし冷静になろうとすればするほど、まるでそれを否定するように心臓の鼓動は大きく速く暴れ出し、夢ではあるが嘘ではないことを突き付けてくる。
(八恵はここにはいない。もう、どこにもいないんだよ……っ!)
それは終わりの見えない負の感情の螺旋へと引きずり込まれていくような感覚だった。
あの日の出来事を忘れたことなど一日足りとてなかった。幾度となく夢に見て、何度だって絶望し、その度に罪悪感に押し潰されそうになってきた。
誰のせいだ? 妹が……八恵が死んだのは、一体誰の……?
(俺だ……俺のせいで…………俺が、八恵を……っ!)
かつてないほど鮮明に見せつけられた惨禍の記憶に、右眼が激しく痛み出す。堪えきれずに右手を強く強く押し付けて、痛みに耐えるように呻き声を上げ続けた。
「——さん…………切……ん……!」
ぐるぐると胃がかき混ぜられる感覚に吐き気が込み上げてくる。絶えることなく耳鳴りが頭の中に響き、視界はぼやけて歪んでいた。 生まれて初めて殺意を抱いたのを憶えている。心の底から殺してやりたいと、そう思っていた。
でもそうしなかったのは、できなかったから。したくなかったからだ。それは臆病風に吹かれたわけでも命が惜しいと思ったわけでもなく、もっと最低で自分勝手な——
「——覇切さんっ!」
果てしない罪の意識に限界ぎりぎりまで追い込まれた覇切の精神が磨り潰されそうになったその時、呼びかけられた自分の名と視界いっぱいに映り込んだ見覚えのある少女の顔に、一瞬時が停止したような錯覚に陥った。
「はぁっ、はぁっ……は、ぁ……あ? ゆ、り……?」
「はい、そうです。百合です。はぁぁ〜よかったぁ……」
涙ぐみ、安堵した笑みを見せる百合。その顔を見つめ、自分の身体を見下ろしてみて、ようやく意識が現実へと追いついてくる。
(あ、れ……? 俺、生きて……)
自分の腹に巻かれたどこか見覚えのある包帯。不格好だが、一生懸命巻いてくれた様子が伝わってくるそれはきっと目の前の彼女のものなのだろう。
(そう、か……百合が、助けてくれたのか……)
意識を失う直前のことを思い出す。どうやらまた死に損ねたらしい。
それについて百合に文句を言うつもりなどはもちろんないし、当然感謝もしていたのだが、先の夢のこともあって少しだけ複雑な思いも感じていた。
「目が覚めたら、すぐ横に血みどろで横たわる覇切さんがいて……心臓が止まるかと思いましたよ。応急処置がひと段落済んだと思ったら、今度は酷いうなされようで……本当に心配したんですからね」
「そう、だったのか。心配かけたみたいだな……それから、ありがとう」
正直、心配かけたのはお互い様だったが、今それを言ったところで仕方がない。
自分も決して傷が浅いわけでもないのに、献身的な看病を続けてくれた百合には感謝をしてもしきれなかった。
だから一切衒いのない純粋な気持ちとして感謝と謝罪を伝えたのだが、何故だか百合はどこか困ったような、ともすれば居心地が悪そうな表情を浮かべている。
(あ、右手……)
そしてそこで初めて気づいたのだが、百合が自らの右手を隠すように後ろ手に回していた。覇切は古傷か何かだと思っていたのだが、余程見られたくないのだろう。包帯を覇切に分け与えてしまった百合は、窮屈そうにしながらも決してその素肌を見せようとはしていなかった。
「……まぁ何にせよ、本当にありがとな。お前のおかげで助かったよ」
「いえ、そんな……」
「それともう一つ、悪かったな」
「え?」
改めて覇切に頭を下げられ、百合は何のことを言われているかわからないといった顔を浮かべてみせた。
この状況で腕のことに突っ込むのも酷な話だと思って話を逸らす意味での言葉だったのだが、申し訳ないという想いは本当のものだった。
「頭巾や桜月桜華と遭遇した時のことだよ。お前の様子がおかしいのは、穢土に入った直後からわかってたんだ。だからもっとちゃんと見ているべきだったのに……あの時飛び出してったお前を、止めることができなかった」
隊長の座を任せられている以上、隊員の精神状態には誰より気にかけていなければならない立場だったのにそれができていなかった。挙句の果てには仲間の安否より私情を優先して返り討ちに会う始末。
本当に救いようがない馬鹿だ。自分が死ぬだけならまだしも、あのままいけば皆も道連れの形で失ってしまうところだった。
だから何も気にする必要などないと伝えるつもりで、俯く百合の頭へいつも通り手を伸ばす覇切だったのだが、
「百合……?」
伸ばした手が途中で彼女の手に包まれて、そっと下げられてしまう。
「…………——ですか」
「え?」
ぼそぼそっと呟かれた百合の言葉がはっきりと聞こえず訊き返す。そしてもう一度今度はよく聞こうと顔を近づけた直後、勢いよく顔を上げた彼女のその表情に覇切はぎょっと目を見開いた。
「何で、いつもそうなんですか……あなたはっ」
彼女は、泣いていた。大きな瞳一杯に涙を溜めて。震える声を必死に抑えながら。
「お礼を言うべきなのは、謝るべきなのは……私の方なのに……何でいつも、そうやって平気そうな顔して、自分のことなんかっ、どうでもいいみたいに……っ」
夜空を思わせる深い漆黒の瞳から、ボロボロと星屑のような涙が零れ落ちていく。
「本当は、わかってるんです。皆さんと逸れてこんな状況になってしまったのも、覇切さんを命の危険に晒してしまったのも、全部、全部私が悪いんだって……! 私が勝手な行動をしなければ……今頃こんなことにはっ」
鼻を啜りながら、涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭う百合だったが、拭っても拭っても溢れる滴は止まることがない。
本当はもっと悲痛に咽び泣く彼女にかけるべき言葉があるはずなのに、こんな風に泣きじゃくる女の子を前にした経験がないせいか、情けないことに全くと言っていいほど言葉が出てこなかった。
「私のおかげで助かった、なんて嘘ですよ……私のせいで、覇切さんがこんなに傷ついて……」
そう言って、優しく包んだ覇切の手をさらに強くギュッと握りしめる百合。今の身体には少し痛みを覚えるくらいの強さだったが、この状況でそれを言うのはさすがに空気が読めなさすぎると、泳ぐ視線を不意に落としたその時——覇切は実に出会ってから初めて、この黒条百合という少女の異常に気が付くこととなった。
「……この手も、私のような愚かな人間にはお似合いのものなのかもしれませんね」
覇切の視線に気が付いた百合が自嘲気味にそう呟く。
これまで包帯に包まれ、肌の露出の一切をなくし、ひた隠しにされていた彼女の右腕。今この時を以て白日に晒されたその場所を目にした覇切は、胸の内に走る動揺を隠すことができなかった。
「気持ち悪いですよね、これ。学園長によると、鬼の体表と全く同じ組織で構成されているそうですよ」
百合の右の腕に大きく走る黒い火傷のような痕。口元に暗い笑みを浮かべた彼女が、覇切の手を離して涙を拭いながら話し始めた。
「言ってしまえば、部分的な鬼化……鬼の腕、と言ったところでしょうか。どういう原理かは知らないですけど、私の右腕に縛りついて苦しめ続ける、呪いのようなものです。四年前からずっとこうらしいですよ」
鬼剋士が融合した鬼の魂に人としての魂を喰われることで起きる鬼化は、普通発現すれば完全に鬼化し、もう二度と純粋な人の姿に戻ることはない。しかし現在の百合の状態はどちらにも属していない、言うなれば人と鬼との中間……部分的な鬼化とはまさにその通りで、中途半端な状態だ。
このような状態の人間を見たのは覇切も初めてだった。だからこそそれも不可解極まりない現象であることは確かだったのだが、しかし覇切が最も気になったのは、直後に発した百合の言葉だった。
「……らしい?」
自分のことなのに妙な言い回しをすると、覇切は首を傾げる。しかしその疑問はすぐに解消されることとなった。
「言ってませんでしたよね。私、記憶がないんですよ。四年前より昔の記憶が」
「え……」
今になって明かされた衝撃の事実に思わず言葉を失ってしまう。
四年前と言えば、ちょうど鬼剋士たちが増え始め、穢土への東征も盛んに行われるようになった時期だ。そんな中、自分は今で言う穢土侵入禁忌区域の中で倒れているところを発見されたのだと百合は言う。
「当時私のことを見つけてくれたのは覇切さんのお義姉さんである東雲教官でした。私の腕の異常にいち早く気付いて、騒ぎにならないよう秘密裏に学園長へと託してくれたそうです。だからこの腕のことを知っているのはその二人に加えて……あとは一年前に再会した兄さんくらいでしょうか」
以前百合の口から聞かされた言葉を思い出す。
——私が鬼狩りであると、他ならない私自身への証明のために、鬼を殺すんです。
思えばそれも『鬼狩り』である証明、というよりか、『人』である証明、ということだったのかもしれない。人と鬼の狭間にいるような自分を唯一人たらしめていたものが、鬼狩りとして鬼を殺しているその瞬間だったと、そういうことだ。
「兄さんから聞いた話によれば両親が別れたのは七年前らしいので、それまでの自分の生活については兄さんから聞きました。つまり私には完全に空白の記憶が約三年間あることになります。一緒に暮らしていた時の私の腕は正常だったそうなので、状況から見て四年前に穢土で私の身に起きた何かが、きっと記憶の喪失と鬼化に関係しているはずなんです。だから何が何でも侵入禁忌区域へ行って、記憶を辿る糸口を得ようと思って……」
そのために鬼剋士としての訓練を積み、侵入禁忌区域への入域権を得られる千刃暁學園への入学を決意した。そして偶然にも、町で出会った人間を鬼化させる力を持つ頭巾をこの侵入禁忌区域で目撃し、記憶喪失と鬼化、その両方の鍵となる存在なのではないかと考えたわけだ。
「でも結局……私は敗けて何も聞き出せず、挙句皆さんの命を危険に晒してしまいました。本当にどこまでも間抜けで……最低です」
そうしてそれきり俯き、黙りこくってしまう百合。まるでこちらからの叱責を待っているかのような居住まいに、どうしたものかと考える。
正直今の話を聞こうが聞くまいが、現状が百合一人の責任だとは全く思わないし、他の仲間もきっとそう思うだろうと断言できる。桜摩や秋桜だったら「馬鹿かお前は」と怒り出すところじゃないだろうか。逆に自分たちの不甲斐なさを悔しがる様子が目に浮かぶようだ。
とは言え今の百合の状態を鑑みて、下手な慰めや叱咤などは無意味だろう。それで一時この場は収まるのかもしれないが、しかし今回の話は放っておけばきっと後々に禍根を残す。最悪、百合が特科を離脱、何てことにもなりかねないかもしれない。
「……ふぅ」
一つ息を吐いて、呼吸を整える。
何せ今からしようとする話は、涅々を除けば初めてするものだ。その涅々でさえ保護者という立場上知らざるを得ない側面はあったため、自分から誰かに話すのは正真正銘初となる。
「……仲間を死なせてしまうような状況に追いやった自分が最低だって言ったよな、お前。でもお前が最低なら、俺は最低の中の最低もいいところなくそ野郎だよ、きっと」
「え……?」
唐突に、そんな脈絡のないことを言い出す覇切に、百合が思わず顔を上げてポカンとした顔を向ける。
きっと彼女はこの後覇切の口から聞かされる言葉を全く予想できていないことだろう。覇切からしてみても、この話をして百合がどんな反応をするのか想像もつかない。いや、恐らく高確率で幻滅、軽蔑するだろうとわかってしまうからこそ怖くてその先を想像できずにいるのだ。
でももしも、覇切への悪感情で百合が自分の罪の意識を少しでも忘れられるのであれば、それでも構わないと、そう思ってしまったから。だから、覇切は言葉にする。自らの犯した最大の過ちを。現在の東雲覇切を構成する、その原初とも言える出来事を。
「俺は…………自分の妹を、殺したんだ。たった一人の、誰より大切だった妹を……この手で」
◇
「……」
「……」
互いに言葉を交わすことなく、覇切と百合は廃墟群の中を慎重に先へと進んでいた。
頭上を覆う枝葉の隙間から見える太陽はすでに頂点を越えていたが、まだまだ日は高い。
「百合、そこで止まれ。業魔だ」
その言葉に従い百合が足を止め物陰からそっと窺ってみれば、視線の先には中型の業魔が二体。
「さすがに鬼が多くなってきてるな……」
覇切の呟きに思い出すのは泉での出来事だ。実は先ほど泉の付近で、業魔の遠吠えを耳にしてしまったのだ。奇跡的にも覇切たちの意識が戻っていなかった間は鬼に襲撃されることはなかったものの、満足に環境支配も扱えない今の状態では鬼の群れにでも遭遇してしまったら確実に死んでしまう。
故に覇切の提案で、場所を移動することになったのだが……今の百合にとってそんなことは割とどうでもよく、先ほどから気が散ってしまって仕方がなかった。
(さっきの言葉……一体どういう意味なんだろう……?)
思い出されるのは鬼の遠吠えが響く直前に覇切が口にした『妹を殺した』という言葉。あの場では有耶無耶になって今に至っているが、内容が内容なだけにどうにも話を切り出せない。
「……気になるか?」
「え?」
「さっきの話だよ。中途半端で終わったからな。俺が聞く立場だったら気持ちが悪くて仕方がない」
そんな風に百合が悶々とした思いを抱えていると、覇切本人から申し出があった。
「歩きながら話そう。あんまり聞いてて楽しい話じゃないかもしれないけどな」
そうして業魔の影が見えなくなるのを見届けてから、覇切は百合を先導して再び歩き出した。
「まぁ、こんなご時世だ。そんな珍しい話でもないんだが……六年前の鬼の浄土侵攻で、俺の生まれ育った村は壊滅したんだ。俺一人を除いて、な。あの時は本当に、地獄に落ちたんじゃないかって勘違いしたよ」
鬼の浄土侵攻。ちょうど百合の記憶では空白の時期であるため、自分がその時どこで何をしていたのかはわからないが、噂にだけは聞いている。
覇切はその時のことを振り返って、たくさんの人間を見殺しにしてしまったと自嘲しているがそれも仕方がないことだと思った。当時は鬼という存在すら、普通の人間には曖昧なものだったのだから。自分一人が生き残ることを考えるだけで精一杯だったはずだ。
「あの……それじゃ、もしかしてその時妹さんも……」
だから百合は覇切がそんな地獄の惨劇の中で自らの妹さえも見殺しにして逃げてしまったのかと思ったのだが、覇切は百合の言葉にゆっくりと首を横に振った。
「言ったろ? 俺は妹を殺したって。その言葉に嘘はない。正真正銘、この手で殺したんだ」
その時の覇切の目は、以前も見たぞっとするほどの憎しみの炎に燃え上がっていた。
「色々な人間を見捨てて、それでもたった一人妹を——八恵だけは守り抜きたかった。だからあいつの姿を見つけた時、俺は本当に嬉しかったんだ。生きててくれた。大事なもの全部失ったけど、本当に一番大切なものだけは守り抜くことができたって……でも」
覇切は妹を守り抜くことなどできてはいなかった。
夜闇に浮かぶ鬼と化した妹の姿は妖しく美しく……そしてその場の何よりも悍ましかった。
「血醒遺伝って知ってるか?」
「あ、はい……一応」
血醒遺伝。両親のうちのどちらか、もしくはその両方が融魂施術を受けていた場合に限って、生まれてくる子どもが生まれながらにして鬼剋士としての特性——すなわち人と鬼、その両方の側面を持つ魂を備え持っている特殊な遺伝形質のことである。
「八恵はそれだった。俺の家って古い貴族筋の家系でさ。当時にはすでに半分以上権力は失ってたから辺境のど田舎の大地主ってくらいの力しか持ってなかったんだけど、国の裏事情には妙に詳しいところがあってな。俺も後々になって知った話なんだけど、父親が融魂施術の被験体だったらしいんだよ」
結果的に父親は十全に鬼剋士としての力を引き出せず、挫折の道を辿ることとなったのだが、その力は遺伝として娘に発現し、そして——
「あの日、村は昼間にも拘らず不自然な夜の闇に覆われていた。今にして思えば明らかに禍憑鬼の特異能力だ。そしてその中心にいたのが、八恵だったんだ」
誰よりも守りたかった大切な人。その人が事の諸悪だったことを知ったその時の覇切の心境は計り知れないものがあっただろう。
他の総てを捨ててその場に辿りついた経緯を考えれば、今こうしてここに正気でいられていることも奇跡なんじゃないだろうか。
「気が付いたら、全部終わった後だったよ。俺の手には家宝の刀が握られていて、脱力して動かなくなった八恵の身体をそれで貫いていた……今でもはっきりと思い出せる。ぐったりと冷たくなった八恵の小さい身体の感触……」
同時に夜は晴れ、覇切は死という最悪の結末を逃れることができた。しかし結果として村は壊滅。他に生存者は誰一人おらず、覇切は唯一守りたかった妹すら自ら失った。
「だから俺は、俺自身を殺してやりたいほど恨んだよ。何故八恵を殺してしまったのか、他に選択肢はなかったのか。そんな考えばかりがぐるぐるぐるぐる頭の中を回ってさ……一つの結論に行き着いたんだ。それが——」
——自分の命を使い潰す。
自らの生存なんて考えずただ目の前の鬼を殺すことだけに総てを懸ける。そうしていつかこの命を使い切ったその時に、自分自身への復讐は完了するのだと、そう考えた。
「でもさ、これってよく考えればおかしいだろ? 刀はあったんだ。殺してやりたいほど恨んでるならその場ですぐにでも殺せばよかったのに……そうしなかったのは、証明したかったから、なんだと思う」
自分でもついさっき、あの夢を見るまで忘れていた。
「俺はこんなもんじゃない。あの時はまだ力がなかっただけ。本当なら守ることができていた。そんな下らない、ガキの見栄みたいな言葉を証明するために、誰かを守ってその果てに死ぬことで、あの頃の自分に言い訳がしたかったんだ。そんなことしたところで何の意味もないのは自分が一番よくわかってたのにな……」
そう言って暗い笑みを浮かべる覇切に対して百合はどんな言葉をかければいいのかわからなかった。
覇切が自分に気を遣い、気を紛らわせようとしてこんな話をしたのはわかっていた。単なる不幸自慢がしたかったわけではないことなどわかっていたが、しかしそれにしたってあんまりな話だろう。
鬼の襲撃のせいで総てを失い、妹すらも自らの手で殺めて、さらには唯一生き残った自分自身さえ何年も経った今でも苦しめ続けている。言ってしまえば死ぬために生きているようなものだろう。
(そんなのって……悲しすぎる)
覇切は自らへの復讐の根幹にある理由を不純だと恥じているようだったが、恐らく一種の保護本能が働いたのだろう。そうでもしなければ彼の心の崩壊を食い止めることができなかったということだ。
「だからって勘違いするなよ。俺が自分を殺したいと思っていることとお前に助けてもらったことは別問題だ。本当に感謝してるし、こうして生き延びることができたってことはまだ俺の命は使い切ってなかったってことだ。使い切るまでの余地はまだ残ってる。そのことに、どこかホッとするんだ」
何気なく告げられる言葉が深く心に突き刺さる。だってそれはこれから先も覇切が自分を顧みずに戦い続けるということで……。
「あの、覇切さん。私は——」
だから自分でもよくわからないままに口を開いた。何と声をかけようかなんて何一つわかっていなかったが、彼をこのままにしてしまうことに酷く拒否感を覚えたのだ。
だから衝動の赴くままに口を開いた百合だったのだが、それは形になる前に途切れることとなった。
「っ……百合!」
「むぐっ……!?」
突然覇切に羽交い絞めされるように口元を押さえられ、その場に押し倒される。当然訳が分からない百合は顔を真っ赤にしてジタバタと暴れたが、口元に人差し指を当てる覇切の仕草に徐々に落ち着きを取り戻し始めた。
「……ぷはっ」
そうして口元を解放されて一番、すぐ横にある覇切の顔をキッと睨み付ける。
(い、いきなり何なんですかっ!? 話の途中でっ……)
精一杯の小声で覇切を怒鳴りつける百合だったが、無言で覇切が指差す先を見て彼女も息を呑むことになる。
(あれは……頭巾……!?)
身を隠した茂みの間から見えたその人影。それは、自分たちを死の淵にまで追い込んだまさに張本人である鬼裡依教の教団信者の一人である頭巾の姿だった。その姿を見た瞬間思わずぶるっと全身に震えが走る。
悔しいが、一度戦って実力を思い知らされた以上、以前のように考えなしに飛び出していくようなことはできなかった。
(こんなところで、一体何をしているんでしょう?)
(わからない……けど、取り逃がした俺たちを探してるって風じゃないな)
頭巾は廃墟の一つらしき建造物からちょうど今出てきたところのようだった。近くには桜月桜華の姿もなく、そのまま覇切たちのいる位置とは反対方向へと脚を向けると、足早に森の奥へと去っていってしまった。
その姿をじっと眺める覇切の頭に、一瞬だけ前回の雪辱を晴らすなんて考えも過った。しかしまだ全快には程遠い状態だし、何より小刻みに震える自分の手が身体に染みついた恐怖がいまだに抜けきっていないことをよく教えてくれていたので、悔しさに歯噛みしながらもそのまま見送ることを選択する。
「……行ったか」
頭巾の姿が完全に見えなくなってから、二人身体を起こして立ち上がる。
「一体奴は何の用で……」
呟きながら茂みを掻き分け抜け出てみる。
「な……これは……」
すると鬱蒼と茂る枝葉をかき分け抜けたその先、突如開けた空間に出たかと思えば、二人は眼前に立ち聳えるように現れた巨大な影に息を呑んだ。
「塔……? けど、半ばで折れちゃってますね……頭巾はここから出てきたんでしょうか?」
「ああ。間違いないと思うけど、これってもしかして……」
そして二人は思わず顔を見合わせる。
はっきりと断定はできないが、この荒廃した中にもどこか神聖さを感じさせる威容は東征前に資料でも見た記憶があった。加えて言うなら、覇切たちはこれと同じような建物の中をつい昨日通ってきたばかりである。
「天ノ、御柱……」
神州最古の遺産。穢土という未開領域において誰もが探し求める宝の一つが、思いがけず二人の前へと現れたのだった。
◇
中へ足を踏み入れてみれば、外で見るよりもずっと広く感じられる空間が広がっていた。屋内に置かれている物が異様に少ないせいだろうか。中央に通った太い主柱の他には目立った物はなく、天門の分枝である鳥居も見当たらない。
「土埃が酷いですね……植物の根が中にまで張ってますし」
「当然何もないか……まさかここにきて当初の目的地に辿り着くとは思ってなかったけど、こりゃ頭巾に掘り尽くされた後っていうよりかは元から何も残ってなかったって感じだな……」
ざっと見た感じでは目立った物は何もない。東征前に、この結果を予想していなかったわけではなかったが、さすがにこうまで何も残っていないとがっかりする。
「でも無理もないかもしれませんよ。ただでさえ昔の建造物なのに、それに加えて度重なる地形変動……こうして途中までとは言え、塔の形を保っていること自体が奇跡なのかもしれません」
「だな。一応上の階も見てみよう。どのみちみんなとの合流の目途は立ってなかったんだ。だったら今できることをやっておこう」
それにこうして目的地に辿りつけたことは怪我の功名と言うやつだろう。これ以上無闇に動き回るよりも、多少なりとも目立つ建物の中にいた方が仲間にも発見されやすい。
そう考えて、半分崩れかけた階段を上ろうとしていたのだが、覇切の言葉に頷きかけた百合が不意にビクッと身体を震わせる。
「どうかしたか?」
「いえ……何か、今誰かに見られているような、そんな気がして」
言われて首を巡らせてみるも、周辺に人影は見当たらない。だがこういう時の直感は意外と馬鹿にできないものがある。気のせいだと断ずるのは簡単だが、勘違いには勘違いに至るまでのそれなりの理由があるものなのだ。
まさか幽霊などということはないだろうが、頭巾がこの中から出てきたことを考えると、ここが鬼裡依教の集会所か何かの可能性もある。
「っ……覇切さん、あれ……!」
と、そんな風に考えていた時だった。顔色を変えた百合が咄嗟に指差したその方向。正面の柱を越えたさらに奥の壁にぼんやりと浮かび上がるような影があった。
「おいおい……まさか本当に幽霊か?」
「ちょ、やめてくださいよ。変なこと言うの」
覇切の言葉に百合が青ざめた顔で後ずさる。どうやら幽霊が苦手らしい。
その様子にからかってやりたい欲が首をもたげたがここで茶化すのもさすがに場違いが過ぎるので、背中に隠れる百合はそのままに慎重に幽霊(仮)へと近づいていく。覇切としては幽霊よりも鬼の可能性を危惧していたのだが、判明した影の正体はそのどちらでもなかった。
「こいつは……」
それを見て百合と二人唖然とする。
その場に鎮座していたのは、一体の木乃伊だった。一見して人の形を保っているように見えるが、その容姿には決定的な違和感がある。
「これは、鬼の角だな」
額から生えた二本の角。純粋な人であるならば決して有り得ない部位の存在に身の毛がよだつほどの悪寒が走った。
「鬼化、ですかね……? いえでも、鬼化した人間も死んでしまえば砂になるのは鬼と同じのはずなのに……」
「単に角の生えた人間、ってのも普通に考えて有り得ないしな」
鬼の姿形に酷似しているのに、鬼としての特性が現れていない。まるで人と鬼との中間、この中途半端な感じは……。
「私と、同じ……?」
百合が思わずといった様子で呟きを零す。
まだ完全にそうとは断定できないが、確かにこの木乃伊は現状で最も百合に近い存在と言えるだろう。だとすればこの木乃伊こそが百合が探し求めていた記憶の手掛かりという風にも捉えられるが……。
(何だ……この全身がざわつく感じは……?)
覇切、そして百合はこの時、これまでの人生で覚えがないほどの不気味さをその木乃伊から感じていた。単なる気味の悪さではない、どこかちぐはぐとした歪んだ気配。まるで優しく抱き締められながら、そのままの力で締め殺されていくような……そんな母性と殺意が入り混じったような歪な空気を、その木乃伊からはひしひしと肌で感じられていた。
「……? 何か抱えてますね。赤い球状の……これは、魂魄?」
そうしてふらふらとした足取りで百合が木乃伊へと近づいていく。その行動を咄嗟に止めることができなかったのは完全に油断という他ないだろう。
「え……?」
近づいた百合が魂魄へと手を伸ばそうとしたその時、ぼうっとした赤い光が木乃伊を包み込んだ。
「百合っ!」
瞬間的にまずい雰囲気を覚えた覇切が百合をその場に引き倒した直後、二人の頭上を巨大な何かが突き抜けた。
「なっ……鬼!?」
見上げたその先にあったのは覇切の胴回りほどはある太さの鬼の腕だった。その巨大さに驚くより前に、そもそもこの距離にまで接近を許してしまったことに驚きを隠せない。一瞬前まで鬼どころか自分たち以外の気配など微塵も感じていなかったというのにどうして……。
「違います、覇切さん! あれ……!」
急いでその場から離脱したところで、百合の指差す先を見てみると、そこには信じられない光景があった。
「なんだありゃ……木乃伊の腹から、鬼の腕だと……!?」
先の木乃伊の下腹部辺りから生えた野太い腕が、まるでそこから這いずり出ようとしているかのように暴れ狂っていた。
「まさか、産み落としてるのか……? あの木乃伊が、鬼を……!?」
鬼という存在がこの神州に現れてから実に三百年。それだけの年月が経っている中で、鬼がこの世に生を受ける瞬間を見た者は誰一人としていなかった。一説によると一体の鬼から増殖するようにして分かれているのではという話もあったが確証に至る証拠はなく、いつの間にかその場に忽然と現れる化物として扱われてきた。
しかし今覇切たちの目の前で展開されている光景はまさにその鬼が生まれる瞬間だった。あの木乃伊が何なのかはさっぱりわからないが、あれさえ破壊できればひょっとすると鬼の総数を大幅に減少させることが可能なのではないか。
「百合、もしかしたらこいつは絶好の……百合?」
ところが覇切の思考はその時点で途切れることとなる。先ほどまで自分の隣に立っていた百合が、いつの間にか片膝をつき、息を荒げながら自らの右腕を力いっぱい押さえつけていた。
「はぁっ、はぁ……! あ、ぐぅ……!?」
「百合っ! おい、どうした!?」
慌てて名前を呼び、百合の顔を覗き込んでみれば、眼は血走り、脂汗が顔を濡らし、とてもじゃないがまともに動ける状態じゃない。
(この状態は何度か見てる……まさかこんな状況でなんて)
彼女の持つ鬼の腕の発作とでも言うべきだろうか。百合が苦しんでいた謎が今になって解き明かされたが、わかったところで対処のしようがない。
「は、ぎりさん……私のことは、いいです、から……先に」
「馬鹿言ってんじゃねぇ。こうなったらとっとと撤退だ。立てるか?」
そうして百合に肩を貸す形で立ち上がる。しかしそれと同時に目に入った光景に息を呑むこととなった。
「■■■……、■■ッ!」
覇切たちを睨みつけ、唸り声を上げる鬼の姿がそこにあった。一瞬前まで腕しか見えていなかったのに、今はもう上半身が外界へと完全に出てしまっている。
「ヤバいっ、急いで——」
その眼光に戦慄した覇切がその場を移動しようと瞬間、ぎらりと牙を剥いた鬼がその両腕に力を籠める。そして——
「■■■■————————ッ!!」
思い切り床を抉りながら、砲弾のような勢いでその巨体ごと飛来してきた。
「づ、おぉっ……!」
なりふり構わず横に跳躍したことで、間一髪、突撃から逃れ得る。しかし立っていた位置が悪かった。最早完全にこの世に生まれ落ちた鬼がのそりと起き上がった場所はちょうど出口の前。これでは建物外へと逃げることもままならない。
(ぐっ……今ので、傷口が開きやがった……)
鳩尾辺りからずきずきと再び鋭い痛みが走り出し、血が包帯に滲んできた。加えて百合の状態もいまだ治らず。
最悪の状況に呆然としてしまいそうになるが、ここで足を止めたらそれこそ地獄へ真っ逆さまだ。
「くそっ!」
一言悪態を漏らし、百合を抱えたまま階段を駆け上る。追撃に移ろうとする鬼の咆哮が後方から聞こえてくるも構わず走った。
(どうするっ……どうすれば……!?)
上階へ辿り着き、すぐさまさらに上へと目指すため次なる階段をまた上る。
一歩踏み出すごとに少しずつ傷口が開いていくのがわかる。元々死の淵にまで追いやられたほどの負傷だ。本来であれば鬼剋士と言えど絶対安静の重傷に、身体が神威の行使を拒否している。これでは環境支配や合技どころか通常の万象術すらろくに使えはしないだろう。
(百合が救ってくれた命だ……だったらせめて、こいつを守るためにっ)
歯を食いしばり、痛みに耐えながら上階への階段に足をかける。
と、その瞬間にめこっと床面が盛り上がった。回避を考えた時にはすでに遅く、階段を突き破り生えてきた鬼の腕に為す術なく突き落とされる。
「がはっ!?」
背中から落下し叩き付けられた衝撃に、激痛が再びその身を襲う。血反吐を吐きながら床に手を突き顔を上げてみれば、これまで追いかけてきていた鬼に加えてさらにもう一体、今し方空いた穴から這い上がってくるのが見えた。
「はぁ、はぁ、はぁっ……」
どうやらもう逃げ場はないらしい。じりじりとにじり寄ってくる二体の鬼にどうしようもない絶望を覚える。
(年貢の納め時ってやつか……)
「覇切、さん……?」
百合を傍らに下ろし、自分は立ち上がって武器を抜く。
「百合、俺が合図したらお前は下の階段まで全力で走れ」
「……覇切さんは」
「俺はあいつらの相手だ。こんな状態でも囮くらいにはなれるだろ」
穢土に来てからというもの何度死を覚悟したかわからないが、その度にしぶとく命を繋いできた。しかしそれも今回で終わりだろう。
「まぁ、いくら何でもそんなすぐ死ぬつもりはないさ。特攻して即死にじゃ意味ないからな」
せめて百合が天ノ御柱から脱出できるだけの時間は稼ぐつもりでいる。
「お前が拾ってくれた命だ。だったらせめて、最後にお前を守らせてくれ」
そう言って笑う覇切。この光景には覚えがあった。試験の時、動けない百合を庇って傷だらけになっていた。その時も確か腕の痛みが原因で……。
「……」
そのことを思い出した時、百合はあの時からまるで成長していない自分がどうしようもなく情けなく思えた。何故自分はいつもいつも大事な時に限って使い物にならなくなるのか。
今回の発作に関して言えば、恐らく階下で見つけた木乃伊が関係しているのかもしれなかったがそんなことは関係ない。
(それに、覇切さんも……覇切さんですよ)
傷だらけの背中を見せ、目の前に立つ彼のことを見つめる。何故この人はいつもいつも……。
そんな風に覇切の背中を見ていたら胸の奥底から沸々と湧き上がる思いがあった。
「——……です」
「え?」
だからとうとう我慢できずに口にする。守ってくれると言った彼の言葉は嬉しかったけど、それでも今目の前に立つ彼のことを見ていると…………何故だかどうしようもなく、腹が立ったから。
「嫌、です。私は……守られてなんて、あげません」
「百合……?」
痛む腕を押さえつけ、無理を承知で立ち上がり、覇切を押し退け前へ出る。
「覇切さん、勝手なんですよ。そうやって何でもかんでも人が断れないような状況をいいことに、強引に決めちゃって……自分だって全然平気じゃないくせに、すぐに矢面に立とうとする」
「それは……俺はいいんだよ。俺は——」
「よくないですよっ!」
続きを告げようとする覇切の言葉を遮るように百合が声を荒げる。
「はぁ、はぁ……よく、ないですよ。このままじゃ、駄目ですよ、覇切さん」
そして次いで涙を浮かべながら告げられた百合の言葉に覇切は咄嗟に意味を理解できなかったが、彼女の強い瞳に知れず気圧され、言葉に詰まってしまった。
「覇切さんの生き方を否定したいわけじゃないんです。自分の命を使い尽くすまで戦い続けて、その果てに死ぬ……その考えの是非を決める権利なんて私にあるはずもありませんから」
そう言う百合は寂しげな表情を浮かべていたが、どこか迷いの吹っ切れたような雰囲気も見られた。真っ直ぐに覇切の瞳を見返して、はっきりとした自分の思いを告げる。
「でも、上手くは言えませんけど……嫌なんですよ。覇切さんがそんな、まるでいつ死んでもいいみたいな考えで生きてるのを考えた時、凄く胸が苦しくなるんです。だってそうでしょう? 覇切さんは自分を殺してやりたいと思っていると、そう言っていましたけど……」
意を決したように百合が覇切を睨みつける。その瞳には強い意志が感じられた。
「——私は、死んでほしくありません。覇切さんには、生きていてほしいから」
その言葉を聞いた瞬間、覇切の胸の内を吹き抜ける風があった。
まるで青天の霹靂。いつかも抱いた自分の中の奇妙な気持ちが、ここにきて徐々に形を持ち始める。
「だから今度は、私が守る番です。覇切さんは、死なせませんっ」
気合い一喝。いまだ右腕の激痛に翻弄される百合だったが、それがどうしたと痛みを振り切り前方に氷の壁を展開する。形は歪でいつもに比べれば洗練さの欠片もない酷い出来だったが、薄壁くらいの役割は果たせている。鬼の剛力を前にどれだけ持つかはわからないが、それはそれだ。
魂を燃やす。覇切が口癖のように言っていた言葉は、今がその時だと自分に言い聞かせ、限界超えて万象術を行使する。
その奮戦を、覇切は普段なら決してありえない立ち位置で呆然と眺めていた。
(……考えたことも、なかった)
頭の中に過るのは先ほどの百合の言葉。
死んでほしくないと、生きていてほしいと言ってくれた。
(いいのか……? そんなこと……)
殺してやりたい奴がいた。でもそいつをいなくなった時、悲しんでくれる人がいることを、怒ってくれる人がいることを、考えたことがあっただろうか。
自分にとって死なせたくない人間がいるように、自分のことを同じように死なせたくないと思ってくれる人間がいることに何故気が付かなかったのだろうか。
「はぁ、はぁっ……? 覇切、さん?」
いまだ痛みに耐え、鬼の進撃を食い止めてくれている百合の隣に並び立つ。
まだ自分の気持ちがよくわかっていない。殺したいほど自分が憎いのは以前と変わらず、命を使い潰したいと思っているのも同じだ。だけど——
「……守られっぱなしってのは、性に合わないんだ。だから、俺にも守らせてくれよ、お前を」
今この瞬間に生きたいと、そう思ったのは確かな事実だったから。
必ず守る。必ず生きて帰る。
その信念のもとに、魂がかつてない熱を持ったことは疑いようのないただ一つの真実だったから。
「戦うぞ。戦ってここから生きて帰ろう。みんなと、一緒に」
「……はい!」
差し出された拳に、百合もまた自分の拳を合わせる。
「■■■——ッ!」
そしてまるでそれが合図となったように、氷の壁が崩れ去り、鬼が雪崩れ込んできた。
依然状況は絶望的、二人が満身創痍なのも変わらない。しかし二人は毅然とした表情で、二体の鬼を睨みつけていた。もうその瞳には、一瞬前の希望に潰えた暗い光は残っていない。
戦ったその果てに死ぬためじゃない。今を生き抜くそのために、迫りくる鬼を迎え撃つべく武器を抜く。そして——
「緋燕絶障——焼幕壁」
まるでそんな二人の情熱に応えるかのように、大熱を纏った静かな声がその場に響いた。
「■■■■————ッ!?」
下から噴き上げるように横に燃え広がる炎が二体の異形を包み込み、たまらず鬼たちは一歩二歩と後退していく。
「この炎は……まさか——」
ばっと百合と二人後ろを振り返れば、窓辺からひらりと屋内へと舞い降りる赤い影。
「よっ、おひさー。二人とも元気してた?」
「秋桜っ!」
見慣れた二対の紅髪の持ち主は、いつも通りの無表情を浮かべながら片手を挙げて呑気な挨拶を投げかけてくる。その姿が何故だかどうしようもなく頼もしい。
「秋桜先輩、無事だったんですね! どうやってここがわかったんですか!? ていうか今一体どこから現れたんですか!?」
「あーあーあー、いっぺんに何個も質問しないでよ。とりあえず、そこから下見れば全部わかると思うわよ」
「下?」
言われた通りに覇切は秋桜が現れた窓辺から顔を覗かせる。と、
「がふっ!?」
突如、猛烈な勢いで迫ってきた何かに思い切り顎を打ち付けると、そのままの勢いで屋内へと倒れて込んでしまった。次いで、腹の上にかかる重さにちかちかする視界で見上げてみる。
「あ、おにーさん。だいじょぶ?」
「梗……!?」
そこには秋桜に引き続き、しばらく顔を見ていなかったもう一人の仲間がきょとんとした顔で、可愛らしく小首を傾げていた。
「覇切さん、あれ!」
何が何だかわからず、一旦梗を降ろしてから、百合の指差す地上にもう一度目を向けてみると……。
「比名先輩、桜摩……」
残る二人の仲間たちが地上から手を振っているのが見えた。無論手を振っているのは比名菊だけで、桜摩はこちらを一瞥した後、どこか疲れた表情でそっぽを向いてしまったが。
「比名先輩、無事だったんですね……」
覇切に次いで重傷だった比名菊の一命を取り留めた姿を確認し、百合と二人、安堵のため息を漏らす。彼女は遠目からでも辛そうに表情を歪めてはいるのがわかったものの、この分ならもう命の心配はないだろう。
「でも、二人ともどうやってここに? かなりの高さだと思うんだけど」
「おーまくんに、送ってもらった。びゅーんって」
「脳筋にはぴったりの役割でしょ?」
要するに桜摩が二人をここまで投げ飛ばしたのだろう。そう考えるとあの態度にも納得がいく。脳筋という意味なら最も適役なのは秋桜だとも思ったが……それは言わぬが花というやつだろう。
「皆さん……本当に、本当によかったです……」
特科生全員の無事を改めて確認した百合が思わずその目に涙を浮かべる。この数刻の間に随分と泣き虫になったものだと、微笑ましいものがあったが、こうして皆と無事な姿でまた会えたことに覇切もまた感動を禁じ得ない。
「感動の再会のところ悪いんだけどさ、さっさとずらかるわよ」
秋桜の言葉に我に返り、振り返ってみれば、そこには彼女の作った炎の障壁を越えようと暴れる鬼共の姿があった。
「地形変動の後、その場で応急手当くらいしかできてなかったからね……あたしもみんなも万全じゃないのよ。とりあえず一旦あたしがここ食い止めてるから、梗。手筈通り行くわよ」
「合点承知、です」
秋桜の言葉に頷き、いきなり百合の腰の辺りをもぞもぞと手探りし出す梗。
「ちょ、な、何ですかいきなり!? 変なとこ触らないでくださいっ!」
じたばたと抵抗する百合など気にする様子もなく梗は、百合の腰をがっしり掴んで力を籠めると……そのまま動かなくなった。
「…………百合ちゃん、重い」
「んなっ!? きょ、梗ちゃん、それはさすがに聞き捨てなりませんよ! ていうか結局何がしたかったんですか!? 私が人より肥えていると馬鹿にしたかったんですか!?」
「ったくもう、何やってんのよ。ほんっとに……」
そんな二人のやり取りに業を煮やした秋桜が踵を返して戻ってくる。そうして百合の首根っこをがっと掴むとそのまま軽々持ち上げ窓際へ。
「え、は……? あ、秋桜先輩……まさかこれは」
「怖いのは最初だけよ、たぶんね。桜摩ー、作戦変更ー!! しっかり受け取んなさいよっ!!」
瞬間、百合の顔色が真っ青に染まり、地上では桜摩が「は? ちょ、てめっ……ふざけんな!」と激昂している様子が口の動きでかろうじて分かった。そして——
「はいよー、お一人様ごーあーんーなー……いっ!」
「ま、待って秋……あ、や……いやああぁぁぁぁぁあああああっっっ!?」
「うわ……」
一切の躊躇もなく百合の身体を空中に放り投げた秋桜は豪胆と言えばいいのか、図太いと言えばいいのか……わからなかったが、とりあえず心の中で百合に向かって合掌しておくことにした。
「ほら何呆けてんの? あたしらも行くわよ」
「マジか」
言うが早いか、覇切の身体を小脇に抱え上げるとそのまま梗と連れだって欄干に足をかける秋桜。必然後ろを向く格好となった覇切の視線の先にはついに炎を突破してこちらに突進してくる鬼共の姿が見えた。
「舌噛むんじゃないわよっ」
そうして先の百合と同じように空中へと身を躍らせる。間一髪、後方で窓際が破壊される音が響いたが、その音を一瞬で置き去りにして、気付いた時には重力に任せた高速落下が始まっていた。
「っ……おっととっと……!」
「うおっ!?」
腹の奥が持ち上がるような独特な感覚を伴う空の旅はほんの一瞬の出来事だった。あれだけの速度で落下したにも拘らず驚くほど静かに着地できたのは、秋桜の生来の身体能力の高さの賜物と言ったところだろうか。
「覇切君、百合ちゃんっ……よくぞ御無事で……!」
「紅真てめぇいきなり何てことしやがる! もうちょっとで取り落しそうになっただろうがっ!」
「ちょっと桜摩先輩、今さりげなく恐ろしいこと口走ってませんか!?」
「あーもう、うるっさいわねぇ……喜ぶのも文句言うのも全部後々! のんびりしてる時間はないわよ、ほら! 走るっ!」
秋桜の言葉に上空を見れば、先の鬼があの巨体のままに塔から飛び下りようとしている光景が目に入った。
「確かにヤバいけど、走るったって一体どこに!?」
秋桜に抱えられたままの体勢は非常に情けないことこの上なかったが、四の五の言ってもいられないのでそのままの格好で訊いてみればすぐに返事が返ってきた。
「ここに来る途中で天門の分枝を見つけたのよ。比名ちゃん先輩が起動してくれたから、このまま一気にそこまで行くわよ!」
秋桜が言い切った直後に後方からずどんという凄まじい轟音が聞こえてくる。砂埃を舞い上げながら追ってくる二体の鬼は決して鈍足ではないものの、出だしで虚を突いたことが功を奏したのかすぐには追いつかれそうもない。
そして前方に見えてくるのは秋桜の言っていた通りすでに起動状態に入っている天門の分枝である鳥居。
「覇切さん」
秋桜の隣を走る桜摩に、覇切と同じように抱えられた百合が不意に声をかけてくる。その顔にはどこか嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「よかったですね、生きてて」
「……ああ、そうだな。本当に——」
——生きててよかった。
八恵を自らの手で失ってから実に六年。それだけの歳月を経て、覇切は今ここに初めて心の底から自分の生を喜ぶことができていた。
きっと自分一人では、そのようなこと思い至りもしなかった。それどころかとっくにどこかで死んでいてもおかしくなかった。
それでも無意識のうちに必死に生きようとする努力ができていたのはきっと……自分を必要としてくれる人たちの存在を心のどこかで感じていたから。そんな自分を肯定したいと、そう思えるようになっていたから。
「ほら、出口よ!」
秋桜の言葉が響くと同時、光が周囲に満ちていく。穢土に入るときも感じた独特の浮遊感が全身を包み込む。
今回のことは紛れもない敗走でしかないだろう。
圧倒的な力の前にひれ伏し、何度も死の気配を間近に感じた。しかしそれでも、覇切たちは今こうして生きている。全員が欠けることなく、帰って来れた。そのことがどうしようもなく嬉しかったから。
「みんな……ありがとう」
だから覇切は誰にも聞こえない程小さな声でそう呟いた。皆に正面切ってお礼を言うには、まだ少し照れ臭かったから。
こうして覇切たち千刃暁學園穢土東征特務分隊の六名は神州浄土へ帰還を果たした。
彼らが頭巾や桜月桜華に敗北を喫してから、神州に起きていた異変を彼らはまだ知らない。
これからが本当の戦になることを知る由もなく、今はただ全員の生還を皆で祝うだけだった。
結構急展開になってしまった感は否めないんですが、あんまり時間かける回でもないなと思いまして……何はともあれクライマックス目前です。明日2/5の更新をお待ちください! それでは今回も読んでくださりありがとうございました!