第三幕 戦フ覚悟
どもです。今日でひとまず折り返しといったところでしょうか。お楽しみくださいm(__)m
「——向いてないな。諦めろ」
後の師匠でもあり義姉でもある彼女——東雲涅々にそんなことを言われたのは六年前、あの地獄から彼女の実家の東雲家へと連れて帰られてから十日後のことだった。
「え……」
「だから、お前は鬼狩りには向いていない。強くなれないと、そう言っている」
当然そんなことを言われた覇切は憤慨した。話が違うと、あまりに理不尽な手の平返しに、思わず慣れない正座から腰を浮かせて怒りの声を上げたが、涅々は涼しい顔のまま、だだ広い道場の真ん中で美しい正座を保ったままだ。
「阿呆かお前は。私はお前の名を聞き、連れ帰ってやったが強くしてやると言った憶えはないぞ」
思い返してみれば確かにそうだ。あの時、戦い方を教えてくれ、強くなりたいと彼女に伝えはしたが、それは言ってしまえば覇切が一方的に押し付けた約束でしかない。
故にそう言われてしまえば覇切に言い返せる言葉はないのだが、突然梯子を外されたような現状に感情の行き場が見当たらない。
そんな覇切の様子を見て涅々は一つ息を吐く。
「お前、鬼狩りが何故強いのかわかるか?」
「何故って……それは、人間とは違うから」
「そうだ。鬼狩りは普通の人間とは違う。だから人間相手に比べれば、三日前に融魂施術を受け、すでに鬼狩りの肉体を得ているお前は十二分に強い。というか、勝負にすらならない次元だろう」
それはその通りである。鼠と虎を戦わせてどちらが強いかなど訊くまでもないことだ。
「だが一般的に言う強い弱いの話は、同種を相手にした前提の下で行われるものだ。剣の道を歩んでいる者が、板前相手に真剣の立ち合いで勝利を収めたとしても、それを以て前者が強いということにはならないだろう? 板前の戦場は調理場にあり、道場ではないからだ」
「でも……だからこそ俺は鬼狩りとして強くなりたいって——」
食って掛かろうと再び腰を上げる覇切を手で制す涅々。
「そこでさっきの話に戻る。お前は鬼狩りとして強くはなれない。別に意地悪で言っているんじゃない。向いていないと思ったのは本当のことだがな……私だって強くしてやれるものならしてやりたいさ。だが現実問題、それは無理なんだ。お前だけじゃない。鬼狩りは誰しも皆、自らの意思で強くなることはできないんだ」
それは一体どういう意味だと訊く前に、涅々の強い視線が覇切を射抜く。
「だからこそ、私はお前に問いたい。お前は——」
◇
「ふ……」
百合の言葉に昔のことを思い出したら、自然と口元に笑みが浮かんだ。
「なっ……何を笑っているんですか! 私を馬鹿にしてるんですか!?」
しかし百合は覇切の笑いを何か勘違いしてしまったらしい。
憤慨した様子の彼女に首を横に振り謝罪する。
「いや悪いな。別にお前のことを笑ったわけじゃないんだ。昔師匠に言われたのと同じことを言われたから、それが少しおかしかったんだよ」
「同じこと? お師匠さんに?」
「ああ。『お前は鬼狩りに向いていない。諦めろ』ってな」
今にして思えば随分と青臭いやり取りだった。
だが、あれがあったからこそ今の自分を受け入れ、今日まで鬼剋士としてやってこれたのだろうと、そう思っている。
「だからお前が言いたいことも大体わかる。要するに俺の鬼狩りとしての資質——鬼宿等位の話だろ?」
百合の言わんとしていることを言い当ててみせると、彼女は神妙に頷いてみせた。
「鬼宿等位——御存じの通り、五行万象術の技能それぞれに割り当てられた素質の等位……言ってしまえば鬼狩り個人に備わった才能の上限値です」
鬼宿等位は最低の壱等位から最大拾まで十段階に分けられており、十種の万象術総てに相応の数字が割り振られている。
「故に鬼狩りは個人個人で得手不得手となる万象術が存在します。例えば私の場合は敏捷性の『迅』と精密性と『冴』、そして神威による場の支配力を司る『覇』の鬼宿等位が極めて高いといった風、ですね。ですが……」
そうして百合はじっと目を凝らすように覇切を……いや覇切の纏う神威を見つめる。
「覇切さんの鬼宿等位は、十種の技能が総て陸等位ほど——つまり最大等位のほぼ半分くらいしかありません。ある意味珍しいかもしれませんし、弱点がないと言えばそうかもしれませんけど、正直これでは器用貧乏感は否めないんじゃないかと」
そう、これが昔涅々に『向いていない』と言われたことの真実だ。
人は、鬼剋士となったその瞬間からどの系統の神威をどう扱うのが得意か、その才能の総てを決定づけられる。そして殆どは十種のどれかに必ず際立った才能が存在するのだ。
それはその人の性格や深層心理に反映されたものなのか、ただの運否天賦なのかは不明だが、普通の鬼剋士ならば一つか二つは比較的高い数値の技能が必ずある。故に三つ得意分野が存在する百合は、かなり恵まれていると言ってよいくらいだが、覇切の場合はそのどれもが中途半端な数値で止まっている。
そして鬼の力を利用している以上、鬼の戦闘形態にもまた必ず膂力型や速度型など傾向というものがあるのだ。
「鬼狩りは鬼宿等位を上昇させること——つまり、それ以上強くなることはできません。これは言ってしまえば天稟であって、鍛えたところでどうなるものでもないからです。とは言え扱い方——それこそ合技のようなものを習得し、戦いに取り入れることである程度の技量を身につけることは可能ですが……それでも格上の敵に相対した時、勝機を見出せる自らの必殺とも言える得意分野がないという状況は……」
「まぁ、致命的……だな」
鬼剋士の戦いというのは詰まる所、鬼宿等位のぶつかり合いだ。単純な数字で総てが決まるわけではもちろんないが、壱等位と拾等位の力の差は、普通の人間とその十倍の大きさの身体を持つ人間の運動能力の差にそのまま置き換えられる。
すなわち同じ傾向を持つ鬼剋士同士、もしくは鬼相手ならば、優れた資質を持つ方が必ず勝つ。
「それで何でってことか……」
覇切の場合、総ての鬼宿等位が平均よりやや上程度。弱点らしい弱点がないのできっとどんな鬼が相手でもそう易々とやられることはないのであろうが、逆を言えば突出した技能がない現状では——得意分野を持つ相手に勝つことはできない。絶対に。
「覇切さんが講堂で女の子を庇った時、正直かなり驚いたんです。私とてあのまま鬼に好き勝手させるつもりはなかったのですが、覇切さんは迅に秀でた私よりも早く飛び出しました。決して能力が高いわけでもないのに、誰より早く反応、そして鬼を斃すことよりも女の子を庇うことを優先して彼女を守りました。それがずっと……心に引っ掛かっていたんです」
そうしてじっと覇切の目を見つめる百合。その目に宿るのは純粋な興味の他に、羨望のような輝きも見えた気がした。その視線を受け止め、しばし考えてから口を開く。
「質問に答える前に一つだけ。逆に訊きたいんだけど、百合はどうして鬼狩りになったんだ?」
「え……?」
質問に質問で返すのは悪いと思ったが、その方がわかりやすいと判断して問いかける。
「えっ、と……私は……」
「別にそんな突っ込んだ話までしなくていい。大雑把で構わないさ」
覇切の言葉を受け、百合はしばし考え込む。
「私は……自分が鬼狩りだという証明をしたいんです」
そうして包帯に包まれた左腕を反対側の手でギュッと押さえつけながら零した言葉は、講堂で耳にした彼女の呟きと同じものだった。
「誰かを守りたいとか、鬼をこの神州から駆逐したいとか、そんな風な立派な理由では全然ないので、少し恥ずかしいのですが……まぁ、簡単に言えば自分自身のためですよ。私が鬼狩りであると、他ならない私自身への証明のために、鬼を殺すんです」
そう告げる彼女の表情に浮かぶ強い意志と暗い影。その様子が先の言葉に嘘偽りがないことを証明している。だからこそ——
「つまりそういうことだよ」
その言葉は確かな百合の本心なのだと確信できた。
「そう、とは?」
「お前は自分が鬼狩りだと証明したい。そのために鬼と戦っている。それはお前の鬼狩りとしての資質と何か関係があるのか?」
「ぁ……」
「お前は自分に才能があるから戦っているわけじゃないだろ? 俺もそうだが、鬼狩りとしての能力はあくまで手段に過ぎない。その先にある目的ってのは、その能力があろうがなかろうが関係なく達成せんとされるものだ」
「……そう、ですね。確かに、そうだと思います」
先ほどの百合の表情からは鬼気迫るものが感じられた。それ自体は危うさを覚えるもので少し心配でもあったのだが、つまりはそれだけ本気だということ。自らの才能如何でふらふらとぶれてしまうような軽いものではないはずだ。
「俺は六年前の鬼の浄土侵攻で総てを失くした。居場所も家族も、一番大切だった人さえ、全部……だからって鬼を恨んでるわけじゃない。恨まれるべきは、俺だから……憎むべきは、俺自身なんだから」
憎しみの炎が向けられる先を間違えてはいけない。殺してやりたい奴は一人だけ。
狂気の灯火が宿った覇切の左眼を見て、百合は知れず額に汗をかいていた。
普通人間は自分に関して嫌いな面が必ずと言っていいほど存在する。しかしそれと同時に好きな面、自分自身を肯定できる部分も必ずあるはずなのだ。
百合が先ほど覇切に告げた自らの行動原理も、ある種彼と同じ自らに対する憎しみからきていると言ってよかったが、それでも覇切の怨念とも呼べるほどの悪感情はそれをはるかに凌駕している。
自分のことをここまで憎悪している——いや、憎悪できる人間がこの世にいるのかと、戦慄さえ覚えたほどだった。
「だから俺は、俺の命を一片残らず磨り潰すまで使い切ることに決めたんだ。もう何も失わないように、命を削ってでも守り抜く。それが俺の俺自身に対する復讐……なんて、結局は俺も自分のためだな」
最後に零した言葉には自嘲の響きが込められていた。
その言葉の真に意味するところを百合は理解できてはいなかったが、何故だかその時の覇切の様子は酷く物悲しく見えた。
「……何か、偉そうに講釈垂れちまったな」
「いえ、元はと言えば私が訊いたことですので……まぁ、これで試験に通らなかったらダサいことこの上ないですけど」
「言うじゃないか」
「その時は笑ってあげますので安心してください」
そう言いながら悪戯っぽくはにかむ百合。これまでしかめっ面くらいしか表情らしい表情は見ていなかったので、意外だった。
元から綺麗な顔立ちだが、笑った顔も結構可愛い。そんなことを思ったが、言えば絶対怒り出すことは目に見えてたし、そんなことを口にする自分を想像して純粋にキモいなとも思ったので黙っておくことにした。
「それじゃ、俺はもう行く。ここに来るまで大した鬼の相手もしてないし……お前はどうする?」
「あ、私は……」
立ち上がった覇切に釣られて腰を浮かせかけた百合だったが、一瞬だけ考え直すと、再びすとんと元の体勢に戻る。
「……私は、もう少し休んでいきます」
苦笑を浮かべながらそう言った百合の顔にはまだ少しだけ疲労の色が残っていた。
「それがいい」
その様子を見て覇切は少しだけ気分の昂揚を自覚していた。
つい先ほどまでは意地を張り、てこでも休む気はないという態度だった彼女がほんの少しでも素直な気持ちを吐露してくれた。
それはきっと自分のことを幾分か信用してくれたということで……その変化を嬉しく思った覇切は自然と彼女の頭に手を置いていた。
「なっ……何ですか、急に」
一瞬だけビクッと身体を震わせた百合だったが、その後は若干身体を強張らせながらもされるがままになっている。
「いやすまん……つい、な」
言いつつ頭を撫でる手を止められない。
秋桜にも言ったが、梗や百合を見ていると今は亡き妹のことをふとした拍子に思い出してしまう。だから何となく、自分のしたことで喜んでくれたり、褒めたくなるようなことをされると昔妹にそうしていたように頭を撫でたくなってしまうのだ。
「……何だか、不思議な感じがしますね」
「あ?」
「いえ……私にも兄がいるんですが、こんな風にしてもらったことはなかったので。あ、いい兄なんですけどね。ちょっと事情がありまして……」
「へぇ、それって——」
と、少し興味を惹かれた覇切が話を聞こうと口を開いた——その時だった。
「■■■ッ、■■■■■■————ッッ!!」
森全体を震撼させるとてつもない叫喚が、轟いた。
「今のっ……!」
「かなりデカいな……」
先の和やかな雰囲気から一転、場に走る戦慄に二人同時に腰の刀に手をかける。
「一度聞いた声ですね。たぶん、講堂で最初に聞いた……」
「ああ、しかも……ここから近いな。これは……はっ、運がいい」
「え……?」
そう口元に笑みを浮かべながら、覇切は声のした方角へと足を向ける。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
しかしそこで百合が待ったをかけた。
「どうした? 別に俺の獲物だなんて言うつもりはないけど」
「違います! あなたわかってるんですか? 今のはたぶん業魔です。しかも講堂で初めて聞いた時の声は、まるで群れの統率を取るために発したような遠吠えでした。恐らく群れの親玉。私が試験開始に斃した業魔より数段格上の可能性が高いです」
「つまり?」
「つまりって……わかるでしょう! はっきり言いますけど、この鬼は覇切さんの手には負えません。死にますよ」
きっぱりと言い切る百合。その強い視線からは純粋に覇切の身の危険を案じた気持ちが伝わってきた。
「お前……意外といい奴だな」
「なっ、ば、馬鹿じゃないですか!? 今はそんなことどうでも——」
「けど」
しかし、覇切は百合の言葉を遮り首を横に振る。そして再びその左眼に燃え上がる憎悪の炎。
「言っただろ? 俺は俺の命を使い潰す……もう何も失わないように、命削ってでも戦い抜くと決めたんだ。だから相手の鬼が桁外れに強かったり、死ぬかもしれないなんて話は——」
何かが凄まじい速度で風を切る音が聞こえる。
木々を薙ぎ倒しながら迫る暴風。数瞬後、この場に現れるであろう暴威の存在をその身にひしひしと感じながら、覇切は正面切って言い放った。
「——ここで俺が引く理由にはならないって、そういうことだ」
その言葉が言い終わると同時、目の前に広がる木々の群を薙ぎ倒し、禍々しい黒を纏った鬼が飛び出してきた。
——強さを得ることができなくても、戦い抜く覚悟はあるか?
あの日義姉に告げられた言葉が脳内に繰り返し蘇る。
「……あるさ。そんなもの、とっくの昔に決めたことだ」
小さく呟いた言葉は、あの日も口にした戦う覚悟。
誰より強くなりたいわけじゃない。ただ、戦う力が欲しかった。
そして力を得た今の自分が次に欲するのは……『戦場』。
「悪いけど、俺が正式に鬼狩りになるための足掛かりになってもらうぞ。どのみち誰かに殺されるんだ。だったら今、黙って俺に殺されてくれ」
冷ややかな言葉とは裏腹に心の奥底で沸々と滾る熱情を感じながら、覇切は吶喊してくる鬼を迎え撃つべく、腰の刀を抜き放った。
◇
空間を斬り裂く暴風にも似た轟音と同時、激しい火花がその場に大輪を咲かせる。
眼帯の青年と業魔、両者の戦いの火蓋が切られたことを告げる号砲は大気を震わせるほど激烈な響きを以て打ち鳴らされたが、同時にそれは青年の敗北へと続く導火線に着火が施されたことと同義であると百合は考えていた。
「無茶ですよ……こんな……」
見据える先には、表向き平静さを保った表情で幅広の太刀を振るう覇切と、その覇切よりも二回りほど大柄な二足歩行の業魔の姿。
一般的に鬼の中でも最下級の餓鬼はその殆どが獣や昆虫など、野生生物を象った形をしているが、業魔級になるとその容姿は一変する。
これまでの猿真似のように既存生物の姿形を似せていた見た目から一転、角を持ち、牙を持ち、筋骨隆々の肉体を持つ独自の姿を獲得する。
その姿はまさしく鬼。覇切が相対している業魔もまた、獣のように全身を暗黒色の毛で覆われているものの、その姿は他生物に例えることができないほど純粋な『鬼』特有の威容を成していた。
頭部には成人男性の腕ほどの太さはある二本の角、両腕は他の部位に比べて特別大きく、まるで鉈のように鈍い輝きを放つ巨大な爪は捕まったが最後、骨までズタズタに引き裂く鋭さがあることは想像に難くない。
その体躯こそ講堂で百合が斃した鬼よりもずっと小さいものの、内包された能力値は遙かにそれを上回っている。
(恐らく、傾向としては剛に優れた膂力型。そして厄介なことに速度を司る迅の数値も高い……)
百合のように眼の良い鬼剋士は対象の神威を見透かすことである程度の実力を推し量ることができる。
(私の見立てでは、あの鬼の剛之象は捌等位、迅も恐らく漆等位はあるはず)
つまり全等位が陸等位の覇切では——
「だめ……勝てない」
およそ接近戦という場において、行き着く先として最終的にものを言うのは力と速度だ。故にその二つが突出しているあの業魔は接近戦の名手と言っていいだろう。
大きな腕もその特性を遺憾なく発揮するために進化したものと考えるべきだ。
その豪腕を前に何とか戦いを成立させられているのは、偏に覇切の応用力の高さ——すなわち、先に百合が器用貧乏と評した資質のおかげだと言っていいのだが——
「くっ……」
徐々に、徐々にではあるが、鬼の爪が覇切の身体を捉え始めた。
肩が裂け、脚に斬線が走り、額からは派手に血が飛び散る。
そして当然被弾する割合が増えれば、その分動きも鈍る。加えて言うなら覇切の攻撃はいまだ業魔を捉えていない。正確に言えば何度か掠りはしているものの決定打には至っていないのだ。
故に当然業魔の動きは一向に衰えず、むしろ自らの攻勢に昇り調子となってきたのか、勢いが増してすらいる。
要するにジリ貧。覇切の不調が、業魔の好調へと繋がり、自然負傷が重なって動きが鈍る。
絵に描いたような悪循環。もはや敗北は確定しているはずの敗け戦。誰がどう見ても勝機など皆無。
そのはずなのに——
「どうして……あなたは……」
覇切の目は死んでいない。むしろまだまだこれからとでも言うようにその瞳には、開戦の時にも増して激しい炎がその勢いを増している。
「——っ!」
と、その時、鬼が爪を大上段に大きく振りかぶった一瞬の隙をついて覇切の剣が鋭く閃いた。
今まで繰り出していた斬撃とは比べものにならないほどの速度で放たれた剣閃は、見事に鬼の不意を突き、その胴体を見ているこちらの背筋が震えるほど滑らかな軌道で斬り裂いた。
「■■■■————ッ!!」
腹を裂かれた激痛で業魔が悍ましい絶叫を上げる。
(まさか今のは……合技!?)
この土壇場で繰り出された覇切の合技を前に、百合は目を見開く。
先ほど自分で合技も扱えない鬼剋士は三流だと言い切っていたにも拘わらず、思わず驚いてしまったのは、ここまでの戦いで覇切が一切それを使用する場面がなかったからだ。
恐らくは今この瞬間、この一撃に総てを懸けるための布石。自分に切り札はないと相手に思わせるための偽装、欺き。
特別に意識をせずとも自然に脳内に刷り込まされた誤認識は見事功を成し、欲しかった決定打を業魔に与えた。
(迅之象による速度強化と、砕之象による防御貫通……恐らく最初からこれでいくと決めていたわけじゃなく、合わせてきた)
通常、鬼剋士は得意な系統の万象術同士を組み合わせた合技を使用する。それは互いの相乗効果により極めて高攻撃力の一撃を繰り出せるからという至極単純な理由からだが、逆を言えば不得手な万象術はどう足掻いたところで劇的な能力値の急上昇は見られないということ。つまり不得手な技能は不得手なままなのである。
しかし覇切はどの万象術も平均値。これならば、一撃一撃の威力は得意分野を持つ相手の万象術に劣るものの、あらゆる組み合わせの合技を臨機応変且つ安定した強さで放てるという強みでもあるのだ。
「っ……う、らぁあっ!」
これまで燎原の火の如く猛烈な攻め手を繰り出していた業魔に生じた決定的な隙。それを逃すまいと、すかさず覇切が反撃に転じる。
剛に総てを注ぎ込み放つ疾風怒濤の猛連撃。反動で傷口から血が噴き出すのも構わず矢継ぎ早に放たれる剣技の数々は、勢いを増すばかりで止まることを知らない。
(当たり前だ……覇切さんにとっては是が非でもここで斃してしまいたいところ。多少の怪我なんて気にしている場合じゃない)
恐らくあの業魔はまだ本領を発揮していない。
業魔級から上の鬼が特別脅威だと思われているのは、餓鬼と比べて圧倒的に高い能力値を持っていることも理由の一つだが、その最大の理由は備わった特殊能力の存在にある。
それは人智を超えた魔性の力。何が起こるかわからないが故に、業魔級以上の鬼を相手取るときはその特殊能力を使われる前に斃してしまうのが基本原則である。
よって覇切もその基本に則って早々にけりを付けようと獅子奮迅の猛攻を続けていたのだが——
「いけない……あれは……!」
勢い衰えることのない斬撃の乱舞を受け、身体の前面を切り刻まれ続ける業魔。その業魔の角が怪しい影を帯び始めている。
「っ……ぼーっと休憩している場合じゃなさそうですね……!」
これまで覇切の勢いに押され、彼への義理立てという意味もあって傍観を決め込んでいた百合だったが、そうも言っていられない状況になってしまった。
(あの角の陰りは鬼の特殊能力発動の——禍憑鬼変化の兆し……!)
やはり覇切の鬼宿等位ではもう一歩、押しが足りなかった。
恐らく覇切の構想では、先の合技の段階で不意を突き勝負を決めたかったはずだが、それが敵わなかったために現在の技巧も何もない力技のゴリ押し状態がある。
しかし、それもこのままではじきに破られる。
(覇切さんには悪いですけど、ここは私が——)
今なら業魔も覇切に意識が向いている。加えて今なお続く覇切の猛攻で業魔の体力は大幅に削られているはず。
ならば自分の得意とする迅と覇の合技で一気に勝負を決められるはずだ。
(まだ足元がふらつくけど……一発くらいなら……!)
普段なら他人の無茶など勝手にしろと放っておく百合だが、今ばかりは状況が状況だ。
目の前で殺されそうになっている人間を平然と見捨てられるほど心が冷め切ってはいないと自覚しているし、血に塗れながら剣を振るう覇切を前に、何故だか死なせたくないと、そう思ってしまったから。
「絶氷——っ!?」
故に自分でも正体不明な想いの元、発動せんとした合技だったが、ここで彼女にも想定外の異変が起きる。
「——あ、ぐ……ぁ、あぁああっ!」
突如として左腕に走る激痛。
(まさか……こんな時にっ)
まるで腕全体に錐や釘を無数に突き刺されたかのような鋭く激しい痛みに集中力を掻き乱され、堪らずその場に蹲る。
「か、は……ぁ、ぅぐ……!」
呼吸することすらままならず、えずくように喘ぎながら額を地に打ち付ける。押さえつける腕は燃えるように熱く、とてもじゃないが立っていられない。
「っ、おい! どうした!?」
百合の異変に気付いたのだろう。彼女から姿は見えなかったが、自分を気遣う覇切の叫び声がその耳に届いた。
自身が追い詰められている状況で何を他人の心配なんてしているんだと、百合は呆れ返るより他なかったが、続いて聞こえた覇切の言葉が聞き取れず、痛みに表情を歪めながらもどうにか顔を上げる。
すると——
「——ぁ」
すぐ目前、倒れ伏す自分を嘲笑うかのように見下ろす業魔の姿がそこにあった。巨大な爪を備えた両腕はそのままに、体躯が一回り膨れ上がり、両の肩から新たに二本の角が生えたその姿は、先ほどまでよりさらに禍々しい変化を遂げている。
禍憑鬼。業魔級以上の鬼が特殊能力を使用する際に変化した姿の、あまりの禍々しさから付けられた異称である。
思わず左腕に走る激痛を忘れてしまうほど、全身を駆け抜けるひやりと冷たい死の感覚。
振り下ろされる巨爪の動きがやけにゆっくりと感じられる中、鬼の後方から必死の形相で走る覇切の姿が視界に映った。そのさらに後方にはボロボロになってその場に崩れる業魔の姿。
(そうか……これが、この業魔の能力……)
妙に冷静になった頭の内に思いついたのは、自分の眼前に立つ業魔の能力。
それはつまり——影分身。
恐らく百合が能力発動の兆候を覚え始めたときにはすでに分身の形成が始まっていたのだろう。
覇切の攻撃を受け続けていた業魔は途中から本物と挿げ替わり、気づかれないよう百合の背後に回っていた。その証拠に目の前の業魔には最初の一太刀以外の傷がない。
弱っている獲物から殺す。寒々しいほど野生の基本原則に基づいた行動。
最初から狙われていたのは自分の方だったという間抜けな事実に気づかされた百合は自らの愚鈍さに激しい怒りを覚えたが、直後に押し寄せる膨大な感情の渦に胸中総てを塗り潰される。
(い、やだ……死にたく、ない)
それは生物なら何であれ覚える死への恐怖。しかし百合にとってのそれは、また別の恐怖にも繋がっていた。
(私は、鬼狩りだ……鬼狩り、なのに……まだ、何も証明できていないっ……)
どこからか少女の想いを嘲笑う声が聞こえてくる。
何を馬鹿な夢を見ているんだお前は。お前は違う。お前は鬼狩りなんかじゃない。お前は——
「ち、がぅ……私はっ——」
しかし悲痛な彼女の叫びは形を成す前に霧消する。
立ち上がることもままならず、声を上げることすら適わない絶望的な状況の中、百合は涙で滲む視界に飛び散る赤を見た。
全身を濡らすドロリとした熱い血潮の感触。その沸騰しそうなほどの熱とは裏腹に、魂の芯から凍えるほど冷たい死の気配を克明に感じながら、少女の意識は深い暗黒へと向かい、落ちていく……。
◇
「——あー……くそ、やっぱ駄目かぁ」
意識が闇へと堕ちるその寸前、頭上から降ってきた妙に気怠げな声を聞き、百合はかろうじて踏み止まった。
閉じていた瞼をそっと開けると、そこには——
「おい。眠っちまうには……まだ早いんじゃないのか?」
息がかかるほどの至近距離。視界いっぱいに映るのは、血に染まり、苦しそうに表情を歪める眼帯の青年の端正な顔。
突然のことに何が何だかわからず戸惑いを覚える百合だったが、すぐに事の真実に気付く。
「ぁ……こ、れ」
百合の身体を頭から濡らしていた熱く滾った大量の血液。それは自らの負傷から流した血などではなく……鬼の豪爪が振り下ろされる直前、青年が少女の身体に覆い被さるように庇った結果なのだということに。
「な、んで……」
感謝より、謝罪より、何より先にそんな疑問が口をついてしまったことに、百合はどうしようもなく自分を恥じた。
しかし、それでも気になってしまったのだ。何故、出会って間もない自分を……身を挺してまで。
そんな風にまるで理解できないといった表情を浮かべる百合を前に、覇切は渋面から無理やり苦笑を作って安心させるように囁きかける。
「何故って……お前もわかんないやつだな。それとも……ごほっ、わざとか? 恥ずかしいんだから何度も口にさせるな」
そう言って、再び爪を振り下ろさんと腕を掲げる業魔に相対する覇切。
その背は大きく縦に裂けており、あまりに生々しい傷痕を前にさっと血の気が引いてしまう。
「ぐっ! お、おぉっ……!」
そして二度三度と、叩きつけるように振るわれる業魔の爪を手にした太刀で受け続ける覇切。一撃を受け止めるごとに衝撃の余波で身が裂け、受けた重さで傷口から血が噴き出す。
「おい……仕方ないからもう一回だけ、言うぞっ……よく、聞いとけよ」
彼の魂が、これ以上になく激しい輝きを見せていることを感じる。命を燃やす戦火が、その大熱を以て彼の魂を限界まで燃え上がらせている。
「俺は……失いたく、ないんだよ! もう何も、失くしたくない……見ていることしかできない自分なんてウンザリなんだ……だからっ……戦う! 他でもない俺自身が、守りたいと決めたものをっ……守るために!」
宣言と同時、これまでの打ち合いの中でもひと際大きな轟音が響く。ぶしっ、という飛沫の音と共に、大量の血が覇切の全身から迸った。
「はぁ、はぁ……例え命を、削ってでも……っ!」
そして息も絶え絶えの状態から再びの合技。体力の限界を超えて放たれた一撃は、業魔の身体を大きく後方へ吹き飛ばしはしたものの、しかし負傷は一切与えられていない。
「ぜぇ、っ……はぁ、お前見てると、思い出すんだよ……危なっかしくて見てられなかった、人に心配ばっかりかけてたけど……それよりずっと、ずっと楽しい気持ちをくれた、幸せな時間をくれた奴のことを……だから」
「あ……」
ぽんと、百合の頭に置かれる大きな手。血と泥で汚れていることなど気にならないくらい、優しさに満ちたその手の平に一瞬だけ腕の痛みが和らいだ気がした。
「守らせてくれよ……大丈夫さ。何があっても、絶対に——」
覇切の手の平が離れていく。そのことに一抹の寂しさを覚えながら、百合は腕の痛みで朦朧とする意識の中、彼の雄々しい背中を見据える。
「——敗けないから」
瞬間、まるで夜明けの太陽の光を全身に浴びたかのような暖かな感覚に包まれた。周囲一帯がぼんやりと光っているように見えるのは錯覚か、それとも——
「悪いな、驕ってたよ。自分の実力を。素の状態でどこまでやれるか試したかったけど、やっぱりこいつを使わないと話にならないみたいだ」
空を舞う光の粒子が渦となり、覇切の身体に帯びていく。そして——
「二元太極——金烏神陽陣」
その身に光を纏い、地を踏み砕く勢いで業魔に向かって吶喊した。
「■■——」
一瞬前に自分を吹き飛ばした人間が、次いで真正面から飛び出してくる光景を前に、業魔はその動きを咄嗟に止める。
それもそのはず、先ほどまで一方的にやられっぱなしだった獲物が、今度は満身創痍のままに突如攻めに転じてきたのだ。
流した血の量からは考えられないほどの速度で突っ込んできたことには虚を突かれたが、とは言え業魔の行動は冷静そのものだった。
無闇に誘い出されるような愚は侵さず、再び角の陰りを増すと、新たな分身をその場に生み出していく。
この業魔の分身の厄介なところは、偽物でありながら、本物同様実体があるということだ。
故に影分身というよりかは、増殖と言った方が適切かもしれない。すなわちそれは同等の力量を持つ業魔が今この場に二体存在しているということ。
それ以上の数を生み出せるのかは不明だが、かなり警戒しているだろう。真っ直ぐに突進してくる覇切に対し一体だけ分身を差し向けた業魔の本体は、挟撃してくるわけでもなく、後ろへ下がって様子を見ている。
だがその姿を目にした覇切は、つい口元に笑みを浮かべてしまった。
「見かけによらず慎重な性格か? だけどな、さっきまでやりたい放題散々痛めつけてた相手にその様じゃあ……ただの臆病ものにしか見えないぞ」
言いながらさらにもう一段階速度を上げる。そして——
「蟒蛇神道流——散華皎斑」
一瞬で業魔の懐まで肉薄した覇切は、駆け抜ける勢いのまますれ違いざまに三度剣を振るう。
瞠目に値する剣速ではあったが、先ほどまでのことを考えれば命中したとしてまず通らない斬撃。
しかし次の瞬間、その場に置き去りにされた業魔の分身の首が、胴が、脚が、綺麗に三分割され、声を上げる間もなく崩れ去る。
「い、まのは……」
そのあり得ない光景を前に百合は瞠目し、後方に控えていた業魔の本体はざわりと全身の毛を逆立たせた。
重ねて言うが、あの業魔の分身は本体と同等の力を備えている同一体だ。
容易に斃せる相手ではないし、そもそもの話、先ほどまで全くと言っていいほど攻撃が利いていなかったのだ。今まで覇切が手を抜いていたとも考えにくいし、手を抜く理由も存在しない。
ならば何故と、百合の頭の中を疑問符が埋め尽くしていたが、実のところその答えは彼の技を見た瞬間からとっくに出ていた。
ただ、その答えがあまりに荒唐無稽で無茶苦茶な話であったために百合自身が信じられていなかったというだけの話なのだが……。
「はああぁぁああっ!」
そうこうしている内に、事態はさらなる佳境を迎える。まるで人が変わったかのような攻めを見せる覇切を相手に、ついに本領発揮となった業魔がさらに分身を増やし、大立ち回りが始まっていた。
しかし膨大な数で押す業魔を相手に覇切はいずれも一太刀、もしくは数度の太刀筋の元、次々と斬り伏せていく。
その圧倒的すぎる光景を前に、百合は先ほど脳裏を過ったあり得ない仮定を確信のものとせざるを得なくなってしまった。
(あれは、合技だ……それもただの合技じゃない。一切の隙を作らず、間髪入れずに続けて繰り出す連続合技)
合技とは、どれもが必殺の威力を持つ鬼剋士にとっての切り札である高等技術だ。当然威力も通常の万象術とは比較にならないほど高出力となるが、それはその分発動が困難だということ。
要するに、必殺技、奥義の類だ。
必然放つ前にはそれなりの溜めが必要となり、それが大きな隙となる。
まして今の覇切が繰り出している合技は二連続、三連続どころではない。放つ剣技、その総てが合技による必殺剣。こうまで連続で出すことなどまず不可能だし、仮にできたとしても、そもそも使用する神威の量が桁違いなので、そんなことをしたら術者の神威が一気に枯渇してしまう。
故にその二点。百合が気になった不可解な点だったが、それらの理由はすぐに判明することとなる。
(あの光の粒子……)
先ほどから覇切の全身に集束するように纏いついているそれらは恐らく……神威だ。それも目視できるまでに超高濃度化されたもの。
当然自然現象では、まず有り得ない。その不可能を可能とする不条理の正体は、百合には馴染みのありすぎる一つの技能。
「覇之象……環境、支配」
それは自分の得意とする五行万象術の一つ。自らの属性神威を周囲に放出し、それを介して場の環境を支配する鬼剋士特有の特殊技能だ。覇切にとってのそれ……突出した技能がなく、木火土金水のどの属性にも適性がない体質がもたらした一つの奇跡。そこから発現した彼固有の属性神威は、言うなれば『陽属性』。
陰陽術に通ずる陽の側面とは、融合や同化、集束を司っている。よって生まれた環境支配の効果は、一帯に漂う神威の収斂による増幅。
鬼剋士は自らの身体機能として神威を生成できるが、実際には微々たるもので、運用している神威の殆どは外界から吸収することで補っている。
要するに、鬼剋士は通常であれば一ずつ別個に存在している神威を吸収し自らの属性神威として使用しているのだが、覇切は一の神威同士を融け合わせ、十や二十に超高濃度化したそれらを一気に集束させることで、神威の吸収効率を爆発的に上昇させている。
故に連発がほぼ不可能である合技も、その原則を打ち壊し、周辺の神威が枯渇するまで半永久的に使用し続けることが可能というわけである。
恐らく防御、回復の合技も並行して使用しているのだろう。剣を振るう度に血飛沫さえ舞っているものの、その身体に負った怪我はすでに半分以上癒えているようだ。
「そろそろ終いだ。俺も少し疲れた……お前もいい加減、しんどいだろ?」
ざっと二十体ほどの業魔の分身を屠った覇切が、最後に残った本体へと刃を突きつける。
先ほどとは立場が逆転。限界を超えた能力の使用に疲弊しふらつく業魔と、重傷を負っているものの窮地から這い上がり逆に敵手を追い詰めてみせた覇切。
ここに勝敗は決していた。
文字通り命懸けの大勝負。その勝利の確信と共に、覇切はこの戦いに幕を引くため左手で握った太刀を上段に掲げる。
——が、
「■■■——————ッ!!」
追い詰められた業魔がここに来てひと際大きな咆哮を上げると、突然覇切に背を向け駆け出した。
「何を——っ!?」
予想外の逃走に不意を突かれた覇切だったが、業魔の行く先に視線をやった瞬間その背に戦慄が走る。
業魔の向かうその先、そこにはいまだ動くことができずへたり込んだままの百合の姿。
「ちっ……!」
舌打ちと共に地を蹴り、飛び出す。迂闊だったと自らを叱責するもすでに遅い。
(この距離だと、ギリギリか——!?)
合技を使用し、なお際どい距離感に焦燥を覚えるが、躊躇している時間はない。形振り構わず疾駆する覇切だったが、その時自らの視線上にいる百合の挙動が何やらおかしいことに気が付いた。
このままでは死ぬかもしれない窮地。焦りを覚えるのは当然のことだろうが、あれは……こちらに呼びかけている?
(何だ……? き、て……?)
——来ては駄目です!
「——っ!?」
と、覇切が彼女の言わんとしている警告を察したのとほぼ同時、前方を走っていた業魔が突然くるりと後ろを振り返った。
「■■■■——ッ!!」
振り向きざまに交叉法で放たれる業魔の爪撃。恐らくは最初からこれが狙い。
先ほど覇切が百合を庇った行動を基に分析し、学習した結果実行された戦術。矛先を百合に替えれば必ず追ってくるだろうという確信があったのだろう。
両者が激突する絶妙な瞬間を狙った一撃は、一切の躊躇いもなく覇切の右腕をもぎ取らんと苛烈に迫る。
「——……」
実のところ、この時覇切には現況を切り抜けるための手段として二つの選択肢があった。一つは単純に、迫る業魔の腕と自らの間に得物を挟んで盾にし、受け止める防御行動。もう一つはその発展型で、攻撃を受けた衝撃の反動で回避を図ること。
どちらも一か八かのかなり際どいところではあったが、決して不可能ではない、そんな選択。
——しかし、覇切が選んだ選択肢はそのどちらもでなかった。
「何を……!?」
百合の驚愕する声が響く。
そう、覇切が取った行動とは、防御でも回避でも、そのどちらでもなく……吶喊。
すなわち、先ほどまでと全く同じ。提示された選択肢を捨てるという覇切の選択に百合は正気を疑うが、当の覇切はひと欠片の恐怖も見せずに、業魔へと向かってさらに一歩を踏み込む。
「くれてやるよ、腕の一本でよければな。その代わり——|《代金》だけはきっちり払ってってもらうぞ」
ここで悠長に防御や回避をしていたら、その隙に今度こそ業魔は百合へと向かっていく。そうなってしまったら今度こそ間に合わない。
そう考えれば、選択肢は一つしかなかった。
「行くぞ……!」
覚悟と共に、ここにきてひと際輝きを見せる覇切の神威。
業魔と差し違える覚悟の下、最大級の合技を放つため、覇切が構えを取った。
「蟒蛇神道流、秘剣之壱——」
迫る業魔の巨腕。放たれんとする覇切の合技。
二つの力がその場に交叉し、そして——
「天乾一刀——難陀扇刃葬」
すれ違いざま紡いだ言の葉と同時、業魔の両肩から十字となるように斬閃が走った。
傷口から溢れる光の奔流に、業魔の身体もまた分解されるように光となって拡散していく。
「■、■■……■——」
呻きを漏らす業魔が、徐々にその姿を消滅させていく。
まるで魂が溢れ出すようなその光景は、醜悪な業魔に対して美しく。葬送されたその跡には、赤く輝く魂魄のみが遺されていた。
「あいつのおかげで、腕一本儲けたか……」
そう零した覇切の右腕はいまだ健在だった。あの時業魔の爪が二の腕を貫こうとしたその瞬間、微かな氷が砕けるような音と同時に一瞬だけ業魔の動きが鈍ったのだ。
恐らく百合の環境支配だろう。自分も余裕のない状態だったというのに……あとでお礼を言わなくてはと、覇切は百合の元へと近づいていく。
(本、当に……斃した……覇切さん、一人で)
そして今度こそ勝敗が決したその光景を前に、百合は安堵と戸惑いと驚きと、その他様々な思いを抱えていた。
自分が咄嗟に覇之象を行使したことで結果的に無事だったものの、あのままいけば確実に覇切の右腕は失われていた。
(それなのに、彼は一切の迷いなく……)
命を削ると言った覇切。自分への復讐のために命を磨り潰すのも惜しまないと自分に告げた彼のことを、何故だかもっと知りたいと思ってしまった。
彼の魂の原動力。その根本にあるものは一体何なのか。自分を見ていると思い出すと言っていた人物は誰なのか。色々と気になることは山ほどあったが、今はもう何も考えることができそうになかった。
朦朧とする視界の中、業魔を斃した覇切がこちらに向かって駆けてくる姿が見えた。
その姿に安心感を覚えた百合は、かろうじて保たれていた意識の糸を手放す。
意識が暗くなる直前、耳に届いたのは試験終了を告げる兎和子の拡声術の声とこちらの身を案じる覇切の声。
そっと抱き上げられる心地よい感覚を胸に、百合の意識は暗闇へと沈んでいった。
これにて試験編終了! 編と呼べるほど長くはなかったのですが……次回からメインキャラがどっと増えますので明日1/22の更新をお待ち下さい。
ちなみにグロリアスマーチの方も第二部の形が決まってきましたので、またそのうち更新を再開します。まだお読みで無い方はこちらからどうぞ! ⇒http://ncode.syosetu.com/n8030ds/
今回も読んでいただきありがとうございました!