第二幕 黒百合ノ氷花
どもです。昨日に引き続きまして第二幕です。最近特にこの前書きで語ることもなくなってきたのですが……本編を楽しんでいただければそれで幸いです! それでは宜しくお願いしますm(_ _)m
『戦う意思有りと、そう判断してよろしいのかしらぁ?』
しばしの静寂の後、学園長の声が場に響き、覇切と見つめ合う形になっていた少女はハッとした様子で壇上を振り返る。
問いかけた兎和子は何が嬉しいのか、ニコニコとした顔で少女を眺めていたが、少女はキッと兎和子を見返したかと思えば、美しい黒髪を靡かせながらその身を翻す。
つかつかと歩いていく先には、身体を半分に両断された鬼の亡骸。
総ての鬼がそうであるように、絶命した鬼がその肉体を砂へと変化させていく。そうして最後には不気味に輝く赤い玉石——鬼の魂魄のみがその場に残された。
拳ほどの大きさのそれをそっと拾い上げると、少女は再び睨みつけるように壇上を振り返る。
「鬼は殺す。それが私たち鬼狩りが鬼狩りたる存在理由のはずです。そこに意思や決意がどうのと余計な意味を挟むなんて莫迦らしい」
吐き捨てるように告げられた少女の言葉は、先の兎和子の言葉を全面否定するようなものだったが、言われた本人は柳に風の様子で笑みを絶やさない。
『それでは、あなたは自らの存在証明のためだけに鬼を殺すと、そう言うのですかぁ?』
「ご想像にお任せしますよ。ここでこれ以上あなたと無駄な問答を繰り返すつもりはありませんので」
それだけ告げて話は終わりとでも言うように、兎和子に背を向ける少女。
「——私が鬼狩りであるそのために、鬼を殺す。ただそれだけのことです」
そう最後に零した言葉は一体誰に向けてのものだったのか。
余りにか細い呟きだったので、恐らく誰にともなく呟いたものだったのだろうが、すぐ近くで偶然にも聞いてしまった覇切には、妙な含みがあるように思えてならなかった。
「……」
そうして黒髪の少女が立ち去った後、再び講堂に訪れる静寂。
しばしの間、皆呆然と少女が立ち去った方向を見つめていたが、しかしその静寂はそれほど間を置かずに破られることとなる。
「お、俺も行くぞぉっ!」「私も! やってやるわ!」「ふざけんな、試験に合格するのは俺だっ!」
どこからか、自らを奮い立たせるような震え混じりの声が聞こえたかと思えば、それを契機にぽつぽつと講堂内の各所で同じような声が上がる。
そしてその熱はあっという間に伝播し、瞬く間に講堂中が喊声で溢れ返ってしまった。
「……凄いわね、あの子」
皆が一様に武器を手に取り次々と講堂内から飛び出していく中、いつの間に傍にやってきていたのか、しゃがみ込む覇切の横に佇んでいた赤毛の少女がぽつりと言葉を漏らす。
「先陣切って業魔を斃したことで、後ろ向きに沈んでいく一方だったみんなの士気を逆に一気に上昇させた」
「ああ。ただ本人は意図してやったわけじゃないだろ。あれはどう見ても進んで引っ張っていく柄じゃない」
意識無意識に拘らず、周りを巻き込み変化させることができる者はある種の先導者の才能があるが、彼女の場合は、先頭に立って集団を先へ導くというよりかは、集団の一部として背中を見せて全体の士気を上げる気質だろう。
(けど、何か気になる……)
そう思い、先ほどの少女のことを頭に思い浮かべる。確かに並外れて整った容姿の持ち主だったが、別に一目惚れというわけではないだろう。
ただどこかしら違和感というか、彼女の立ち居振る舞いにちぐはぐとした据わりの悪さを覚えたのだ。
そのことが妙に気にかかり顎に手をやろうとしたところで——
「あ……すまん」
自分がいまだ先ほど庇った女学生を抱き締めたままだったことにようやく気が付いた。
「立てるか? あまり考えてる余裕がなかった。思い切り突き飛ばしちまったけど……」
考え事については一旦置いておき、そっと身を離すと、その場にぺたんと座り込む少女に手を差し出す。
「……ん」
そうして差し出された手を取り、立ち上がった少女。先ほどは庇うことに必死過ぎて気が付かなかったが、こうして改めて向き直ってみると、中々に可愛らしい容姿の持ち主だった。
「へーき、です。ありがと」
亜麻色で緩く癖のかかった双房結いの髪の毛に、瑞々しく張りの良さが見て取れる健康的な肌。そのぼんやりとした雰囲気と容姿の端麗さから深窓の令嬢のような印象を受けるが、最も特徴的なのはその瞳の色だ。よく見るとその双眸は左右で異色。左の瞳は血のように赤く、右の瞳は輝く黄金色に染まっている。
「へぇ、その制服、神代白清舎? わざわざあの貴族校から一般に来るなんて一番想像しづらいけど……実は結構野心家?」
白を基調とした布地に紅の和紋の施された格式高そうな軍制服から興味を惹かれたのか、赤毛の少女がそう尋ねるが、話しかけられた本人は全く聞いていない様子できょろきょろとその場で何かを探すように首を巡らせている。
「どうした? 何かなくしたか?」
隣で「おい無視すんなコラ」とガンを飛ばしている赤毛の少女を宥めつつ覇切が尋ねてみると、少しだけ困ったような顔で見上げてくる少女。
「傘……」
「え?」
「傘、どっかにいっちゃった。赤いの」
赤い傘?
言われて記憶を手繰り寄せてみれば、確かにぶつかる直前、少女の手にはそんなものが握られていたような気もする。
その場でぐるりと首を巡らせてみると、次々と講堂から飛び出していく群衆の足元に転がる赤い棒状の物体が見えた。
「これか?」
「あ、そうそれ」
ひとっ走り拾って帰ってくると、嬉しそうな顔で小走りに駆けよってくる少女。
よほど大事なものだったのだろう。渡された赤い番傘を腕いっぱいにぎゅっと抱きしめる。
「おにーさん、ありがと」
「どういたしまして、だな」
ふにゃりと笑いながらお礼を言う少女に愛らしさを覚えた覇切は、思わずその頭に手を伸ばす。
「わっ……えへへ」
少女は一瞬だけびっくりした声を上げるが、すぐに嬉しそうに表情を弛緩させると、されるがままに撫でられる。
普段なら絶対にこんなことはしない覇切だったが、目の前の少女には何故か甘やかしたくなる庇護欲的なものを覚えてしまった。
そんな風にフワフワとした髪の感触を楽しみつつほっこりしていると、すぐ隣から赤毛の少女の含みを感じる視線が突き刺さる。
「何? あんたそういう趣味なの? キモいわね」
「おい、口を慎めよ。今の俺に邪な気持ちは一切ない」
しかしそう言い返すものの、常に無表情を貫く彼女から若干引き気味に言われるのは、地味に傷つくものがある。
名残惜しいが、最後にぽんぽんと軽く叩いてからそっと手をどけることにした。
「ぁ……終わり?」
「ああ、続きはまた今度、な」
「え……(すすっ)」
「冗談だからその無言で距離をとるのはやめてくれ」
赤毛の少女とそんなやりとりを交わしつつ、覇切は傘の少女の目線に合わせるように若干屈む。
「その、ここにいる以上こんなことを訊くのは野暮なのかもしれないけど……お前も、行くのか?」
どこへ何しにというのはそれこそ野暮な話だ。
今この場にいるということは、少女もまた鬼剋士であることは間違いなく、これから命懸けの試験に身を投じるつもりでいるのだろう。
しかしどうにも覇切は彼女のことが心配だった。彼女からしてみれば余計なお世話なのかもしれないが、やはり先ほど鬼を前に一歩も動けずにいたあの光景が頭から離れない。
故に少女の人一倍華奢な身体つきも相まって、ついつい保護者面で口出ししてしまった覇切だったのだが——
「梗」
「え?」
「梗は、梗、です。榛梗。『お前』じゃない、よ?」
「ああ。名前か……」
突然の自己紹介に、一瞬彼女が何を言っているのか理解できなかった。
しかし名乗られた以上はこちらも名乗り返すのが礼儀だろう。
「俺は——」
「大丈夫、です」
「え、は?」
そうして名乗ろうとしたところで再び理解不能な発言。いや言葉自体は理解できるが、前後の関係が支離滅裂すぎて何が言いたいのかわからない。
思わず間抜けな声を出してしまっていると、梗はとんっと軽く跳ぶように一歩を踏み出していた。
「大丈夫、です。梗、鬼————好きだから」
喧噪の中、最後にそう言い残して、梗は講堂をとたとたとした歩調で出て行ってしまった。あの小さな身体は一瞬で見えなくなる。
(鬼が……好き? いや、その間に何か言っていたような……)
少女の言葉を反芻し、奇妙な違和感を覚える。
もしかして自分は何か盛大な勘違いをしていたのではないかと、そんな言いしれぬ感覚に引っかかりを覚えていると、
「余計な心配するなってことじゃないの?」
そう答えたのは赤毛の少女だった。
「さっきの黒髪の子にしろ、あの梗って子にしろちっちゃくて頼りなさそうなナリだったけど鬼狩りでしょ? だったら、自分の身くらい自分で守れるでしょ」
鬼剋士は融魂施術で得た超常の力で身体能力を底上げしているため、体格の大小や男女の差異から実力を計ることは無意味だ。
この世の常識から外れた不条理な力を、条理で説こうとする事自体が間違いであることは覇切も当然わかってはいるのだが……。
「それともやっぱりあんた、ああいう小さい子が趣味なわけ?」
「お前もしつこい奴だな……大体あいつらどっちもそこまでガキっぽい見た目じゃなかったはずだけど」
「単純な大きさの話よ。どっちもおチビちゃんだったじゃない?」
そう言って手の平を下に向けた身振りで、先の二人の身長を示す赤毛の少女。
その様子に付き合いきれないと、肩を竦める覇切だったのだが——
「……妹が、いたんだ。生きてれば今頃ちょうどあのくらいになってたのかなって、そんな風に思っただけだ」
「……そう」
思わずそんなことを言ってしまったのは、この話題をさっさと終わらせたかったからなのか、赤毛の少女の話しやすい雰囲気がそうさせたからなのか。
それはわからなかったが、赤毛の少女がこれ以上その話題を引っ張ることはなかった。
「さてと、それじゃあたしもそろそろ行くかな」
そう言って一つ伸びをすると、外套を翻し、軍帽を被り直す。
「学園長の話で競争相手が一遍に減りそうだったから儲けって思ってたけど……あの黒いののおかげで多少は頑張る必要が出てきちゃったし……はぁ、めんどくさ」
しかしため息を吐く彼女の様子に、覇切はふっと笑ってみせた。
「よく言うな」
「え?」
と、予想外の返しだったのか虚を突かれたような表情を見せる少女に、にやりとしてみせる覇切。
「やる気満々って面だぞ。お前、表情を隠すのは上手いみたいだけど感情を隠すのは苦手みたいだな」
先ほどまでほんの一瞬たりとも無表情を崩さなかった少女のきょとんとした顔が面白く、つい得意げになって話してしまう。
「……って、どうした?」
しかしそこでまじまじと顔を見つめられていることに気が付く。怒ったのかとも思ったが、少女は訊き返した覇切の言葉に首を振る。
「……ううん、何でも。ただ、そんなこと言われたの初めてだったから、意外だっただけ」
そうしてふいと視線を外し、自分の頬をむにむにと両手で摘み首を傾げる少女。
「今度こそ、もう行くわ。これ以上他の奴らに先越されたらたまらないし。あんたもやる気なら急いだ方がいいんじゃないの?」
そう言い残し、覇切に背を向け歩き出す少女。
そのまま彼女を見送る形になった覇切だったが、不意に少女が立ち止まると何か思い直した様子でくるりと後ろを振り返る。
「紅真秋桜」
「ん?」
「あたしの名前。無事に試験通ったらよろしく」
そう片手を上げる少女の言葉に、そう言えばお互いまだ名乗っていなかったことに気が付く。
と言うより、覇切が意識的にそういう状況になることを避けていたのだ。
しかし赤毛の少女改め、秋桜は恐らく覇切の言葉を待っているのだろう。こちらをじっと見つめたまま立ち去る様子はない。
梗の時もそうだったが、正直、自分の名前はあまり口にはしたくなかったのだが……。
「……東雲。東雲覇切だ」
「東雲、って……もしかしてあんた荒夜叉の血縁? 第二次大東征英雄の……」
「血縁ってわけじゃないが、東雲涅々は俺の義理の姉だ」
「へぇ……」
覇切の言葉に一層興味深そうに頷いてみせた後、秋桜は自らの腰の刀に手をかけると勢いよくそれを抜き放った。
「そんじゃね覇切。あと、さっき梗を庇ったあれ……それなりに恰好良かったわよ。やるじゃん」
そうして刀身が鞘から抜き放たれたと同時、その手に握られていたのは一振りの刀ではなく、彼女の身の丈ほどはある巨大で無骨な鉄の刃だった。
——神器。鬼の魂魄を核に、陰陽術を用いて特殊鍛造された鬼剋士専用の武具だ。秋桜のそれは通常時は刀の姿で鞘に収納されているが、ひと度抜けば、その全長が柄の部分を含め身長の倍近くはある大槍剣へと成り替わる特殊兵装のようだ。
その巨大な武器を片手で軽々と持ち上げ肩に掛けた秋桜は、今度こそ講堂を後にし……気付けば覇切は講堂内に一人になっていた。
誰もいなくなった講堂に一人佇む。
「……」
「——あなたは、行かないのかしらぁ?」
と、後ろからかけられた声に振り返ってみれば、いつの間に近づいてきたのか、すぐ何歩か後ろでこちらを眺めている兎和子の姿が目に入った。さすがにもう拡声術は使用していない。
「別に逃げ出すことは恥ずかしいことじゃありませんよぉ。私が言うのもなんですが、何もわざわざ命の危険を冒してまでこんな試験を受ける必要はないのです。時期的にも難しいかもしれませんが、ここ以外にも募集を募っている鬼剋舎はありますし、そもそもあなた自身が鬼狩りとして戦場に身を置く必要がありますかぁ?」
「鬼狩りは神州で今一番稼げる仕事だ。それだけでもやっていく価値は十分にあると思うけど」
「でも、貴方は違うでしょう? 貴方はお金が欲しくて鬼狩りになったわけではない。違いますかぁ?」
知った風な口を、と思ったが、言い返せない妙な説得力が兎和子の言葉からは滲み出ていた。
「まぁ、人によっては自らの手で鬼を殺したいと望む人もいるでしょう。家族や恋人の仇を取りたいという話はこの国ではよく聞く類のものです。でも、貴方は違う。貴方の魂は鬼の根絶を望んでいますが、それを成し遂げるのは自分でなくてもいいし、極論、自然淘汰でも構わない」
要は鬼さえいなくなればそれでいい。
そう突きつけられた覇切は何も言い返すことができなかった。
何故なら兎和子の話は総て、覇切の本心と殆ど相違ない事実でしかなかったのだから。
「別によいではありませんか。きっと貴方以外の他の誰かが鬼を殺してくれます。そしてあなたはその結果にきっと満足するのでしょう。そうではなくて?」
その言葉に自然、自嘲の笑みが口元に浮かんだ。
確かにその通りだ。別に自分の手で鬼を殺そうが、そうなるまいがどうだっていい。
鬼剋士という職に憧れも覚えていなかったし、実際に超常の力を手にした今も誇りや矜持など持っちゃいない。究極的には鬼の行く末自体どうでもいいのかもしれない。
では何故戦おうとするのか?
そう改めて自らに問うた時、心の奥底に燻る何かの存在を感じた。
「……殺してやりたい奴がいるんだ」
先ほど感じた燻りが徐々に熱を帯び広がっていく。
「馬鹿で間抜けでどこまでも愚かで……弱い奴だ。自分からは何もしようとせずにのうのうと生きて、自分以外の誰かが成し遂げてくれることしか期待しない。それでいざとなったら責任だけを押し付け被害者面。反吐が出るだろ? そんな奴」
心に灯った炎に宿るのは嚇怒か怨念か。いずれにせよ、覇切の胸中に渦巻く総ての感情を燃料に食い散らかした炎塊は、瞬く間にその心の内に燃え上がっていく。
「俺がやらずとも他の誰かがやってくれる? 冗談だろ」
吐き捨てるように言いながら、踵を返して出口へ向かう。
「自分のことを誰かに責任押し付けてどうする? 守りたいものがあるなら、失いたくないことがあるなら、自分自身で守り抜くしかない。だから俺は、全身全霊懸けて戦うことに決めた。他でもない俺自身が、守りたいものを守るために」
決意を込めた宣誓は、誰に対するものでもない。
他ならぬ己自身の魂の戦火を絶やさぬように、贖えない罪過の炎を忘れぬように、命の薪をくべ続けるのだ。
「やはり、貴方は良い眼をしていますね。地獄を知り、己の醜さ、弱さを知り……知った上で、強くあろうとする。学園長として贔屓はよくないことかと思いますが、貴方の魂には……期待していますよ」
背後からどこか熱っぽい視線を感じつつ、振り返ることなく出口へ向かう。
眼帯に覆われた右眼が疼く。
焼けるような痛みに決して忘れることのない、忘れるつもりもない記憶を思い出しながら、覇切もまた他の学生たちと同じように己の魂を懸ける戦いに、その一歩を踏み出した。
◇
空を斬り裂き、走る剣閃。
そのあまりに流麗すぎる太刀筋は、見る者がいれば思わず魅入ってしまうであろうほど美しかった。
「——!」
稲妻のように閃く超高速の刺突。己の進路上に存在する総てを根こそぎ屠るとでも言わんばかりの殺気と共に放たれた一撃は、僅かな歪みもない直線軌道を描いて標的の喉を貫いた。
「■■■■————ッ!」
悍ましさを覚えるほどの醜悪な絶叫がその場に響き渡る。
自らの喉元を苦渋の声と共に押さえつけ、一歩二歩と後退するのは、ドロドロと腐り爛れたようにどす黒い体表面を持つ鬼——神州鬼討滅規定、序列最下級、餓鬼だ。
まるで泥人形のような見た目が特徴的な、神州で最も多く数を確認されている鬼で、その形状もまた最多を誇っている。
そしてその鬼を前に塵ほどの恐怖心も見せずに相対する人物は美しい黒髪に同色の瞳を持つ——先ほど講堂で兎和子を相手に啖呵を切っていた黒髪の少女だった。
「■■——」
「……っ」
後ずさる鬼の命乞いともとれる呻き声を華麗に無視して、突き刺さったままの刃を無感情に横薙ぎに払う。
ごとりと地面に落ちた鬼の首は、見る見る内に砂と化していくが、その完全な消滅を前に少女の背後から新たに四足獣のような形をした餓鬼が、鋭い牙を剥いて飛びかかってきていた。
普通の人間ならば絶対に回避できないであろうそんな絶妙な瞬間。
しかし少女は背後を振り返ることなく、刀を逆手に持ち替えると、自ら切っ先に飛び込んできた鬼を串刺しに、さらに真っ二つに両断する。
通常では有り得ない剣速に反応精度。
五行万象術——鬼剋士が融魂施術により体得した身体強化技術の名称だ。鬼剋士は大気中の神威という不可視の元素をその身に取り込み自らの身体に適合させることで、より高度な域での身体強化を実現させている。
つまり少女の膂力も身のこなしもその総てが普通の人間と一線を画しているのは、この技能があってこそのものなのだが、中でも彼女の敏捷性は魔性の域に達していた。
「ふっ……はぁッ!」
五行万象——迅之象。万象術十種の身体強化の内の一つで速度、敏捷性を司る技能だ。
その早業はまさに電光石火。
続いてさらに三体の餓鬼が少女に襲いかかってくるも、いずれもその音速を超えた神速の剣技で瞬く間に葬り去ってしまった。
「っ……浅い」
しかしそれは些か早計だったらしい。三体の内の一体は、残りの二体よりも身体が大きく頑強だったのか傷が浅く、その巨体の割にやけに俊敏な身のこなしで少女から大きく距離を取ってしまう。
恐らく逃げるつもりなのだろう。比較的知能の低い餓鬼にしては賢明な判断だと評したいところだったが、黒髪の少女に獲物を逃がすつもりなど毛頭ない。
講堂内での戦闘に続き、ここにきて再び訪れるぱきんという空間にひびが入ったような、冷ややかな音。
辺り一帯に魂まで凍てつく冷気が広がり、絶対零度の魔手が敗走に背を向ける鬼の首筋を捉えた。
「絶氷陣、雪霞——闇夜蟷螂」
流れる時間ごと凍り付いてしまったかのようにその動きを停止させる鬼。地を這う冷気がその場の総てを氷点下の世界へ変貌させた。
五行万象——覇之象。万象術の一つで、空気中に漂う神威に自らの纏う属性神威を結合させることで、その支配域を拡大させ、場の環境を統制下に置く高等技能だ。鬼剋士の間では『環境支配』という通称で通っている。
鬼剋士個人個人は、それぞれ木火土金水のどれかに対応した属性神威というものをその身に有しており、少女の場合は水だ。
故にこの場はすでに彼女の領域。
今や時の停止した白銀の世界で、神速の死神が悠々鎌を振りかざす。
「——……」
そして直後に響いた納刀音と同時、綺麗に五つに裂断された鬼の五体が、その地に落下するより先に跡形もなく砂へと化した。
「…………はぁ〜」
そうして総ての鬼を斬殺し終えたことを確認した少女は大きく一つ息を吐く。そのまま傍にあった木に背を預け、ずるずるとしゃがみ込んでしまった。
あれだけの数の鬼を相手に平然と立ち回っていたように見えたが、決して余裕の一戦ではなかったらしい。
外傷はないように見えるが古傷なのだろうか、指先から一切の肌の露出なく、徹底的にぐるぐると包帯で巻かれた右腕を反対側の手で押さえつけながら、荒い息を吐いている。
「はぁ、はぁ……ふぅ」
「——お疲れだな」
「——ッ」
息を吐き、呼吸を落ち着けているところで、背後から突然かけられた声に反射的に反応する。
ほぼ無意識に腰の刀を抜き、振り向きざまに鋭い刺突を繰り出す——が、直前で闖入者が鬼でないことに気が付いたのだろう。
寸でのところで急停止をかけることに成功し、その切っ先は相手の喉元すれすれの場所に突き付けられる形で止まっていた。
「……殺す気かよ」
両手を上げて冷や汗気味に悪態を吐いたのは、少女にとっては二度目の邂逅である眼帯の青年——東雲覇切の姿だった。
「あなたは……何の用ですか?」
その姿を見留め、驚いたように目を見開いた少女だったが、すぐに一瞬前の警戒心たっぷりの——あの斬気の籠もった鋭い視線に戻ってしまう。
「随分なご挨拶だな。俺、お前に殺されかけたんだけど」
「こんな戦場の——それも死角の多い森の中で人の背後から急に現れる方が悪いんですよ……まぁ、私も早計でしたけど」
不遜な物言いをしたかと思えば、最後にはばつが悪そうに小声でそう付け足す。
そして少女がかざした刃をそっと下ろしたことを確認した覇切は、改めて周囲の光景を見渡し直した。
「これ、学園長の仕業か? 得体の知れない感じだとは思ってたけど、本当に一体何者だ……? あの人」
そう言いながら覇切の視界に映り込むのは見渡す限りの木、木、木。今朝の試験開始前、講堂に向かう途中横切った千刃暁學園の営庭は今や広大な森林と化していた。
加えて言えば空間そのものも何かしらの影響下にあるのだろう。覇切はここまで来る道中、少女以外の他の鬼剋士と出会っていない。いくら敷地が広いと言っても声すら聞こえないのは異常な事態だ。
空間ごと歪めているのか、敷地面積自体を拡大しているのか……。
「何であろうと化け物ですよ。私も覇之象——環境支配にはそれなりに自信がありますけど、学園長はその辺り私より数段格上ですね。詳しい力の詳細は知りませんけど」
彼女が先ほどの戦いで見せていた氷の世界もかなりの練度で研ぎ澄まされていた絶技だった。
この場に展開された広大な樹林地帯も系統で言えばそれと同じものだが、力の規模が桁違いだ。
秋桜の話では、兎和子は朝廷陰陽寮で自らを被験体に融魂施術を完成させたという話だし、只者でないことは間違いないのかもしれない。
そんな風なことを考えていると、不意に黒髪の少女が覇切に背を向ける。
「……? 休んでたんじゃなかったのか?」
「別に、さっきは何となく座っていただけです」
「それを休んでたっていうんじゃないのか?」
「休んでません! とにかく私急いでるんで、これで失礼します」
そうして、明らかに疲労の残ったふらふらとした足取りで歩き始める少女。
どう見ても無理をしているのが丸わかりだ。
「本当に大丈夫か……?」
自分も他人からのお節介がそれほど好きな方ではないので、普段ならここで「そうかい、それじゃ御勝手に」と、良く言えば相手の意思を尊重、悪く言えば見捨てていた覇切だったが、今回の件に関しては自分が声をかけさえしていなければ、少女は変な意地を張らずにその場で休憩できていたはずなのだ。
それに今は自分の命と、千刃暁學園への入学が懸かった試験の真っ最中。もしこれが原因で少女が不合格、あまつさえ鬼に殺されでもしたら寝覚めが悪すぎる。
ならば最低限引き留める努力はすべきだろう。
そう結論づけてから、先を歩く少女を小走りに追いかけ、その背中に声をかける。
「悪かった。休憩を邪魔したなら謝る」
「何を謝られているのか皆目見当が付きません。私は別に休憩などしていませんし、疲れてもいませんのでどうぞお構いなく」
「ちょっと通りがかりついでに知った顔があったから声をかけただけなんだ。俺の方が消えるから、お前はゆっくり休んでてくれ」
「いいえ私がいなくなるので結構です。というか私は全然全く疲れていないのに、何故休むとか休まないとかそんな話をしなければならないんですか? どちらかと言えばこの一連の会話で疲労が溜まる一方なので放っておいて頂けるのが一番有り難いのですが」
矢継ぎ早に次々と言葉を畳みかけられて、あまりの拒絶っぷりに逆に感服する。
講堂にいたときも思ったが、随分ときつい性格のようである。
ここまであからさまに拒絶をされては、何を一所懸命になっているんだろうと、自分の行動を振り返って馬鹿馬鹿しくなってきた。
これ以上引き留めるのもまるで下心があるみたいで嫌なので、最後に一声かけて立ち去ろうと口を開く。
「わかったよ、それじゃ俺は——」
「っ……しつこいですよ! だから私は疲れていないと——」
しかし、覇切の言葉を勘違いしたのか、若干ムキになった少女が勢いよく後方を振り向いた。
その拍子——
「ひゃっ……」
「おっと」
やはり疲労が溜まっていたのだろう。体勢を崩した少女は覇切の胸に飛び込んでくるような形で、すっぽりと腕の中に収まってしまった。
正面から倒れてきた少女を抱き留める格好となった覇切は、少女の予想以上に小さな身体に驚いてしまう。
「……」
が、同時に一部、華奢な身体にも拘らず豊かに育った部分の柔らかさを鳩尾辺りにはっきりと感じ取ってしまい、何だか疾しいことをしているような気分になってしまった。
「い、いいいつまで触ってるんですか! 破廉恥です、よっ!」
「うわっ……と」
そんな風な悶々とした気持ちを胸中に抱えていると、まさか心を読まれたわけでもないだろうが、悪態と共に思い切り突き飛ばされてしまった。
少女の方を改めて見ると、猫のようにフゥーッと警戒心に毛を逆立たせながら覇切から距離を取っている。
「はぁ……」
その様子に思わずため息が漏れてしまう。
別段感謝されたくて身を支えたわけでもないし、一瞬でも邪な気持ちを抱いてしまったことは事実だが、こうまであからさまに拒絶をされると、こちらとしても良い気分ではいられない。
「わかったわかった。俺はもう消えるから、ここで休んでいくなり鬼を探しに行くなり好きにしてくれ。じゃあな」
自分でも声音が冷たくなった自覚はあったが、元から愛想を振り撒く方ではないし、それほどできた人間ではないことは自分自身がよく知っているので今度こそさっさとその場を去ることにする。
「——ぁ」
しかし、一歩踏み出したところで後ろからか細い声が耳に届いた。肩越しに首だけ振り返る。
見るとそこには顔を真っ赤にしながら両手で口を覆っている少女が、ぶんぶんと凄い勢いで首を横に振っているところだった。
「あ、や……ちがっ……違いますっ!」
何が違うのかわからなかったが、もう自分には関係ないだろうと判断し、軽く肩を竦めただけの覇切が再び歩き出そうとしたところで——
「あ……ちょ、ちょっと! ちょっと待って……!」
先ほどと違い、はっきりと呼び止める声が背中に投げ掛けられた。今度はしっかりと立ち止まり、後ろを振り向く。
「……くだ、さぃ」
目があった瞬間、途端に尻すぼみになっていく声。
続く言葉を待っていると、少女は何やら、あーとかうーとか、しばらくその場でまごついていたが、やがて何か言いたげに開きかけた口を苦しそうにギュッと噤むと、とうとうその場にしゃがみ込んでしまった。
その様子に一拍、二拍と考え、一つ息を吐いた覇切は、少女の隣におよそ一人分の距離を空けて腰を下ろした。
「な、何ですか……消えるんじゃなかったんですか……?」
抱えた膝に顔を埋めながら、ちらりとこちらを窺う少女。
「別に。そういえば俺も疲れたなと思ってな。隣貸してくれ」
「勝手にすればいいんじゃないですか? 別に私の土地じゃありませんし」
ふいと、今度は反対側を向きながら言う少女の様子に、何となくではあるがその本質を垣間見た気がした。
講堂で彼女が業魔を屠った時に抱いた印象は、孤高の一匹狼という風で冷たく颯爽としたものだったのだが、いざしっかり話してみれば態度がきついことに変わりはないがそれは中々懐かない野良猫のようなものだ。
「さっきの……」
「え……?」
要するに、話せば多少は分かる性質ということである。
「さっき最後の餓鬼を斃したあれ。合技、だろ?」
別にここで馴れ合っていくつもりもないが、いい加減この広大な森を歩き回るのに疲れたのは本当のことだ。退屈しのぎに話し相手になってもらうことにする。
「師匠以外であれだけ綺麗な合技は初めて見たから驚いた」
五行万象術は攻撃、防御、神威操作などの技能が、合計で十種存在する鬼狩りの身体強化術だ。
基本的には一種ずつ独立した形でしか使用できない——つまり迅之象なら速度強化、剛之象なら膂力強化に特化するのみで『速くて重い』攻撃を繰り出すことはできないが、自らの神威を緻密に操作し組み合わせることで、高度な合わせ技が可能となる。
そしてそれは単なる二種の技能の同時行使に留まらず、神威の扱いに長けた者ならば合技を扱うことで、合わせた二つの技能の力を二倍にも三倍にもして放つことができるのだ。
先の少女の技もそれに当たる。恐らくは敏捷性強化の迅之象と環境支配を司る覇之象の合技だろう。
あまりに流麗で秀逸な合技から彼女が如何に熟達した鬼剋士なのかがよくわかる。
「別に、ある程度熟練した鬼狩りなら当然やってのけますよ。合技を扱えない鬼狩りなんて三流もいいとこですからね」
覇切の素直な賞賛に淡白な調子でそう返す少女だったが、よく見ると微妙に口角が上がっている。
(……ある意味、わかりやすい性格だな)
恐らく幾らか気分が上昇傾向にあるのだろう。少女は膝を抱えていた腕を解き、若干得意げになって話している。
出会った当初のやり取りや能力が氷ということもあって冷たい印象が頭にあったが、存外感情豊かなのかもしれない。
(どちらかと言えば秋桜の方が氷っぽい感じだよな……)
と、そんな風にくだらないことを考えていたところで、少女が覇切の顔をじっと見つめていることに気が付く。
「何だ? 俺の顔に何かついてるか?」
「いえ、あの…………黒条、百合、です」
「あ? 何だ突然」
「だ、だからっ、私の名前ですよ! お互いまだ名乗っていなかったでしょう? ほら、あなたもどうぞ」
何故か踏ん反り返りながら名乗られてしまった。小柄な身長とは裏腹に大変豊かに育った二つの果実が、正直目の毒だ。
怒られる前に目を逸らして、仕方なしにこちらも名乗り返すことにする。
「…………東雲覇切」
まさかのところでぶち込まれた自己紹介に、ややウンザリした気分になる。
(今日はこんなのばっかりだな……)
やはり自分の名前をあまり口にはしたくない。他人から呼ばれるのは特に気にならないのだが……そんな風なことを考えていると、黒髪の少女——百合が覇切の名前に頷きながらも、まだ何か言いたげに、もごもごと口を動かしていることに気が付く。
「まだ何か言い足りないか? そう言えばさっきも何か言いかけてたよな。講堂でも見られてたみたいだし……言いたいことがあるなら言ってくれよ」
恐らくはそれが覇切を呼び止めた本当の理由だろう。
まさか単に自己紹介だけしたかったわけでもなし、そう思って問いただしてみれば、やはり図星だったのか、百合はばつが悪そうに視線を逸らす。
「えっと、その……バレていましたか」
「まぁ、他に理由も思い当たらないしな」
短い時間だが、彼女とのいくつかのやり取りでその性格はある程度わかったつもりでいる。
その頑なで他者を寄せ付けようとしない性格上、いくら疲れていたとしても話し相手欲しさや、まして心細いなどという理由から声をかけるなど絶対にしないはずだ。
「それで、結局何が言いたいんだ? お前——百合とは初対面のはずだけど」
「あ、はい。それはそうなんですけど……そう、ですね……」
百合が小さく深呼吸をする。
「その……どうしてなのかなって」
「どうして、って……?」
「えっと、どうして覇切、さんは鬼狩りになったのかなって、そう思って……だってあなた——」
そうして彼女の口から続けられた言葉は、覇切にとって予想外の内容であり、
「——向いてないじゃないですか。鬼狩りに」
もはや随分と聞き慣れてしまった、懐かしい言葉でもあった。
楽しんでいただけましたでしょうか? 次の第三幕で一旦区切りです。東征伝はグロリアスの方よりある意味『読みやすい』展開にはなっているかと思います。次回更新は1/21予定ですのでまたしばしお待ちください。今回も読んでいただきありがとうございました!