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神州鬼狩東征伝(休止中)  作者: 織上ワト
第一章 千ノ刃、暁ヲ照ラス
12/14

第九幕 天ヲ象ル其ノ眼 其之参 〜覇切、百合 対 鬼裡依教〜

第九幕ラストです。いよいよ真の最終決戦! 作者お気に入りの一戦ですのでどうぞお楽しみください!


神州豊葦原中国しんしゅうとよあしはらなかつくに》《鬼宿等位(きしゅくとうい)》《合技(ごうぎ)》《随神鬼(かむながら)》《季華十二鬼将(きかじゅうにきしょう)》《千刃暁學園せんじんあかつきがくえん》《穢土(えど)》《鬼裡依教(きりえきょう)


 そうして時はしばし遡る。秋桜たちが獣化前の桜華と激闘を繰り広げていたその頃、天ノ御柱前の廃墟群でもまた息をも吐かせぬ激戦が展開されていた。



「っ……はぁああっ!」

 覇切と頭巾。二人の剣士がここに雌雄を決しようと、互いの刃をぶつけ合っていた。

 今回は最初から出し惜しみ無しの全力だ。己が環境支配である金烏陽陣(きんうしんようじん)を身に纏い、白光の輝きが一帯の神威を喰らい尽くしていく。

 故に両者とも放つ剣技はその総てが合技による必殺剣。

 月光に照らされる崩壊した建造物の間を時に縫うように、時に破壊しながら、無数の剣閃が其処彼処で夜闇に火花を咲かせているが、響く剣戟はそのどれもが爆撃にも等しき轟音だ。

 およそ刃同士がぶつかり合っているとは思えない激しい大気の鳴動を轟かせながらの攻防劇は、傍から見れば互角の戦いのようにも見えるが、その実これでは前回の焼き直しも同然の展開だった。

「ちぃっ……!」

 剛と迅に乗せた合技を、砕と冴の合技で相殺され、勢いを殺されたところで頭巾の持つ得物の刀身に神威が凝縮されていく。

 返しに放たれた一撃は練と剛。攻撃力に最特化された一撃必殺の合技が、引き絞られた大弓が如く撃ち放たれた。

「ぐっ……」

 進路上に存在するもの総てを呑み込みながら迫りくる激烈な刺突。速度こそないものの、掠っただけでも重傷確定の一撃に覇切は一瞬回避を考え——

「……お、あぁああっ!」

 ——即座にその考えを打ち消し、敢えて踏み込むことを選択した。

「っ……!?」

 目深に被った頭巾の下で微かに驚嘆の声が漏れる。しかしこれは言ってしまえば支払うべき当然の対価だと覇切は考えていた。

 頭巾と自分の力量差は前回の戦いで十分に思い知らされている。桜華との対戦後で満身創痍だったということを差し引いたとしても、敗北の結果は覆らなかっただろう。

 傷は癒えたがこの短期間で自らの実力が急上昇するわけもなし。いつも通りに戦っていて勝利できる確率は皆無に等しい。

 故に、勝利するためにはある程度の危険は覚悟しなければならない。通常の安全域を保ったままで勝てるほど、いや同じの土俵に上がれるほど、この敵手は甘くないことなどとっくにわかりきっていたはずだ。

(同じじゃっ……駄目なんだ!)

 懐に潜り込もうと体勢を低くした覇切の顔面すれすれの線上を、凝縮された殺意の塊が通過していく。余波だけでも頬や肩口が裂け血が噴き出すが、その程度のことなんて気にしていられない。

 圧倒的格上との雪辱戦なのだ。ここまでしてようやっと条件が釣り合う。勝負が成り立つ。

 故に命を懸けるくらいでちょうどいい。

 だがその言葉は以前のように、死んで構わないとでも言うような後ろ向きなものでは決してない。

 勝利し、そして生きて帰ることを、皆とこの拳に誓ったから。

蟒蛇神道流うわばみしんとうりゅう——」

 くべた(覚悟)の分だけ自らの魂を燃え上がらせ、宿す身体が限界超えて駆動する。

「——乱刃高千穂(みだれたかちほ)

 超至近距離から放つ嵐の如し連続回転斬り。迅と砕を最大限に活用して繰り出された合技は、上下左右あらゆる角度から頭巾を襲う。

「……ふ」

 しかし、微かな冷笑が聞こえたかと思った瞬間、頭巾の外套の内側からギラリとした光が見えた。直後稲光のように、高速で閃く何かが覇切の喉元目掛けて抜き放たれた。

(小太刀っ……!?)

 これまで一度たりとて見せていなかったその隠し武器に虚を突かれ、無理やりに引き戻した刃が上へと弾かれる。すでに一瞬前に空振った奴の武器は手元に戻ってきている。

 今度は先の逆。がら空きとなった覇切の懐に頭巾が一歩踏み込み、瞬間————覇切の口元ににやりと笑みが浮かんだ。

 得物を弾かれ体勢を崩したかのように見えた身体が、ぐんと速度を上げて翻る。

「っ!?」

 今度こそはっきりと頭巾の気配に動揺の色を見た。

 言うなれば先の乱刃高千穂は囮。小太刀の存在は予想外だったが、あれで決められると思っているほど今の覇切の頭の中に都合のいい油断はない。必ず反撃してくるという想定のもと、奴が殺せるという確信を持って放つ一撃を待っていた。

「蟒蛇神道流——」

 弾かれた勢いで速度を増した剣閃が大気を巻き込み、頭巾の剣と交叉する。

「——穿牙吶蝮(せんがとつばみ)っ!!」

 全力を込めた最大攻撃力の刺突が咆哮にも似た唸りを上げて、頭巾の身体をついに捉えた。

「ぐ……っ」

 ここに来て初めて苦悶の声を漏らした頭巾の身体が、遥か後方へと飛ばされる。

 追撃に移ろうとしたものの、直後には空中でひらりと身を翻した頭巾が地面に着地を果たしていた。こちらの動きを窺うように、剣を正眼に構えるその姿は初めて見る奴の警戒を露わにした姿だった。

「ふぅ……はぁ」

 呼吸を整え、覇切もまた武器を構え直す。

 互いに距離を取り、仕切り直しと改めて向かい合う。

 ここまで開戦から僅かな時間でおよそ十数合の打ち合いを繰り広げてきたが、有効打といえるものは今の一撃が初めてだろう。

 以前と同じではないことを見せつけるように、睨み据える覇切の視線を真っ向から受け止めた頭巾は、先の冷笑とはまた違った響きのくぐもった笑いを一つ漏らすと、ふっと唐突に緊張を解いた。

「……なるほど。前回とは違うということか。これは失礼した」

 思いの外礼儀正しい、いやそれ以前に初めて耳に届いたまともな声に、頭巾とは逆に覇切の全身が緊張に粟立つ。

 初めて聞くはずだ。そのはずなのに、聞き覚えのあるこの声は……。

「君を侮辱するつもりはなかったんだけどね。ついつい横着をしてしまったようだ。お詫びするよ、覇切君」

 夜空のような黒髪に、深い漆黒の瞳が頭巾の下から現れる。

竜胆(りんどう)百夜(びゃくや)……」

 百合の実兄であり、覇切たち特科生の教官の一人でもある青年が、肩から血を滴らせながら不気味なほど穏やかな笑みを浮かべていた。

「やはり君くらいの年齢の青年の心は読みづらい。つい数日前まで子どもじみた意地を張っていたかと思えば、急に落ち着いた大人のそれへと変わってしまう。技術は一朝一夕とはいかないが、覚悟が違う。先の一撃もさすがの一言だが、俺はそこに至るまでの過程を評価したいね。見事な技の連携、そして素晴らしい仕合運びだったよ。まさに一本取られたと言ったところだ」

 百夜の口から放たれる言葉の数々には一切の衒いも諧謔の色も見られない。素直に覇切のことを称賛し、当たり前のように殺し合いの場に立っている。

 そして覇切もまた……。

「驚かないんだね。あまり怪しまれないよう行動してきたつもりだったけど、もしかして君には何もかもお見通しだったのかな?」

「いや……」

 にこやかに告げる百夜の言葉に対し、一瞬言葉に詰まる。確かに頭巾の下から現れた百夜の顔に驚きはしたが、自分でも驚くほど冷静のこの事実を受け入れていた。その理由はいくつかあるが……。

「別にあんたが主犯だって確信があったわけじゃない。実際、今も十分驚いてる」

「つまり?」

「単純な消去法さ。俺たちが初めて東征に向かったその日、頭巾は俺たちがあの場にいたことを知っていたみたいだった。それくらいあの時の遭遇戦は出来すぎてた」

 鬼裡依教信者との密会のように見せていたが、それは何もわざわざ穢土の侵入禁忌区域などという危険極まりない場所で行わなければならない話でもなかったはず。本当の狙いはこちらだったというわけだ。

 そして覇切たちがあの日あの時間に東征に出ることを知っていた人間は限られている。

「そういう意味では義姉さんや学園長も候補の内には入っていたけど……俺は今回のこととは全く別の件であんたには少し疑念を持っていたから」

「へぇ……君とはそれほど多く会話をした記憶はないけど、ぜひとも聞いてみたいね。その疑念とやらを」

 言葉通り興味深そうに瞳を向ける百夜に、覇切はその時のことを思い出しながら話し始める。

「あんたさ、町で起きた鬼化事件の後、俺に百合のことを頼むって言ってきたよな? 普通昨日今日出会ったばかりで、ろくに会話もしていない男にそんな頼み事する奴はいないだろ。ましてあんたは百合のことを随分気にかけてる風を装っていた。それも一緒に考えてみればこの行動は不自然だ。噛み合ってない」

 恥ずかしながらこのことには、百夜と百合を自分と八恵に置き換えて考えて抱いた違和感だった。かつての自分の妹に対する溺愛ぶりには、今にして呆れ返るものを覚えたが、そのおかげで百夜の不審な言動に気付くことができた。

「なるほど。確かにそう言われると少し失敗だったかなぁ……俺としては警戒心を薄れさせようとしたつもりだったんだけど、見事に逆効果だったわけか」

「それだけじゃない。俺にこいつは油断ならない(・・・・・・・・・・)かもしれない(・・・・・・)と思わせる決定的な発言はその後だ」

 奇しくもこちらから聞き出したとも言えるそれは、今にして思えばおかしかった。

「あんた言ったよな? 『鬼は俺たち家族の絆を引き裂いた』って。あの時は意味が分からなかったけど、後になって百合から話を聞いてあんたに対する疑念が一気に膨らんだよ」

 それは百合が話してくれた、自分が記憶を失った状態で穢土にて発見されたという話。穢土は鬼の巣窟だ。故にそこで記憶喪失になった百合のことを思えば、先の発言にも納得がいく気もする。

 しかし、よくよく考えてみれば明らかにおかしいのだ。

「百合は侵入禁忌区域で見つかったんだ。だから現実的に考えて百合のことをそこまで連れ去った人間(・・)がいるはず……あんたがそのことに気が付かないはずがない」

 つまり百夜が恨むべきは鬼ではなく、百合を連れ去った人間。しかしそれを以て百夜の発言をただの失言だったとするのは早計だ。

「あんたの言っていた鬼……それって、百合のことだったんじゃないのか?」

 あの時百夜から感じた憎悪は本物だった。自分を殺したいほど憎んでいた覇切だからこそわかる正真正銘の怨嗟の念。

 ひょっとすると百合を穢土に置き去りにしたというのも百夜本人なのかもしれない。かつて彼と百合、他の家族の間に何があったのかはわからないが、これまでの間ずっと百合を殺す機会を窺っていたのだとすれば……。

「……余計なことを言ってしまったというわけか。誤魔化せばよかったんだろうけど、その件に関しては理性ではどうにもできなかったらしい」

 半ば認めるとも取れる百夜の発言に、覇切はこれまで抑えてきた怒りの感情が沸々と煮え滾ってくるのを感じていた。

「妹だろ。兄貴が一体何をやってるんだよ……!」

「ははは、君に言われたくはないなぁ……実の妹をその手にかけた覇切君にはね」

「……!? 何でそれを……っ」

「少し調べさせてもらったのさ。ああ、涅々さんの名誉のために言っておくけど彼女からは何も聞いていないよ。余程君のことが大事らしい。中々口を割ってくれなくてね。楽をしようと思ったんだけど、結局自分で色々と調べる羽目になってしまった」

 そう言って、ふっと天ノ御柱を見上げる百夜。

「それに、俺はあいつのことを妹だなんて思ったことは一度もない。俺の家族は生涯ただ一人だけ……あいつはその絆を引き裂いたんだ」

 その時、ゴゴゴゴと、唐突に大地が震えだした。

「桜華の奴か。派手にやってるみたいだな。使えると思って拾ってやった命だったけど、存外苦戦してるみたいだね。覇切君のお仲間の頑張りか、あいつが油断でもしたか……いずれにせよ決着は近いだろう。こちらもね」

「っ……何だっ!?」

 遠くから響く地鳴りの中、一際大きく震えを見せたのは百夜の見上げる先にある天ノ御柱。大地の震えとは明らかに違う震動を見せる楼閣の内部から、外壁を突き破るようにして何かが現れた。

「あれは、植物……?」

 ぐねぐねとうねりながら壁を這いずり回る木の根のように太く長いそれは、瞬く間に建物全体を覆い尽くしてしまう。そして半ばで折れた楼閣の天辺を突き破り、周囲に瓦礫を撒き散らしながら宵闇に溶ける漆黒の花が大輪を咲かせた。

「ああ……やっと! やっとこの時が来た!」

 百夜の狂喜した声がその場に響いた。見上げた遥か天上に咲く巨大な黒百合の花弁の中心には、花と一体化したように半身だけ姿を覗かせる人影と、もう一つ——

「——百合っ!!」

 触手のような蔓に絡め取られ、身動きの取れなくなっている人影。明星の軍制服に身を包んだ少女が、冷たく凍てついた視線で地上を見下ろしていた。


       ◇


 その少し前、百合は以前訪れたとき以上に異様な雰囲気に包まれた天ノ御柱の目前で、無数に湧き出る鬼を相手に足止めを喰らっていた。

「くっ……絶氷陣っ!」

 周辺の神威を一瞬で統制下に置き、瞬きする間もなく鬼共を氷漬けにする。しかしそうしたそばから新たな鬼が次々と大地を突き破り這いずり出てくるため、全くキリがなかった。

(あと少しなのに……っ!)

 もう天ノ御柱の入り口は目前。この鬼の群れを突破できさえすれば、あの木乃伊の元へと辿り着ける。

 本来適材適所を考えれば、この役割は自分に宛がわれるべきものではないことはわかっていた。

 何故なら自分は前回鬼の木乃伊と対峙したとき、左腕の発作で無様にも行動不能に陥ってしまった。あの時の状況を振り返ってみれば、腕の発作が偶然起きたものとは考えにくい。

 だから今回の作戦の要とも言っていいこの仕事を自分が担うには荷が重いということもわかっている。

(それでも、皆さんは私を信じてくれた……)

 あの鬼の木乃伊を前にしたときに感じた、ただならぬ気配。それを思い出した時、自分との間に何やら因縁めいたものを覚えずにはいられなくなった。記憶の奥底を引っ掻くような、ざわざわとした感覚を抑えられない。

(だから言うなればこれは私の我侭……だけどそれ以前に、自ら志願したこの役割を果たせず終わるだなんてそんな……)

 そんな、仲間の信頼を裏切るような真似だけは絶対にしたくないと、そう誓ったから。

 故にここで時間を浪費している暇はない。この場に群がる鬼の総てを斃そうだなんて思うな。

 狙うは一点突破。しかし自分は一撃必殺の威力を持つ剛や練の万象術は得意ではないのだから、力技は無理だ。

(研ぎ澄ませろ……)

 斬るというただその一点にのみ集中し、己が神威を薄く薄く研いでいく。刀よりも紙よりも、何より薄く、そして何をも斬り裂く刃と化せ。

「絶氷陣、冰月(ひげつ)——」

 直後、その場にうっすらと巨大な月が浮かび上がった。湖面に揺蕩う月影のようにゆらゆらと揺れる輪郭が地上に姿を現したと思った次の瞬間、直線状に存在する総ての鬼の動きが停止する。

「——屍翅薄刃(ししはくじん)宵蜉蝣(よいかげろう)

 音もなく、鬼の脳天から股下までがすーっと真っ二つに両断されていく。

 まるで蛹の中から成虫が現れる瞬間を目の当たりにしているかのような光景だったが、ただし中から出てくるのは昆虫の類ではなく、冷たく凍り付いた血と臓腑の氷塊だ。

 極限にまで薄く研ぎ澄まされた巨大な氷の刃。あまりの薄さに風に晒されるだけでゆらゆらと揺らめき、天空の月を投影する帳と化していたが、それだけに斬れ味は折り紙付きだ。触れた瞬間から寒気が走るほどの静けさと共に外面を裂き、刹那より早く内部を隅々まで凍結させ意識を刈り取る死蟲の翅。

 この場に他の人間がいればまず間違いなく何が起きたのかを理解できていなかったであろうが、無音の殺戮を果たした百合は攻撃の余韻に浸ることなく迷わず駆け出していた。

 目前には一直線に開けた鬼の死骸で出来た道。しかし十体以上の鬼を一息に倒したというのに、すでに新たな鬼が湧き出てこようとしている。

(相手にしちゃ駄目っ……多少の怪我は覚悟の上。このまま一気に、突っ切る!)

 左右から追い縋ろうとするように鬼たちが巨大な腕を振りかざしてくるが、そんなものをいちいち相手にしていたらまた振り出しだ。もしかしたらこんな好機は二度と訪れないかもしれない。

 だから走れ。例えその脚が千切れようとも、限界振り絞って駆け抜けろ。

「間、に、合、ええぇぇぇえええええっっ!!」

 そして風より速く、音より速く。これまでの人生で最高速度の疾走を果たした百合は、身体のあちこちから鮮血を飛び散らせながらも、見事鬼の屍道を走り切った。

 惜しむらくは最後、天ノ御柱到達と同時に段差に躓き、盛大に床を転げ回ってしまったことだろう。顔面から地面に激突し、そのままゴロゴロと主柱にぶつかるまで止まらず転がっていってしまった百合は、それでも気力を奮い立たせて鼻血を拭いながらふらふらと身体を起こした。

「あ、つぅ〜……恰好が、つかないですね本当に……でもこれで」

 第一目標は達成した。正直な話、中に侵入したところで新たに強力な鬼が出て来やしないか、外よりもむしろ鬼が密集していやしないか、冷や冷やしていたが、意外なことにそれらの類は一匹もおらず、外とは正反対に不気味なほどの静けさに満ちていた。

 そしてその中でも異彩を放っているのは、室内奥の壁際に佇む鬼の木乃伊——

「……? あれは……」

 何かがおかしい。

 そう直感したのは、鬼の木乃伊が明らかにそうと分かるほどぼんやりと発光していることに対してではなく、それ以前の問題。

 そもそもあれは——

「木乃伊……じゃない。あれは、人……?」

 遠目からでもはっきりとわかるほどの明瞭な輪郭。

 警戒しながらも近づいていく百合。距離が縮まっていくにつれて、徐々にその姿が明らかになっていく。

 体格や額から生えた角など、以前見た時と大きな違いはなかったが、そこにいたのは確かな人——見目麗しい一人の女性だった。

「この人、どこかで……」

 艶やかな光沢をもつ美しい黒髪に、白雪のように真っ白な肌。目鼻立ちは寒気を覚えるほど整っており、一目見てとてつもない美貌の持ち主だとわかる。過去に出会っていたことがあれば、まず間違いなく鮮明に記憶に残っていることだろう。しかし、百合が引っ掛かりを覚えたのはそんな一般的な外見云々の話ではなく、もっと根本的な……。

(美貌って面で言うなら比べ物にならないと思うけど、どことなく……私に、似てる……?)

 そう、ちらりと頭を過った直後のことだった。

「なっ……!?」

 ぼぅっと、女性が放つ光が一層激しいものとなる。前回も似たような状況で鬼が発生したため、百合は警戒心を強めて武器を構えようと得物に手を伸ばす。しかし——

(身体がっ……動かない!?)

 伸ばした手がいつまで経っても刀の柄を握らないので視線を落としてみれば、信じられないことに己の腕はピクリとも動くことなく、そこにぶらりと垂れ下がっているだけだ。刀を抜こうという意思はあるのに、反して行動が伴わない自分の身体に困惑する。

 金縛りのように押さえつけられている感覚ではなく、肉体に意思が伝わらないというのだろうか。心とは裏腹に身体の方に、そもそも動こうとする気が起きない。

「——……」

 とその時、静かに閉じられていた女性の瞼がゆっくりと開かれていく。

 その光景を百合は遅滞した時の中、弾けそうなほどに鳴り響く心臓の鼓動を感じていた。きりきりと締め付けられるような痛みが、己が右腕に走る。

 これは……この女性は、まさか——

「……ぁ」

 永い眠りから覚めたようにぼんやりと霞んだ瞳が、正体不明の胸のざわめきに震慴(しんしょう)する百合の視線を捉える。そして——

「——あア」

 暗い井戸の底を思わせる、汚濁に満ちた歪んだ博愛がここに流出する。


「オカえりナサい。私の愛しイ娘……」


 不自然にブレた言葉を耳にした瞬間、忌むべき記憶が底の底から溢れ出す。

(思い、出した……私は——)

 記憶を失って以降、黒条百合として積み上げてきた総てが崩れ去っていく。唾棄し続けてきた右腕が歓喜に震え、世界を呪う(愛する)黒百合が狂気を振り撒き咲き乱れる。

 もう戻れない心の崩壊と共に、百合の意識は混濁した歪みの中へと呑み込まれていった。


       ◇


「紹介しよう、覇切君。彼女は黒条(こくじょう)小百香(さゆか)……俺の、母親だ」

 そうして百夜の視線に釣られるようにして、見上げる。あまりに巨大な黒百合の中心から、視点の定まらないぼんやりとした瞳を地上に向ける黒髪の女性の額には二本の角。

(あれが、百夜の母親だと……? でもあの姿は……)

 かつて自分の妹が鬼化により変貌した姿によく似ている。しかもこの独特な不安と安心が同居しているような歪さは、あの時木乃伊を前に感じたものと同じものだ。

「君の考えていることはわかるよ。まぁ、あれも一種の鬼化とも言えるかもしれないが、でもあれは普通の鬼化ではない。母さんは正真正銘の人間だ」

 覇切の抱える不安を見透かしたように告げる百夜。

随神鬼(かむながら)。君も名前くらいは聞いたことがあるだろう? 鬼に限りなく近づいた鬼狩りだけが扱える特異極まる異能力。個人個人に全く違う異能が宿ると言われているが、あれは何もそれぞれ適当に決まっているわけじゃない。反映されるのは……その人間の深層心理」

 夢や願望、不安や怖れ、優越感に劣等感などその人物の精神を構成するものの中でも、最も奥底に内包されている心の隙とも言い換えられる部分。それが表に現れ能力として昇華されたものが、随神鬼。

 一つ間違えば決定的な弱点にもなり得てしまうが、表出するのは言わば本当の自分。これまで幾重にも重ねられていた心の壁を取り払った魂の核は脆いが、逆を言えば力を発揮するのを遮っていたものが取り払われたため、その人にとって唯一無二の強力な武器になる。

「母さんは、気が触れていた。俺が幼い頃から鬼を愛し、人間が皆鬼と化すことで争いのない平和な世界になればいいと、本気で願っていたよ。過去には融魂施術の被験体にも名乗り出ていた。母さんの鬼への思い入れは格別なものがあってね……鬼の魂魄との適性率は融魂施術の史上、最高の数値だったらしい」

 しかし研究の第一人者である月代兎和子は、小百香の歪みに気付いていた。ほどなくして彼女は被験体を降ろされてしまうことになる。

「母さんの願いは、総ての鬼の母となること。そうありたいと渇望した母さんに発現した随神鬼——天魔、木花之咲夜鬼姫(このはなのさくやひめ)。鬼を自ら産み落とし、あらゆる鬼を従える。鬼であるならば母さんには絶対に逆らえない服従の力。どんな悪ガキでも母親の一喝にはすぐに従ってしまうだろう? それと同じさ。君も以前見た他者の強制的な鬼化も、俺を媒介にした母さんの力の一つだ」

 触れた相手の鬼の魂を喚起させ、強制的に活性化させる。百夜という中継を介しているため練度の高い鬼剋士には全く通用しないが、魂の強度が低い鬼剋士や自ら進んで鬼化を望む者には逃れる術はない。

百合(あいつ)は母さんの腹の中にいた頃に、母さんの力の影響を受けた。あの醜い腕を見ただろう? 側だけ人間に見えるが、それでも奴は疑いようのない鬼だよ」

 話の最後に憎しみ滴る百合への呪いでそう締めくくる。

 要するに今の状況というのは総てそこに繋がるというわけだ。鬼裡依教の存在も、百夜の一連の行動も、総て母親である小百香の悲願、神州に地獄(平和)をもたらすことを目的に行われてきた。

 百夜の異常なまでの母親への執着を鑑みれば、彼が事の首謀者であることにも十分納得がいく。

「……要するに、あそこにいる女を殺せば全部が解決するってことだろ? 貴重な情報ありがと、よっ!」

 そして言うが早いか、百夜の不意を突いて全力で跳躍する覇切。目指すは天ノ御柱の頂点。楼閣の屋根を足場にものの一瞬で上まで辿り着いた覇切は、こちらを見下ろす巨大に咲いた黒百合に息を呑む。

 天上を覆い尽くすほどの大きさのそれは、通常の大きさであれば黒特有の艶やかさで魅入ってしまう美しさだったが、ここまで巨大化しているとあまりの重圧感に恐怖と怖気しか湧いてこない。

 とはいえ、いつまでもぼーっと眺めているわけにもいかない。黒百合の一部に絡め取られ、正気を失っている百合も視界に入っているが、最優先事項は黒条小百香の打倒だ。寝起きに近い状態なのだろうか、幸い彼女も突然現れたこちらを気にも留めていない。

 ならば好機と、覇切はその場に佇む小百香に斬りかかろうとして——

「何っ……!?」

 不意に腕の筋肉が弛緩してしまったかのように、武器を握った左手がだらんと下がってしまった。

「——頭の回転は速いという印象だったが、存外鈍いな君は」

「っ……がっ!?」

 背後から聞こえた温度を失った声に振り向く間もなく、横っ面を蹴り飛ばされ覇切は鮮血を散らしながら木製の床面を転がっていく。どうにか体勢を持ち直して、口元を拭いながら顔を上げれば小百香を守るように前へ出る百夜の姿が見えた。

「言っただろう? 鬼は母さんに逆らうことはできない。それは鬼の魂をその身に宿した鬼狩りとて同じこと。鬼狩りである限り母さんは絶対に殺せない。それにそもそも……この俺が母さんに手を出させるわけがないだろう?」

 冷徹な輝きを見せる瞳で、これまでになく怒気を向けてくる百夜に覇切は知れず気圧されそうになる。どうやら先ほどまでのはほんの準備運動程度だったらしい。

「そろそろ終わりにしよう。母さんがこうして目覚めた以上、もう穢土(ここ)には用はない」

 急速に百夜の身体へと神威が収束していく。凝縮された神威は密度を増し、周辺の景色を歪め始める。

 これまで百夜の使用していた環境支配は、覇切の金烏陽陣と全く同じ効果だったが恐らくそれは本質ではない。いやむしろそれはほんの一部分。

「もうわかっているんだろう? 俺の鬼宿等位。君では絶対に勝てないこの力に!」

 瞬間、ごうっという風が吹くような音と共に、覇切の視界が真っ赤に染まる。

 それは灼熱の迸る紅蓮の炎。しかしそれだけではない。吹き荒ぶ暴風は文字通り身を斬る風刃。地を這う亡者の如く這い寄る冷気は、魂をも凍てつかせる死への誘い。


天元太極(てんげんたいきょく)——」

 陰陽五行四象八卦、天地万物の総てを極めし双界の陣がここに発露し現れる。


「——森羅、万象陣!」


 百夜の纏う神威が輝きを増す。しかしこれだけなら先ほどまでと同じ。その真価が発揮されるのはここからだった。

降神(こうじん)——火雷(ほのいかずち)

 周辺の神威が一気に熱を増し、爆発にも等しい燃焼を見せる。

 その身に炎の鎧を、両手には火焔を纏った大刀を携えた百夜が炎の中から現れ、一足で距離を詰めてくる。

 ここまで炎熱系の能力など一切使用してこなかった百夜なだけに、覇切にとってこの展開は予想外過ぎるものだったが、それだけではなかった。

「ぐっ……!」

 百夜の斬撃に先駆けて覇切をその場で包囲する斬閃の檻。まるで秋桜と比名菊を同時に相手取っているかのような錯覚に陥るが、ぼっと構えている場合ではない。

「く、おぉっ!!」

 触れるだけで何もかも熔かしてしまう大熱を宿した剣の連撃をギリギリで躱す。しかし纏った熱風が完全な回避を許さず、一閃振るわれるたびに素肌を焼き焦がす風から逃れる術がない。加えて見えない刃が一つの挙動ごとに全身に食い込み、容赦なく肉を断ってくる。

 噴き出す血は周辺温度の桁外れの熱さに赤い血煙となって蒸発し、鉄錆臭い匂いが鼻についた。

「初めて君と出会った時、俺は正直目を疑ったよ。まさか俺と同じ特質を持った鬼狩りが他にいるなんてね」

 間断なき攻撃の中、余裕を持った声音で百夜が語り掛けてくる。

「君は自分の半端な鬼宿等位を恥じていたようだったが、そんな必要は一切ないぞ。何故なら俺たちはそのおかげで何にでもなれる。誰もが一つの道しか歩めないにも拘らず、俺たちは自由に道を選び、そしてその総てを極めることができるのだから。こんな風になっ!」

 刹那、身を焦がす莫大な熱量が消失した。しかしまるで蜃気楼のように熱さも炎の輝きも消え去ったと思った次の瞬間、刹那と待たずにやってきたのは極寒の死風。

「降神——雪華翁(せっかおう)

 一瞬で入れ替わる百夜の神威武装は、炎から氷へ。硝子の造形のような芸術的なまでに美しい鎧を身に纏った彼の背後上空に無数の氷塊が形成される。

「篠突く凍雨(あめ)

 その言葉を合図に空中に浮かんだ氷柱が弾丸のように放たれた。先の炎刀の連撃もそうだったが、ここにきて百夜の攻撃の一撃一撃の威力が桁違いに強化されている。最初の一、二撃こそどうにか弾き返すことができたが、文字通り豪雨が如く降り注ぐそれらにすぐに為す術がなくなる。

 いつの間にやられたのだろうか、足元もがっちりと氷で凍結させられ脚を動かすことすらままならない状態の覇切は、三撃目に太ももを抉られたのをきっかけに一息に槍衾にされてしまう。

「が、はぁっ……!? げほっ、っ……く、ああぁっ!!」

「無理はよせよ。これでもかなり加減したんだ。その気になれば君の頭くらいすぐにでも吹き飛ばせる」

 言いつつゆっくりと近づいてくる百夜を息も絶え絶えに睨み据え、改めて力の差を思い知る。

(最初の攻防から見えた互いの剣技はほぼ互角だった……だけどやっぱり、地力の底が違い過ぎる)

 事前に百合から教えてもらった頭巾(百夜)の鬼宿等位。それは一般的な一部特化型ではなく、覇切と同じ全等位の統一型。しかしその内訳には天と地ほどの覆しがたい差があった。

 全等位総じて(じゅう)。覇切のそれが(ろく)等位なのに対し、そこにあるのは総ての等位が最大値という類稀ない天稟の才だった。

(つまり……俺が器用貧乏なら、奴はまさに万能型ってわけだ。総てを極めているからこそ、あらゆる属性神威を従えどんな環境支配でも扱える)

 しかしそれほどまでの圧倒的な実力にも拘らず、これまで百夜が目立たずにいられたのは偏に鬼剋士としてのある種の才能に起因している。

 鬼剋士の中には目が良いと称される神威を見破る力に長けた者がいる一方で、またその逆も存在する。すなわち百夜はそれだった。周りから自らの神威を隠蔽することに長けていた。故にこれまで本来の実力をひた隠しにし、さらには頭巾としての活動中でも巧妙に自らの神威を操作することで別人を装ってきていたのだ。

「君は言わば俺の下位互換だ。何か一つでも抜きん出た力があればまだそれに賭けることもできただろうが、残念ながらそれもないものねだり……唯一頼みの環境支配も、全く同じものを扱える俺には通用しない」

 一般的に合技を使用した際の鬼剋士の瞬間的な力を数値で表すと、それはその人物の鬼宿等位の乗算した数値になると言う。

 すなわち覇切が合技を使用すれば、どんな組み合わせであれそれは『三十六』の数値となって百夜の等位を越えるが、百夜の合技の威力数値は『百』だ。


 ——どう足掻いても届かない。


 そんな言葉が、今や瀕死にも近い状態の覇切の脳内を掠めた。

 氷柱で身体中を貫かれ、立っていることすらままならず膝をつく覇切の目の前まで百夜がやってくる。

「さっきも言った通り、俺は君の能力を買っている。どうだ? このまま俺の懐刀になる気はないか? どうせもう神州の鬼狩りたちは母さんの力からは逃げられないんだ。そのまま人間としての意識を保ち続けながら俺の傘下になるか、理性を失った使い捨ての兵隊として母さんの力に堕ちるか……特別に選ばせてあげるよ」

 そう言って剣先を覇切の額に突き付けてくる百夜。

 一撃で仕留めず、わざわざ瀕死の状態にまで追い込んだのはこれが目的だったのだろう。だからと言って、自分の身を盾に交渉できるかと言えばそんなことは論外だ。

 二択を迫る百夜の言葉はその実強制に近い。このままでは遅かれ早かれ鬼化は免れず、どう転んでもここで人間としての命運は尽きるだろう。

「くっ、く、ははは……」

 しかし何故だろう。肉体的にも精神的にもかつてないほど追い込まれ、万事休すと言って差し支えないそんな状況だと言うのに、覇切は腹の底から込み上げてくる笑いを抑えることができなかった。

「……? どうした? 面白いことを言ったつもりはないんだけどね」

「いや、悪いな……ただ、可笑しかったのさ」

 全身穴だらけの蜂の巣状態。裂傷、凍傷、火傷満載の満身創痍で、窮地に立たされているのはこちらの方だというのは明白なはずなのに……何故だろうか。

 一見余裕の笑みでこちらに剣を突き付ける百夜。しかしその仮面の下に隠れた微かな焦りを、覇切は見逃さなかった。

「あんたさ、随分と独り言が好きなんだな」

「……何だと?」

「さっきから母さん、母さん……別にあんたが自分の母親にどんな愛情を向けようと、それをどうこう言うつもりはないけどさ。その母さん、最初っからあんたのことなんて全く眼中ないじゃねぇか」

 ぴしっと、百夜の笑みにひびが入ったような音が聞こえた。

 ちらと見上げる先には、黒百合と一体化した身体でうわ言のように娘や総ての鬼への愛情を示す小百香の姿があった。

「あんたもあんたで母親のことを何度も呼ぶわりに、ただの一度も直接話しかけようとしない。ひょっとして、ガキの頃もそうだったんじゃないのか?」

「……黙れ」

「怖いのかよ? 母親を取られてしまったらどうしよう、こんなに俺は母さんを愛してるのに相手にされなかったらどうしよう、ってさ」

「黙れと言っている!」

 能面のような笑みを崩した百夜が激昂し、怒りに任せて覇切の顔面を思い切り蹴り飛ばす。

「づっ、かは……!」

 そのまま吹き飛ばされ、黒百合の一部に激突する。

 最早ここまで来ればどんな策謀も意味はない。こうしてここにいるだけでも、自分の魂がどんどん鬼へと近づいていくのを今まさに感じていた。

「まったく、君がそんな挑発を使ってくる人間だったとはね……気が変わったよ。やはりここで殺すか。悪いね。結構短気なんだ、俺は」

 朦朧とする視界の先には炎と氷を同時に纏う百夜の姿。今度こそ遊びは存在しない。

 先の煽りで冷静さを欠いてくれればとも思ったが、厄介なことにどれだけ怒りが蓄積されても頭に血が上らない性質らしい。むしろ迸る戦意からは一切の隙がなくなっている。

 そして加えて言うならこの位置(・・・・)に覇切を蹴り飛ばしたのも意図があったのだろう。

「俺も、大概だけど……何、やってんだ……お前はよ……」

 背中越しに胎動を感じる黒百合の幹の中腹に絡め取られているのは、百合だった。その瞳は光彩を失ったように虚ろで、彼女も鬼化が進んでいるのか、黒い火傷のような痕が顔や首元にまで広がっている。

 恐らく百夜はこのまままとめて二人を葬り去るつもりだ。

「百合、お前言ってただろ……自分を自分として認めてくれた仲間のために戦うって。何今になって一丁前に化け物ぶってる。似合わないんだよ、はっきり言ってな」

 百夜は百合のことを鬼だと言っていた。鬼の母となった小百香から生まれた一人目の子が百合だったのだろう。

 確かにそういう意味では彼女は鬼なのかもしれない。部分的な鬼の腕は鬼と化したと言うよりかは、始めからそうだったように思えた。

「だけど……お前は、人間だ」

 小さなことで笑い、どうでもいいようなことでも悔しがり、周りの真っ当な人間への嫉妬や羨望を認めながらもそんな自分を恥じていた。

 百合は人一倍人間らしかった。この鬼が跋扈する時代で、精一杯人として生きようと懸命だった。

「根性見せろよ……お前が言ったんだぞ」


 ——私は、死んでほしくありません。覇切さんには、生きていてほしいから。


(殺してやりたい奴がいたんだ……)

 かつての自分だったら、今この状況できっと総てを諦めて破れかぶれになっていたことだろう。

 どのみちこのままでは百夜に勝てない。加えて百合も敵の手中。恐らく秋桜たちも勝負の行方に限らずほぼ戦闘不能状態は避けられていないはず。だったらここで勝つことのできない自分ができることは何一つないと断言していい。

(なのに何で今俺の腕は剣を握る? 何で俺の脚は立ち上がろうとする?)

「……驚いたな、まだ動けるのか……と言うより、まだ動こうとする意思があるのか。この絶望的な状況で何故君は立ち上がるんだ? 正直、理解に苦しむよ」

 目前にまでやってきた百夜が、覇切自身が自らに抱いた疑問と全く同じことを口にする。

「は……知ら、ねぇよ」

 だけどここで自分を殺して、諦めて……その先を想像した時に、どうしようもなく恐怖を覚える。

 死ぬことが怖いんじゃない。殺すことを躊躇っているわけじゃない。

 自分がいなくなった後、生きていてほしいと言ってくれた人たちがどうなってしまうのか、そうなったとき自分は一体何を思うのか。

(それを教えてくれた奴らがいた……こんなくそったれな今日この日を、明日を、その先の未来を、共に過ごしていける奴らを見つけて……そんな世界も悪くないって、そう思ったんだ)

 だから、今こそ願いを口にする。

随鬼(ずいき)惟神人(かむながら)——」

 自分に生きていてほしいと願ってくれる人たちと共に、この先の世界を生きていくために、今の自分を殺すのではなく——


「——輪廻旭光(りんねきょっこう)八命相蛇之眼はちめいしょうじゃのめ天象眼(てんしょうがん)


 ——生まれ変わって、共に朝日を見るために。


「っ……!?」

 覇切の動きに直感で身の危険を感じ取った百夜はすでに動き出していた。

 神威が鬼の歪みと同化していくように変化するこの感覚は明らかに、随神鬼の発現。この土壇場で覚醒したとは俄かには信じられない事態だったが、目の前で展開されている情景こそが真実だろう。

(だがそんなことはどうでもいい。覚醒に至ったと言うのなら使用される前に殺せばいいだけのことだっ!)

 覇切の随神鬼覚醒の気配を覚えたその瞬間から、得物を振り下ろしていた百夜の刃はすでに覇切の胸元三寸の位置にまできていた。故にどんな能力であろうと対応することは至難。覇切の方にも特別な動きは何もない。

 故にほぼ必殺を確信していた百夜のだったのだが、その一刀は直後異常な速度で割り込んできた覇切の刀に弾き飛ばされた。

「何っ!?」

 思わず驚愕の声を漏らして、もう一刀の氷刀を繰り出す。しかしそちらも同じく返す刀で放たれた一撃に防がれる。

(速度が、増した?)

 一旦距離を取って、警戒気味に刀を構える。

 しかしそう予想するものの、速度だけで先の攻防は説明できない。何故なら先の連撃は迅に加えた剛との合技。速度強化だけで弾ける代物ではないし、そもそも覇切の鬼宿等位では例え合技を放とうと三倍近い力で迫る攻撃を防ぐことはできないはずだ。

(となると……こいつ、桜華と同じ系統か)

 刹那の思考の末、その結論にたどり着く百夜。

「——っ!!」

 次の瞬間、先と同等の速度で懐に飛び込んできた覇切にも落ち着いて対応し、交叉法の要領ですぐさま反撃する。

 今の攻撃で確信したが、覇切の剛と迅は最早先ほどまでとは比べ物にならない域にまで達している。さすがに桜華ほどの滅茶苦茶さはないが、恐らく実質的な等位は百夜の拾等位を軽く超えていると言っていい。

「やはりそういうことか……だがだからと言って、それで俺を越えたことにはならないよ!」

 鬼剋士の原則すら捻じ曲げてしまう随神鬼は得てして強力な力も多いが、同時にそれ相応の対価も支払うことになる。同じ系統の能力の桜華も剛と迅、二種の強化を得るために、その他の万象術を総て失っていた。

 故に冷静に対処をできさえすれば、全等位が最大値の百夜にとってはそれほど脅威となる相手ではない。そう思い、次なる覇切の上段斬りを受け止めてみせる百夜だったのだが——

「な、ぐっ……!?」

 頭上から勢い付けて振り下ろされた覇切の一撃が、とてつもなく重い。

 初撃から予測した剛之象の等位を遥かに上回る力に戸惑いつつも、己が不利を理解した百夜は堪らず距離を取る。

 しかし今度は一瞬前まで目前にいた覇切が、ふっと姿を消し、気づいた時には背後を取られていた。

(まずいっ……この速度でさっきの一撃を喰らったら……!)

 ここに来て初めて僅かに冷静さを欠いた百夜は、破れかぶれに大振りを放ってしまう。その事実に痛恨の失策を悟った百夜。

 これでは先ほどと逆。こんな隙だらけの一刀では、返しに腕の一本くらいは覚悟しなくてはならないと、歯噛みする百夜だったのだが……。

「くっ……!」

 しかし、確実に回避されると思っていた一撃は、予測外れて驚くほど動きが鈍っていた(・・・・・・・・)覇切の防御を掻い潜り、その肩を貫くことに成功していた。

(何、だ? 一体何が、どうなっている……!?)

 攻撃が通ったにも拘らず、言い知れぬ違和感を覚える百夜。確実に有効打を与えたはずなのに、自らを優勢と判断することに説明できない気持ちの悪さを胸に抱えている。

(というより、そもそも……)

 そもそも何故覇切はこんなにも動けるのか。

 覇切は先の攻防ですでに立つことすら危ういほどの重傷にまで追い詰めたはずだ。いくら何でもここまで自由に動けるはずがない。そう思い、覇切の身体を改めてよく見てみる。すると負傷を示す血の跡はそのままだったのだが、驚くべきことにその怪我自体がほぼ完治していた。

「有り得ない……これは一体……?」

 ここまで剛、迅、快と、都合三つの等位の異常な上昇が見られる覇切。しかしそのくせ、誰にでも避けられるような一撃を避けることができていなかったりと、好調時と不調時の振れ幅にあまりに差がありすぎる。

(待て……振れ幅……?)

 しかしそこで、百夜はある一つの結論に至った。

「まさか、君は……」

 それは想像だにしていなかった荒唐無稽な力。下手をすれば鬼剋士の在り方すらも超越してしまう魔的な性能だった。

「——ふぅ、結構扱い辛い……でも、ようやく慣れてきた」

 そして己が神器である蛇之麁正(おろちのあらまさ)を握り締め、そんなことを口にしながら再び百夜と対峙する覇切の姿は先ほどまでとは一変していた。

 随神鬼(かむながら)覚醒時特有の鬼剋士の変身現象。

 白光纏うその身体の半身にはまるで蛇の鱗のような模様が走り、髪の毛の色は夜闇に妖しく浮かび上がる白髪へと変貌していた。

 そして最大の変化はその右眼。これまでそこを覆っていた眼帯が吹き飛んだ先にあった瞳の色は血よりも赤い紅色だった。

「正直、こんなのただの幸運だ。別にこの力を手に入れる算段があったわけでもないし、他に策があったわけでもない。だけど、何となくいけそうな予感はしていた」

「予感、だと……?」

「あんたが教えてくれたことだろ。今この場は黒条小百香の力の影響下にある。その力の一つである強制的な鬼化……そいつに身を任せていれば、いつか辿り着くんじゃないかと思ってたよ」

 どこか安堵したかのように頷く覇切だったが、言われた百夜はというとその所業に呆れを遥かに通り越した戦慄を覚えていた。

(確かに、随神鬼は鬼の魂へと限界まで近づけた鬼剋士だけが到達できる万象術の境地だ。だがだからと言って自ら鬼化に身を委ねるなど……)

 馬鹿げている。一歩間違えれば、いや百人が同じことをすれば百人違わず鬼と化すと断言できるほど無茶な方法だ。

(しかし目の前の彼はその無茶を通してみせた。そしてその結果得た力……もしかして彼の力は無敵となり得るんじゃないか?)

 完全無欠の万能型である百夜をしてそう思わせる覇切の随神鬼。

 その力は、自らの鬼宿等位の自由配分。

 通常であれば原則変化させることのできない鬼宿等位。しかし今の覇切は基本の全陸等位を持ち点六十と考え、任意に振り分けることができる。

(つまり、先ほどの異常な数値の剛も、迅も、そして快も……瞬間的に鬼宿等位を一点に集中して振り分けることでその分野の能力を爆発的に上昇させていたというわけか)

 桜華のように、限定された分野を数値が振り切れるほど上昇させられるわけではないが、等位の合計が六十という範囲内でならいつでもどれにでも自由自在に変化させることができる。

 そして一点に集中した分だけ他の部分が脆くなるのは必然。その辺りは単純な算学の世界だ。一瞬、百夜の無理やりな一撃が驚くほど簡単に通ったのもその理屈で説明できる。

(だが真に恐ろしいのは、この異能に加えて発揮される彼の環境支配だ)

 覇切の金烏陽陣(きんうしんようじん)は連続的な合技の使用を可能とする。そして覇切はようやく随神鬼(かむながら)に慣れてきたと言っていた。つまりここからは単一に特化した等位配分ではなく、合技を前提とした変化がやってくる。

「っ……」

 その先を想像した時、百夜は久しく覚えていなかった恐怖の冷たさが背筋に走るのを覚えた。

 もし、もしもだ。覇切が合技の一撃ごとに特化させる技能を次々と入れ替えていくことができたのなら、それは実際的には総合値六十であっても、本質的には総合値が二百、三百……合技による瞬間的数値で言えばそれ以上の攻撃を引き出すことも可能なのではないだろうか。

「力を得た直後に鼻息荒くするのもどうかと思うけど……ここからは俺の反撃開始といかせてもらう。そういうわけだから……——百合!」

 いまだ目覚めることのない百合に呼びかける。

「お前だってこのままだとむかっ腹が立ってしょうがないだろ。こっちは俺が何とかする。だからそっち(・・・)は……お前に任せたぞっ!」

 叫び、己が大刀を握り締めた覇切は、今度こそ決着をつけるべく飛び出していった。


       ◇


 声が聞こえた気がした。自分の名を呼ぶ声が。


「あア、百合……私の愛シい娘」


 際限なく肥大化を続ける黒百合に呑み込まれてから、思い出したことがある。

 かつて自分は名門貴族である竜胆家に生を受けた。しかし鬼の腕を持って生まれた奇形の娘を父は不吉の象徴だと断じ、一方で鬼を切望していた母は狂喜していた。

 それから何年の月日が流れただろうか。物心のつく前に両親は離縁し、自分は母方に引き取られることになった。兄である百夜とも別れることになったのだが、その数年後、自分は彼と再び出会うことになる。

 今だからわかるが、成長し、第二次大東征を経て逞しくなった自分の姿を、百夜は大好きな母親に見てもらいたかったのだろう。自分は当時その人物が兄だとわからずにぼっと眺めていただけだったが、どこか誇らしげに母親のことを呼ぶ青年の姿をよく憶えている。

 しかし直後その場に生じた空気のひびに、気付いてしまった。


 ——えっと……どちら様だったかしら? 私に息子はいないのだけれど。


 恐らくこの時だろう。百夜の心に決定的な歪みが生まれたのは。百合への……鬼への憎しみが明確なものとなったのは。


 ——鬼は鬼らしく、穢土(ここ)で一生を終えるがいいさ。


(憎しみを露わにした兄さんはその日の夜、私は攫った。そしてひとしきり痛めつけた後、穢土に捨てたんだ……その後のことは、今でもよく思い出せない。ただ一人ぼっちで、すぐ傍で鬼が唸り声を上げるような場所で、すごく怖い思いをしたことだけは憶えてる)

 そして、偶然侵入禁忌区域の探索に来ていた涅々に拾われた。

(思えば私は生まれる以前から、ずっと鬼であることを望まれていたんですね……)

 父には不吉な存在だと視界にすら入れてもらえず、母である小百香には娘への愛情ではなく鬼への博愛を向けられた。そして兄である百夜には母との絆を裂いた鬼の象徴として憎悪の対象となり、そして自分も……いつしかそう(・・)なんじゃないかという不安に駆られるようになっていた。

 誰一人……自分自身でさえも黒条百合としてではなく、一人の少女を鬼としてしか見ていなかった。

(でも、そんなことはもう今さらですよね)

 声が聞こえた気がした。自分の名を呼ぶ声が。


「——何今になって一丁前に化け物ぶってる。似合わないんだよ、はっきり言ってな」


 自分を一人の少女として、百合として認めてくれた人の力強い声。

 勝手なことを言っていると思った。こっちだって好きで動けなくなっているわけではないのに。いっぱいいっぱいなのが見てわからないのだろうか。

 そんなことを考えていたらだんだんと腹が立ってきた。

 そもそもあなたにその男が倒せるのかと、こっちの方こそ訊きたいところだったが、それを成し遂げるために今なお彼が決死の戦いに臨んでいるのだと知ってしまったからには応えないわけにもいかない。

 昔から鬼子と呼ばれ生きてきた。生まれ持った鬼の右腕。血醒遺伝とも違う純粋な鬼の身体に、周囲の目は厳しかった。父からの侮蔑、母からの歪んだ愛情、兄の狂行。穢土に捨て去られた自分は鬼の仲間であるとまざまざと見せつけられ心が壊れそうになったことで、一度は記憶すら失った。

 だからもう自分が鬼であることは目を背けようもない真実だと認めている。

(それでも、私は人間です……)

 泣き、笑い、怒って、(いつく)しむ。人としての生を全うするために、人であるという尊厳を守るために生きようと決めた。

 それを今更ずかずかと人の心に入り込んできて——

(ああ、全くその通りですね。覇切さん……)

 やっぱり、心の底から腹が立つ。

「私は……黒条百合。お母さん、私はあなたの、玩具じゃないっ!」

 そして震える右手が腰の刀の柄に届く。己を縛る呪いを振り払うように、自身を拘束する黒百合の触手を斬り裂いた。



「馬鹿な……何故、何故動ける!? 奴はこの場で最も母さんの力の影響を受けているはずだ! それなのに……!」

 その光景を離れた位置で視界に収めた百夜は、今度こそ驚愕の声を抑えられなかった。

 魂のおよそ半分が鬼である鬼剋士の覇切ですら、小百香に対して剣を抜くことができなかったのだ。そして百合は、気持ちがどうであろうと身体の方が鬼であるという事実は覆らない。だからこそ百夜の驚きは正常な反応だと言える。

 しかし覇切には何となくわかっていた。彼女もまた自分と同じ。この生と死の瀬戸際でこれまでの自分を超えることができたのだと。

「いや、どっちかと言うと……捨てたのか」

 覇切も鬼剋士として目が良いわけでないが、相手が鬼剋士かどうか……つまり神威を扱っているかどうかくらいはわかる。しかし今この瞬間も黒百合の茎を伝い小百香の場所まで懸命に駆け上がっている百合からは……何も感じられない。

 あんな得体の知れない化物級の植物と目の前で対峙しているというのに、一切の神威も纏わず立ち向かっている。

(つまり、あいつは今……ただの人間なんだ)

 極限状態の中、目覚めた百合の異能。それは彼女の揺るぎない信念を強烈に表していた。

 すなわち『私は私』という自負。

 勝手に押し付けられた評価なんて知らない。私は私という一つの存在なのだから、どうして周りに合わせて自分を変えなければならないのか。

 信頼できる仲間に肯定されて初めて抱いた己を認めるという行為。地に足をしっかりとついて、頑固とも評せるほどに自分を変えないその(こころ)から発露した能力は、万象術を始めとする総ての神威の無効化。それは他者の異能はもちろん環境支配、自らに影響を及ぼすあらゆる神威的要素を総て消し去ってしまうという守護系統の能力では最高峰といえる特性。

 欠点として自らの発する万象術も使用不能になってしまうが、このことに関して百合は不安も怖れも抱いていない。自分にとって本当に怖いのは、己を見失うことだと知っているから。

「くっ……こんな馬鹿げたことがっ……!」

 百合の進撃に明確な危機感を覚えた百夜が、追い縋ろうとなりふり構わず飛び出そうとする。

「やらせるかよっ!」

 しかし、同じく進路上に遮るように割り込んできた覇切がそれを阻まんと立ち塞がった。

「邪魔だっ! どけぇえええ!!」

 氷と炎だけに留まらず、風の刃や岩石などあらゆる環境支配を纏った百夜の双刀が、襲い掛かる。

 先ほどまでのような鬼宿等位の一点集中では到底捌ききれない百夜の本気。

 しかしこちらも今更そんなものに怖気づくほど安い覚悟は持っていない。

「お前こそ親子喧嘩の邪魔するなよ。それから……相手を間違えてるぞ。お前の相手は俺だろうっ!!」

 全身を駆け巡る神威の流れに集中する。二種の複合だけでは足りない。もっと、もっともっと、さらに向こう側のその先へ。

「蟒蛇神道流、秘剣之捌(ひけんのはち)——」

 限界まで腰を捻り、納めた刀に想いを刻む。

 剛之象、迅之象、そして練之象。三種の技能に己が総てを注ぎ込んで、全身全霊、燃え上がる魂を宿した最大威力の一刀をここに放つ。


「——地坤青蓮華(ちこんしょうれんげ)……臥昇閃月(がしょうせんげつ)優鉢羅(うはつら)!!」


 蓄積された莫大な神威を纏った青き刃が鞘を駆け抜け、音も光すら超えた神速の居合。昇り龍が如し軌跡を描いた一刀が、百夜の身体を合技諸共呑み込み、粉砕した。

 そして同時に——

「——おやすみなさい、お母さん」

「あ、あァ……百合……どう、シテ——」

 百合の刃もまた、小百香の胸を深々と貫き、決着を迎えていた。

「今度は、ゆっくり眠ってください。それから……ありがとう」

 崩れ落ちる巨大な黒百合。その崩壊と共に訪れる浮遊感の中、百合は静かにそう告げる。

「あなたが私に向けていた愛情が例え鬼に対するものだったとしても、それでもあの頃の私はあなたに抱き締めてもらえるだけで幸せだったから」

 その表情はどこか悲しげで……しかし過去と向き合い、弱い自分と決別を果たしたことを自負する強い光が宿っていた。

「百合っ!!」

 と、その時自由落下に身を任せていた浮遊感が不意になくなり、どこか久しぶりにも感じる安心感を覚える匂いと感触に包まれた。

「まったく、遅いですよ。私今、何もできないただの人間なんですから、落っこちる前に助けてくれないと」

 横抱きにされる格好で空中で受け止められた百合が冗談交じりにそう告げる。そんな彼女の言葉に覇切もまた、笑って答えた。

「そいつは悪かった。道が混んでてな。間に合っただけで勘弁してくれ」

 言いながら着地し、黒百合の崩壊と同時に崩れる天ノ御柱から退避するべくすぐさま駆け出す。

「あ、兄さん……」

 そうして楼閣から飛び降りる瞬間、一瞬だけ見えた百夜の姿が目に留まる。

 膝をつき天を仰ぐ彼の視線の先には黒百合の花。

 その燃えかすを思わせる寂寥感の漂う姿に最後、複雑な思いを抱きつつも、別れの言葉だけを小さく呟いた。



「母、さん……俺は——」

 崩落に巻き込まれ己が身体の自由が次々と奪われていく中、しかしそれでも百夜は今この状況幸せを感じていた。

 自分に息子がいることすら忘却していた母。生まれてこの方まともに手すら握ってもらったことのなかった百夜。

 挙句あとから生まれてきた百合()に愛する母を奪われ、憎悪と憤怒を糧に生きてきたが、ここにきてその総てがどうでもよくなるような満足感を覚えていた。

 あの時、幼い頃に離れ離れになってしまった母と再会したその日、百夜は小百香に言ってほしかったのだ。


 ——ああ、百夜。こんなに大きくなったのね。


 その一言、その一言だけを言って抱き締めてくれれば、ただそれだけでよかった。

 もしそうなっていたなら、きっとこうはなっていなかった。

 己が狂気に流され、この場で明星と対立していた彼はいなかっただろう。妹である百合とも向き合い、千刃暁學園に鬼剋士特科の教官として赴任し、アクの強い覇切たち特科生に手を焼かされながらも共に笑顔で日々を過ごす未来もあったはずだ。

 しかしそんなものは、とうの昔に叶うことのなくなった夢の残骸。ほんの刹那の時の隙間にそのような幻想を垣間見てしまった気もするが、もう何もかもがどうでもいい。

 たった一つのすれ違いから壊れてしまった彼の心は、しかしこの時確かに救済されていたのだから。

(ああ、母さん……やっと、やっと——)


 ——抱き締めてくれたね。


 天から崩落してくる黒百合。その巨大な質量に押し潰されながら、百夜は心の底から幸せそうな表情で穢土の大地に沈んでいった。


       ◇


「——ここまで来れば、ひとまず大丈夫か?」

 穢土に訪れる際も通ってきた天門の分枝まで辿り着いた覇切と百合は、そこでようやく立ち止まり天ノ御柱の崩壊を眺めていた。

「これで、終わったんですよね」

「たぶんな。ここからじゃわからないけど、たぶんもうすぐ海上の戦闘も収束に……っ」

 会話の途中で不意に覇切の身体がふらつき始める。

「覇切さん……? って、ひゃあっ!?」

 がくんという衝撃と共に、二人折り重なるようにして地面に倒れてしまった。

「ちょ、ちょっと覇切さん! いいい、一体どこ触って……」

 真っ赤になって慌てる百合だったが、自らに覆い被さるように倒れてきた覇切の荒い呼吸に気付き、途中で言葉を飲み込む。

「ぜぇ、っはぁ……悪い。少し、疲れたみたいだ……」

 見れば、先ほどまでの随神鬼による変身は解けていた。無茶をした反動なのか、随分と疲弊しているようだ。

「まったくもう……仕様のない人なんですから」

 苦笑と共に、そっと身を起こして覇切の頭を膝に乗っける形で体勢を変える百合。

「悪いな……助かるよ」

「いえ、その……こちらこそ、ありがとうございました」

 唐突なお礼に覇切が怪訝な表情を浮かべると、百合は恥ずかしげに顔ごと視線を背けてしまった。

「色々、ですよ。これまでのこと全部ひっくるめて、です。覇切さんにはたくさん助けてもらったりしたのに、私ろくにお礼も言ってこなかった気がしますから」

「そんなこと気にするなよ。俺が勝手にやったこと……いや」

 と、言葉の途中で飲み込み、小さくかぶりを振る。

「そういう言い方も何だか冷たいな。それにそれを言うなら俺の方こそ、だ」

「え?」

 面食らったような顔をする百合。そんな彼女が何だか可笑しく、微かな笑みを浮かべながらあの日言えなかった言葉を告げる。

「生きててほしいって、あの時そう言われて……嬉しかったんだ。だからそう思ってくれて、ありがとう」

「——っ」

 その時、覇切は一体どんな表情を浮かべていたのだろうか。それは間近で顔を覗き込んでいた百合にしかわからないことだったが、言葉を受け取ってから完全に固まってしまった彼女の顔が、茹で上がっていくように徐々に赤く染まっていく。

「……? なぁおい、どうし——はぶっ!?」

 そうして真っ赤になった顔からいよいよ湯気が立ち昇りそうになったその時、ガバッと勢いよく覇切の頭を全身使って抱き込んだ。

「〜〜〜……っ! 〜〜っ!!」

 四方八方から襲い掛かる柔らかい感触や微かな汗の匂い交じりの花のような香りにどうにかなりそうになる。おかげで全身に抱えていた疲労感も吹っ飛んでしまったが、今度は彼女の豊満な一部分による桁外れの圧迫感に窒息しそうになってしまっていた。

 とうとう耐え切れずに肩をばんばんと叩くと、そこで我に返ったのか、百合は「はっ!?」という声と共に、急いで覇切の頭から身を離した。

「ごっ、ごめんなさい! む、無意識に身体が動いてしまいまして思わず……」

「けほっ……いや、こちらこそいい思いをして……じゃなかった。思わずっていうのは一体」

「あ、あの……だからですね……そのー……って、あ、あぁーっ!! あ、あれ見てください覇切さん!」

 無理やりという言葉がこれ以上にないくらい似合う話の逸らし方で、百合が指差した方向を、覇切もまた身体を起こして見つめる。

 すると遠くの方で、こちらに向かって手を振りながらやってくる秋桜たちの姿が見えた。皆遠目からでもわかるくらいの重傷を負っているようだが、幸いにして誰一人欠けることなく帰ってきた。

 手を振り返そうと片手を挙げたところで、視界を指す光に反射的に目を細める。

「朝日だ……」

 まるで自分たちの勝利を祝福するかのように燦然と輝く旭日(きょくじつ)の光が、穢土の大地を照らし出す。

 その光を背に受けながら立ち上がり、駆けてくる仲間の元へと走って迎えに行く覇切たち。


 長い長い夜を乗り越え、誓いの通り、共に朝日を迎えた戦友たちが互いの勝利を称え合い、心の底からの笑顔で皆の生存に歓喜した。



というわけで決着です! ちょっと最後急ぎ足になった気もしましたけどどうだったでしょうか? 覇切の能力は汎用性が高く今後も使えそうなものということで結構頭を悩まされました……環境支配もそうでしたけど。

何はともあれ東征伝第一部も次回で終了です。明日2/12投稿予定なので、最後までお付き合いいただければ幸いです。

それでは今回も読んでくださりありがとうございました!

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