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神州鬼狩東征伝(休止中)  作者: 織上ワト
第一章 千ノ刃、暁ヲ照ラス
11/14

第九幕 天ヲ象ル其ノ眼 其之弐 〜明星 対 超獣〜

其之壱の続きです。まずは秋桜たちの戦いです。前回の雪辱を胸にいざ!


神州豊葦原中国しんしゅうとよあしはらなかつくに》《鬼宿等位(きしゅくとうい)》《合技(ごうぎ)》《季華十二鬼将(きかじゅうにきしょう)》《千刃暁學園せんじんあかつきがくえん》《穢土(えど)


 穢土侵入禁忌区域の入り口よりしばし離れた火山地帯。噴き上がる炎が竜巻のようにうねり狂う景色の中、山肌に乱反射する轟音が周辺一帯に鳴り響いていた。

「づ、おおぉぉおおおおっっっ!!」

 閃光のような速さで迫る一撃必死の拳を、裂帛の気合と共に桜摩が横に受け流す。

 触れた瞬間骨まで響く衝撃が腕全体を痺れさせるが、ここで意識を逸らす余裕など一瞬足りとて存在しない。こちらが一撃を認識した頃には、直後にもう五発は追撃が来るものと覚悟しろとは在りし日の姉の談だが、ここに来て桜摩はその姉の言葉を文字通り骨身に沁みて実感していた。

「ぐっ……づ、らぁっ!!」

 先の拳撃の余韻が消えないうちに、放たれる肘打ち、胴蹴り、貫手に裏拳……一点でも接触点がズレれば腕ごと吹き飛ぶ徒手による絨毯爆撃を前に、それでも桜摩は刹那の見切りと生来の防御勘を頼りに、奇跡的にもその総てを捌くことができていた。

 もとより(こう)(じん)の面でさほど優れていない桜摩だったが、防戦一方とは言えここまでどうにか戦いを成立させられていたのは(けん)に抜きん出て優れた鬼宿等位と、そしてかつての姉との手合わせがあったからこそだった。

 憧れて、いつかは越えたいと思い、勝つための研究に研究を重ねてきた。次の行動に移る際の挙動の癖や好んで使う技の傾向、視線の動きに呼吸の調子……どんなに細かい仕草だろうと一切見逃さず、桜華本人すら気づいていない域での立ち居振る舞いに至るまで知り尽くしている。

 自分にとっての目標とも言える存在とこんな形でやり合うことになるとは夢にも思っていなかったが、しかしそこまで研究を突き詰めてもなお感じる姉との力の差には心底から嫌になる。

 加えて言うならこの勝負を成立できているもう一つの大きな理由。こうして姉と同じ土俵に上がれているのは、自分一人の力ではないということも気に食わない。

「——っ!? ちっ……」

 舌打ちと共に、不意に桜華の連撃が途切れる。一旦後退した彼女の頬には一筋の赤線が走っていた。

「残閃陣——烈刃(れつじん)天津風(あまつかぜ)!」

 獰猛な獣の如し眼光で桜華が睨み付けた先にいたのは、愛刀である偃月刀(えんげつとう)を振るい、不可視の斬撃を放つ比名菊の姿だった。

 前回の戦いで真っ先に戦力外となってしまった彼女の本領がここに発揮されたことで、戦場に以前とは明らかに違う流れを生み出していた。

 以前はなかった遠距離から飛んでくる斬撃に加え、要所に設置された抜群の斬れ味を誇る斬閃の罠。一つ一つの殺傷力はさほどではなくとも命中精度、冴之象に優れた比名菊が桜華のごく僅かな隙を縫って寸分違わず柔い部分を狙い撃ってくるため、無視することはできない。

 さらに言うならその砲台は固定ではない。一発放てばすぐさま場所を移動し、斬撃を空間に残すという環境支配の特性上、時間差での不確定で掴みどころのない連撃が可能となっている。

 故に位置が特定できない。見えない斬撃、捉えられない敵手の影。それらの要素が掛け合わさったこの状況で、桜華に与えられる精神的苛立ちは凄まじいものがあるだろう。

「鬱陶しい……また貴様から消えたいようだな……っ!」

「っ……!?」

「っのやろ……!」

 やがて我慢の限界を超えたのか、ギラリと光る桜華の眼が絶えず動き回る比名菊をついに捉え、壁となる桜摩の隙を突いてそのまま高速で抜き去っていく。

 前回も見せた視線で追うことすら不可能な域での超高速移動。故に再びこの場に比名菊の血が舞うことは決定事項に思われたのだが——

「行くわよ、梗! しっかり合わせなさいっ!!」

「っ……せーのっ!」

 桜華の進撃は、左右から挟み込むようにして放たれた大槍剣と番傘の攻撃に見事に阻まれた。

「ぐっ……!」

 (ごう)(れん)に秀でた秋桜の悪路王と(さい)に突出した梗の紅血花の、いわば協力合技。自分一人で完結する通常合技よりも、遥かに厳しい呼吸の一致を要求されるため、刹那のずれでも生じれば、ただの二連撃の不発に終わるところだったが、結果は見事成功。完璧な連携で叩き込まれた強力無比の一撃に、堪らず桜華は己が防御に全力を注ぐ。

「貴、様ら……!」

 かろうじて秋桜と梗の挟撃を防いだ桜華は、すぐさま反撃に転じようと拳を握ったのだが、振るった拳の先に影はなく、すでに遥か遠くに離脱した後だった。

「おらどこ見てやがる!」

 そうして繰り出された桜摩の蹴撃を躱したところで再び繰り返される攻防劇。

 型に嵌められ、事実上行動を制限された今の桜華にとって、このような戦いは全く以て趣味じゃなかった。

「ちぃっ! 苛々させてくれる蝿共がぁっ!!」

 沸々と煮え滾る感情をぶつける先を失くし、吠え猛る桜華の様子を見て、秋桜は人知れず心の中でほくそ笑んでいた。

 超獣と揶揄され、圧倒的な白兵戦特化の万象術性能を誇り、鬼剋士最強と謳われた桜華だったが、何も全く隙がないというわけではなかった。

 姿を捉えられないほどの敏捷性に山をも吹き飛ばすと嘯かれる膂力。確かに脅威という言葉すら可愛く思えるほど他を寄せ付けない化物ぶりだが、魔術や妖術使いというわけではない。

 要するに能力値が飛び抜けているだけ、奇々怪々な術を行使しているように見えているだけで、やっていることはただの格闘術の延長に過ぎない。たったそれだけのことで天下を取るその怪物性こそ脅威に他ならないのだが、逆を言えばそれだけしかできないのだから能力の謎解きに頭を使う必要はないし、対処としてもやることは通常の白兵戦の基本と同じだ。

 つまり、作戦はこう。

 地の防御力に抜きん出て対桜華の動きを知り尽くしている桜摩を矢面に、比名菊が遠距離からの環境支配でその支援。隙を作ったところで、攻撃系統の力に突出している秋桜と梗が二人で全力の合技を叩き込む。

 前回は各々が自らの特性も弁えずに怒りに任せて行動したが故に自滅した。その反省を踏まえての徹底した役割分担。

 ここに来る前に皆で話し合って見つけた唯一桜華に付け入ることのできる隙。これしかないと、そう判断した末に行きついた作戦はここまで予想以上に上手く回っていると言っていいだろう。

(とは言え……っ!)

 間断なき攻防の最中、この作戦が相当な綱渡りであることは秋桜自身も自覚していた。

 そもそもの話、桜華の隙、弱点などと称して自分たちの戦意を鼓舞してはいたが、その言葉の前には強いて言うならば(・・・・・・・・)という大前提がついてくる。

 先に挙げた弱点など、普通なら弱点とも言えないようなただの戦術基礎の一種だ。あれこれ理屈を捏ね回してみたものの、現在の状況は詰まる所戦闘における基本を忠実に守っているだけに過ぎない。

 しかしだからこそ、総てにおいて普通とは一線を画している桜華の唯一基本に則った部分(・・・・・・・・)。その針の穴ほどしかない希望へ続く通り道をこじ開けるために、こじ開けられると信じて、自分たちは己が能力を全力で振るうしかないのだ。

「はあぁぁああああっっっ!!」

 都合五度目の協力合技を放った後、ちらと比名菊、そして桜摩の様子を窺う。

「はぁ、はぁっ……!」

「く、そがっ……おるぁあっ!」

 戦闘が始まってからまだ僅かな時しか経っていない。にも拘らず二人の体力はかなりの消耗を見せていた。

 中でも桜摩の疲弊具合が酷い。仲間内では体力、持久力の万象術——活之象(かつのしょう)に最も優れた彼ですらあの様子だ。それだけに桜華との直接対峙は想像を絶するものがあるのだろう。

 単純な体力、耐久力の損耗に加え、間近で叩きつけられる絶対強者の重圧感。比名菊など一度死の淵にまで追いやられたからこそ、桜華に対する恐怖は誰よりも大きいはずだ。

 にも拘らず二人とも文句の一つも言わずに壁役を引き受けてくれた。

 今回の作戦で最も負担が大きく、そして重要なのはこの壁役の存在だ。

 彼らが全力で桜華の行動を制限してくれているからこそ、自分や梗が攻撃に意識を専念することができている。でなければ、とっくの昔に前回と同じ結末に倒れている。

 だったら、その尽力に応えないわけにはいかない。

「う、らあぁあああっ!!」

「っ、せやぁっ!」

 そして開戦から十数度目を超える協力合技——

「ぐ……づ、ぁっ」

 ここに来て、初めて桜華の防御が崩れた。

 その一瞬を見逃さず、秋桜と梗は刹那の間に視線を交わすと、離脱の足を反転させ、追撃のために再びそれぞれの得物を振りかざす。

 もはや壁役二人の疲労も限界に差し掛かっている。その瞬間に訪れたここ一番の好機。


 ——ここで攻めずにいつ攻める!


緋燕崩墜(ひえんほうつい)——」

「咲け、紅血花——」

 地を這うほどに身を低く構えた梗と、二対の紅髪を纏う炎と共になびかせながら回転跳躍した秋桜の神器が、無防備を晒した桜華に向かって撃ち放たれる。


「——火車落(かしゃおと)し!」

「——多段変形、太刀薊(たちあざみ)


 天と地の両方から襲い来る巨大な(あぎと)の如し二つの赤が、桜華の華奢な身体に喰らい付いた。

「がはっ……!?」

 回避も防御も間に合わせず、初めて桜華に与えた決定打。

 飛散する鮮血を視界に収めた秋桜は、その確かな手応えに無意識にぐっと拳を握り込んだ。

(事前に桜摩から聞いた通り……これなら、いける!)

 戦いの直前、桜摩から聞いていた桜華のもう一つの穴。それは異常に突出した剛と迅とは裏腹に、極端に低い防御性能——直接的防御力強化の堅之象と、神威による特殊攻撃を無効化する絶之象(ぜつのしょう)だ。

 低いと言ってもそれは桜華基準で、一般的に見れば平均よりも高い性能なのだが、それでも攻撃特化の秋桜、梗の連携には遠く及ばない。

 思い返してみれば、前回の対戦も桜華は攻撃を完全に避けるか、圧倒的な力で受け止めるかのどちらかしかしていなかった。他を超越し過ぎたその実力に隠れて見えづらくなっていたが、覇切のような例外を除いて殆どの鬼剋士には不得意分野が存在する。

 そして桜華も、その例外ではない。

「梗、一気に畳み掛けるわ! 続きなさいっ!!」

「合点承知、です!」

 先の攻撃から桜華の体勢はまだ持ち直しておらず、脳が揺れているのか視点も全く定まっていない。

 恐らくこれが最初で最後の絶好機。比名菊と桜摩の疲労も限界だ。ここを逃せば次はない。

「ふざ、けるな……貴様ら、如きに……っ!?」

「残念ながら大真面目! あんたはここで、終わりよっ!」

 纏う炎に照らされ無骨な輝きを放つ悪路王が唸りを上げて、桜華を襲う。最早梗との合技を使うまでもない。

 桜華に与えた負傷は甚大で、足にまで来ているのか、ぐらぐらとふらつきまともに立ってすらいられない状態だった。

 美しい輝きを放っていた桜色の髪はぐちゃぐちゃに乱れ、額から噴き出た血が美獣と称された可憐な顔を濡らしている。

 しかしここで手を緩めるような真似は絶対にしない。どれだけ一方的な展開になっていようと相手はあの超獣。何が起こるかわからないのだから、何かが起こる前に徹底的に叩き潰す。

緋燕天衝(ひえんてんしょう)——紅蓮爪(ぐれんそう)爆火尖刃(ばっかせんじん)!」

 まるで火山の噴火が如く、桜華の真下から突き上げられた秋桜の乾坤一擲。渾身の一撃を前に防御が間に合わず、まともに喰らった桜華の身体がくの字に折れ曲がりながら宙を舞う。

「が、ふっ……!」

 脳天まで突き抜ける轟然とした猛撃を受けてなお、意識を飛ばした様子のない桜華はさすがと言う他なかったが、ここまで来ればもはや勝敗が決する瞬間も近い。

「ごはぁっ!?」

 落下を待たずして梗の紅血花が桜華の身体を弾き飛ばす。向かう先には赤々と燃え盛る焦熱地獄。ぽっかりと口を開いた火口の中へと桜華の身が落ちていく。

(敗、ける……? この、私がっ……!?)

 天地すらわからない浮遊感と肌身を焦がす灼熱の中、桜華は己が敗北の未来を想像し、かつてない恐怖をその身に覚えていた。

 敗けたことがないとは言わない。いくら武術に優れていると言っても所詮はひ弱な女の身体だ。幼少期、天賦とも言える格闘技能の才能から、同年代の男共に後れを取ったりすることはなかったが、さすがに体格が圧倒的に違う大人との仕合では勝負にすらならなかったことを今でも記憶している。

 しかし、鬼剋士の(この)身体になってからは話が別だ。

(地獄を見た……)

 今は亡き父は陰陽寮の高名な術師だった。同じ人を越えた超常存在の創製を目的としながらも、理念の相違から第一人者である月代兎和子と対立していたその父が、自らの血統を最強と仕立てあげるために被験体として研究班に差し出したのが自分だった。

 手始めに恐怖に泣き叫ぶ自分を押さえつけ、四肢をへし折り逃走を封じた。その後に待っていたのは、血反吐を吐いた修行の日々が極楽に思えるほどの非人道的な実験の連続だ。鬼の臓腑を口の中に無理矢理捻じ込まれたこともあった。身体の一部を切断され、鬼のそれと接合されたこともある。終いには鬼との交配などという狂気の沙汰に付き合わされたことも……。

 しかしそんな、そんな地獄の日々から救い出してくれた人がいた。

(感謝、していますよ……父上。あなたの馬鹿げた研究に付き合わなければ、あの人との出会いは、なかった……)

 憎悪の対象だった父。あの人に救い出されたその日の内に自らの手で縊り殺してやったが、それでもその一点だけに関して言えば感謝の念を覚えていた。

(だからこそ……私は)

 あの日総てを捧げると誓った。

 自分の総てを救ってくれた、だから自分の総てはあの人のもの。あの人の手となり脚となり、行く道を遮るものは何であろうと破壊する。

(……例え人でも鬼でもない、一匹の魔獣と化してしまっても、私は——)

 湧き上がる熱を持った想いとは裏腹に身体はぴくりとも動かない。最期に己が恋い焦がれるあの人の姿を思い描き、ただ虚しく……墜落()ちていくだけだった。



「——……」

 梗の一撃の後、追撃に移ろうとしていた秋桜だったが、桜華の飛ばされた先を確認して咄嗟に急停止をかけた。いくら自分が火属性の神威を宿していたとしても、あの中に飛び込んでいくのは無謀が過ぎる。

 それに最後に見えた桜華の姿は、風前の灯火を彷彿させるほどの瀕死状態だった。さしもの超獣と言えど、あの状態で煮え滾る炎の海へと落下すれば跡形もないだろう。

「桜摩君……」

 総てが終わった空気をようやく実感し一息ついたところで、比名菊の沈んだ声が疲弊しきって座り込んだ桜摩へとかけられる。

「はぁ、はぁ……何て面してんだ、先輩さんよぉ。こんな様だが、俺たち勝ったんだぜ? もっと胸張ろうや」

「ですけど桜摩君……私たち、あなたのお姉さんを」

 出撃前、相手が姉であろうと関係ないと言っていた桜摩だったが、実際に戦いが終わった後に去来する想いは筆舌に尽くしがたいものがあるだろう。

「桜摩、許してくれとは言わないわ。恨むんならあたしを恨みなさい」

「梗も、おーまくんに嫌われたくないけど……でも」

「だあぁーっ! もううるっせぇなてめぇらはっ!」

 踵を返して戻ってきた秋桜たちも桜摩に気を遣い言葉をかけるが、当の本人は鬱陶しそうに大声を上げた。

「俺はいちいち自分(てめぇ)の言葉をひっくり返したくねぇんだよ。思うところが何もねぇっつったら嘘になるが、てめぇら恨むなんざ論外だろうが。それだったら俺自身も同罪だ……だからいつまでも辛気臭ぇ顔してんじゃねぇっつの」

 そう言って疲労で足をがくがくと震わせながらも立ち上がる桜摩。

「のんびりしてる暇ぁねぇだろ。東雲たちの加勢に行くなり、浄土に戻るなりやることあるんじゃねぇのか?」

 明らかに強がりだとわかる言葉の数々だが、桜摩なりに秋桜たちのことを気遣っているのだろう。本人が平気だと言っているのだから、これ以上の慰めはただの自己満足になってしまう。

 それに言っている内容自体も一理あった。

「そうね、確かにここでいつまでも余韻に浸っている余裕はないわ。みんな疲れてるだろうけど、まずは——」

 と、緩んだ気を引き締め、秋桜が次なる作戦行動に移るための指示を出そうと口を開いた……その時だった。

「な、何……!?」

 大地が、突然大きく脈動するかのように激しく震えた。

「何ですか!? ……きゃっ!?」

 大地の震えは一度ならず、二度三度と回数を増すごとに規模が大きくなっていく。

 突然の出来事に、皆が動揺の色を隠せず立っているだけで精一杯となる。新手の鬼かと、地面が不安定に震える中で警戒し武器を構えるが、そこでさらなる異常事態がその場に起こった。

「火口が……っ」

「まずいっ……みんなすぐに離れて——」

 目の前の火口から豪炎が噴き出し、瞬く間に視界が紅蓮に染め上げられる。凄まじい噴火を間近にして、すぐさま退避行動に移ろうとする秋桜たちだったが、しかし——

「——っ!?」

 直後に、皆の動きが一斉に凍り付いてしまったように停止した。

 全身からぶわっと冷や汗が噴き出し、知れず動悸が早鐘を打つ。押し潰されるような息苦しさに呼吸は荒くなり、全身の震えから歯がカチカチと鳴ってしまうのを抑えられない。

 まるですぐ傍から飢えた猛獣に睨まれているかのような気配。この殺気には……覚えがある。


「——ぐるる……」


 戦慄と共に振り返ったその先。噴き上がる炎のその中に、見るもの総てを焼き焦がす太陽のような激烈な光を目にした。

「冗談、でしょ……?」

 猛火の中からギラリとこちらを睨みつける血の赤に染まった双眸。唸り声を漏らす口からは長く鋭い牙のような犬歯が顔を覗かせ、両爪も刃物を思わせるほどに長大で鈍い光を放っている。

 そしてかつては可憐さを体現していた桜色の美髪。熱風に靡かせる(たてがみ)の如しその長髪の色は、金色(こんじき)

随鬼(ずいき)惟神人(かむながら)——」

 人ではない、さりとて鬼でもなく……二つの魂を併せ持つ超常だけが許された、この世の法理を外れた異能がここに発露し現れる。


「——獣牙招来(じゅうがしょうらい)! 魔天変生(まてんへんじょう)金色獅子王(こんじきししおお)ぉぉおおおおおおおっっっっ!!」


 自身の身すら焦がし焼く、恋慕の鎖に縛り付けられていた黄金色の魔獣が己の拘束具を喰い千切り、ついに現世へ解き放たれた。

「桜摩っ、何なのよあれ聞いてないわよ!」

「っ……知るかボケッ! 俺だってあんなの見たことねぇぞ!!」

 轟く魔声が大気を震わし、逆巻く暴風がびりびりと全身を打ち付け苛んでいく。

 火山の中に落下してなお生きていた事実も驚嘆に値するほど目を疑う出来事だが、それ以上にこの場に戻ってきた桜華の変貌に本能的な恐怖を覚えてならない。

 まさか姿形だけが変わってただそれだけなどということはあり得ないだろう。何が起こるかわからない現況はまさしく秋桜が危惧していた状況そのもの。

(眉唾程度にしか思ってなかったけど……まさかこれが鬼狩りの、異能……!?)

 鬼剋士は融合した鬼の魂の力を、通常時はほんの一割程度しか引き出せていない。あまり鬼の魂を表に出し過ぎると鬼化の危険性があるからなのだが、もしも鬼の力を鬼化の寸前、限界ぎりぎりという域まで引き出すことができたのなら……その時鬼剋士は、超常をさらに超えた異能の力を手にすることができるのだという。

 秋桜も十二鬼将級の鬼剋士でないと扱えないという噂程度の認識しか持っておらず、実際に目にしたこともないため、さして信じてもいなかった。

 しかしもしも、もしもその異能とやらが本当に今ここに発現したと言うのなら、はっきり言って勝ちの目が限りなく薄くなったと言わざるを得ない。

 先ほどまでですら手に負えなかったのに、ここにきて特殊能力まで使われては——

「——秋桜ちゃん!」

 比名菊の声にハッと我に返った時には遅かった。

 一瞬たりとも目を離していなかったはずの桜華の姿が忽然と消え去っている。

(死ん——)

 刹那の油断から自らの死を悟った秋桜だったが、訪れるはずの痛みはいつまで経ってもやってこない。代わりに耳に届いたのはすぐ後方から響いた肉の千切れる不快音。

 どちゃっと、何かが崩れ落ちる音が聞こえた。

 戦慄と共に振り返る。

「ぁ……え……?」

 目の前の現実を受け入れられず、茫然とその場に立ち尽くす。

 その視線の先にあったのは——

「ぁ、かふっ……」

 血の海に沈み、身体の中心で真っ二つに裂断された——梗の悲惨な姿だった。

「……まず、一人だ」

 腕に滴る梗の血をぺろりと舐めて、凄惨に笑ってみせる桜華。足元に転がる彼女の下半身を足蹴にし、こちらを挑発するように転がしてみせた。

「いやぁあっ!? 梗ちゃん!!」

 比名菊の悲痛な叫びがその場に響く中、秋桜は瞬時に脳内の思考を高速で回転させていた。


 ——この展開は、絶対にいけない。


 真っ先に浮かんだその言葉は当然と言えば当然のものだったが、そこには明確な理由がある。

 桜華が変貌を遂げる前、曲がりなりにも一度は勝利の目前にまで辿り着けたのは、前回の敗戦とは違う展開を演出できていたからに他ならない。無論のこと全員の奮闘があったからこその結果だということにケチをつけるつもりなどないが、のっけからこちらの流れに持っていけていたのは非常に大きい。

 しかし今の状況は違う。一目見て桜華の流れだとわかることもさることながら、倒れる人物が違うというだけで展開が前回と全くの同じなのだ。

(このままだと確実に、全員死ぬっ)

 そう理解した秋桜の行動は早かった。梗が倒れてからここまでほんの一瞬の時しか流れていなかったが、ここで前回と同じ流れに乗ってしまったら今度こそ本当に終わる。

「全員伏せなさいっ!!」

 咄嗟に叫び、確認する間も惜しんで悪路王を力一杯足元へ振り下ろす。全力を込めた一撃は一帯の地面を陥没させ、激しく砂埃を舞い上げた。

「梗っ、生きてる!?」

「ぁ、きぉ……姉ぇ」

 目くらましの一撃の後、真っ先に梗へと駆け寄ってみると彼女はどうにか即死を免れていた。しかし重傷を飛び越えた致命傷なのは火を見るよりも明らか。胴を力任せに捩じ切られ、内臓をぶち撒け転がる姿は死体も同然だ。

 いくら鬼剋士であろうとこれでは……。

「ぇ……何……?」

 と、不意に袖口をくいっと引っ張られた。すでにその瞳は虚ろで握る手も全く力がこもっていなかったが、その時確かに梗は秋桜に何かを告げていた。

 伝えられた言葉は瞬時に意味を理解できないものだったが、返事をする前に事態は急展開を迎えることとなる。

「——っ!?」

 背中に、とんでもない圧を覚えた。振り向くまでもなくわかる、気配というにはあまりにも密度が濃すぎる存在感。空間が歪むほど有り得ない域での力がその一点に凝縮され、そして——

「がるるぁああああっっ!!」

 大地を揺るがす拳撃が火山地帯全土を震わせた結果——一帯の地面が、消失した。

「ぐ、おおおっ!?」

「きゃあぁぁああ!?」

 唐突に訪れる衝撃と浮遊感に皆が水中で溺れたようにもがきながら、落下していく。

「がっ!? はっ……」

 そうして永遠にも思えた長い落下の末、叩き付けられた衝撃に果てしない激痛を覚えながらずるずると顔を上げれば、そこには信じがたい光景が広がっていた。

「大、地が……」

 眼前に広がる景色は最早以前の見る影もなくなっていた。

 先の秋桜の一撃など比べ物にならない。周辺どころかこの場を中心とした地域の総てを巻き込み、丸ごと地形が変わっている。

 一瞬前まで立っていた火山地帯は完全に吹き飛び陥没を飛び越えた谷と化していた。平野だった周辺地帯は地盤が大きく隆起し今なお地鳴りを上げている。どろどろと溢れ出た溶岩の川はここが地獄であると錯覚させるには十分すぎる演出だ。

「ぐるるぅっ……!」

 そして明星の皆が傷つき倒れる中で唯一この場に君臨している黄金色の獣姫。最早考えるまでもなく明白だろう。

(あいつの、能力は……自分自身の鬼宿等位の、増強)

 複雑な条件、誓約など一切ない、ただただ単純に己の力を強化させる異能力。とはいえそれを以てして肩透かしだと揶揄する気は全く起きない。むしろこの超獣がそのような単純な異能を持ってしまったことこそが最大の悲劇と言えるだろう。

 元から振り切れていた剛と迅、その両方が今や計測できない域にまで及んでしまっている。目が良いわけではない秋桜にすら見える濃縮された桜華の神威。

 鬼宿等位の変化は原則的に起こり得ない現象であるが、その不条理を起こすものこそが鬼剋士最大の異能、随神鬼(かむながら)

 桜華は剛と迅を除く総ての能力を犠牲とすることを条件に、それを可能としていた。さらには己の人間性すら捨てているのか、先ほどから徐々に言葉らしい言葉を失い始めているように思える。

(本気で……あたしら殺そうって、そういうわけ、ね)

 鬼剋士最強と言われる彼女がそうまでして全力の敵意をぶつけてくることなど、まずないだろう光栄なことなのだが、それを以て喜ぶ気など起きるはずもない。

「くっ……」

 折れているであろう脚を無理やり地面に突き立て立ち上がる。

「炎舞、陣……」

 グラグラと揺れる視界の中で再び炎を纏った。

 そうだ、まだ終わっていない。むしろこの展開を好機と思え。

 桜華は今攻撃系統の力に総てを注いでいる。ということは防御は先ほど以上に皆無なのだ。当たりさえすれば例えどんな小さな一撃だろうと致命傷を与えることができる。

(そうだ、これは絶好の——)

「ぐるる……」

「ぅ——!?」

 だがそんな希望的観測をあっさりと踏みつぶし、瞬間移動にも等しい速度でいきなり桜華が目の前に現れた。そして無造作に突き出された右腕。

 偶然にもその瞬間、折れた足のせいで後ろに倒れてしまったことは本当に奇跡としか言いようがない。

 ゴッ、という微かな音が耳に届いた。周辺の風景に変化はない。だが無意識に振り返ってしまった視線の遥か先、そこにあった異様な景色に、瞬間眩暈を覚えた。

「山が……」

 霞みがかって、茫洋とした輪郭しか確認できないほど遥か遠方にある山脈。その一角の山頂から中腹までが、ぽっかりと円形に抉り取られていた。


 ——拳の一撃で山をも吹き飛ばす。


 超獣が超獣たる所以の言葉を、今になって初めて現実のものと認識する。

 あまりに正常から逸脱しすぎた戯画的な光景に、知れず喉奥から酸っぱいものが込み上げてくるのを抑えられない。桜華の怪物性はこれまで幾度となく体感してきた。しかしいくら何でもこれは……でたらめ過ぎる。

「がっ……!?」

 そんな風に余所見をしていたら首元を掴まれ、そのまま持ち上げられてしまう。

「ぁ、かっ……は」

 ぎりぎりと握られる力は恐らくかなり加減をしているのだろう。あの豪力のまま握られれば、その瞬間に首が胴から離れている。

 要するに、遊んでいるのだ。表層化してきた獣性が、獲物を嬲る楽しみを覚えてきている。

(ああもう、くそったれ……いい線いってたと思ったのになぁ……ごめん、覇切)

 脳に酸素がいかなくなり、意識が霞んでくる中、秋桜は一人此度の作戦行動前の覇切とのやり取りを思い出していた。



『秋桜、お前に一つ頼みがある』

『何? 藪から棒に』

 各々が出撃準備に勤しむ中、やけに真剣な顔をした覇切がやってきた。

『別に今回に限った話じゃなくて、これからの俺たちのことを考えてのことなんだけど……秋桜、お前明星の副長やってくれないか?』

『はぁ?』

 脈絡もなく突然告げられたその言葉に、素っ頓狂な声を上げてまじまじと見返してしまったが、覇切の表情には冗談の色は見られない。

『いきなり何言いだすのよ。今までそんなこと一言も言ってなかったじゃない』

『いや、別にいきなりってわけじゃない。実はこの話、俺が隊長に指名された日に義姉さんから言われてて……これから特務分隊として活動していくに当たって、いつも六人全員が揃っているとは限らないから、隊長の代行を決めといた方がいいってな』

『ああ、それで……まぁ言いたいことはわかるけど、何であたしが』

 当然と言えば当然の疑問だろう。消去法でいけば確かに性格上向いてそうなのは自分か比名菊くらいしかいないだろうが、それだったら年長者である比名菊を取るべきだ。

 そう告げると覇切は顎に手を当て、少し考える仕草を見せた後にふっと微笑んでみせた。

『そうだな……お前はいつでも冷静だし、土壇場での思い切りもある。実際それで俺や百合も一度助けられたし、実力も十分……とか色々と理由はあるしどれも嘘じゃあないんだが、学園長風に言うなら……お前が副長に向いてるって、他ならぬ隊長の俺がそう判断したから、かな。あとは——』



 あの時自分はきっと鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたことだろう。

 そして最後にもう一言、何と言われたんだったか。その言葉がきっかけで結局押し切られ首を縦に振る羽目になってしまったのだが、何にせよこの状況になって、やはり自分は指揮官には向いていないと自覚してしまう。

 ここまでの戦いの中、覇切ならどうするか、彼の指揮ならきっとこうするだろうと考え、皆の一挙手一投足を気にかけながらやってきたが、その結果がこの様だ。

(やっぱ、あたしには向いてないわ……)

 そもそも自分はこういう細かいことを考えながら作業するのが心底苦手だ。何をやるにも手順通りに丁寧に事を進めるなんて出来た試しがないし、終わり良ければ総て良しだと常々思いながら直感で行動しているのは否めない。

(だから……ごめん、覇切)

 自分には、覇切と同じことはきっと一生できない。

「……?」

 ろくに力の入らない手で桜華の腕を掴む。するとその意味が分からなかったのか桜華が首を傾げながら、間髪入れずに首を掴んでいる腕とは反対の手で秋桜の手首を握り潰した。

「ぎ!? ぁぐぅ……!」

 ぐしゃりと嫌な音が響き、骨は粉々に砕け、鮮血が派手に噴き出すが、離さない。絶対に、離してなるものか。

(覇切と同じことは、あたしにはできない。だったらあたしは——)


 ——あたしなりのやり方で。


(みんなの命を、背負ってやるわ!)

 瞬間、二人の足元にぽっと、光が灯る。微かな灯り程度の光だったそれは瞬く間に大きくなり、そして————触れるもの総てを焼き焦がす業火の大熱へと変貌した。

「っ……!?」

 自らの金光すら打ち消すほどの光の膨満。その異常な現象に危機感を覚えた桜華が、反射的に秋桜から手を離す。

「ぐっ、げほっ、げほ……くっ、ふふ、ばーか」

 しかし、その時にはすでに遅かった。光の中心——秋桜が桜華に首を絞められてからもずっと手放すことのなかった悪路王。その黒光りした切っ先が、今は赤々と激しい烈火の輝きを見せていた。

「逃げても無駄だっつーの。あたしも含めてね」

 神器、悪路王はただの鉄屑ではない。

 鬼剋士個人のため専用に鍛造された神器は、使い手の神威が伝導しやすいように特殊な加工が施されている。そして場合によっては鬼剋士の特性が存分に発揮できるよう固有の機能が備わっているのだ。

 悪路王のそれは、術者の属性神威の蓄積、圧縮。

 実に前回の敗戦のその翌日、雪辱を胸に誓ったその時からこれまでの間、悪路王を通して絶えず溜め続けてきた莫大な規模の秋桜の神威が今ここに解放される。


緋燕爆葬(ひえんばくそう)——大焔玉(ほむらだま)


 勝つために、生きるために、この一撃に全部を賭けるから。だから——

「あんたたちの命も、今ここであたしに賭けなさい!!」

 明星の一員として拒否することは許さない。団員全員への気配りなんて、気を揉むような細かい仕事は自分には無理だ。だったら全員のケツ引っ叩いて、無理矢理引きずり回す方が性に合っている。

 そんな強引極まりない信頼を乗せた声と同時に、朱色の光で視界が埋め尽くされた。

 爆心地にいた秋桜はもちろん、高速で後退する桜華、他の仲間たちも含めた総てを巻き込む大爆発。

 どれだけ高速で躱せる敏捷性があったとしても、隙間を失くしてしまえば意味はない。欠点は自分も仲間も巻き込んでしまうことだが、そこでいちいち謝罪も断りも必要なかった。


 ——あたしがそう決めたんだから、あんたたちも気合いで何とかしなさい!


 そんな一方的でごり押しが過ぎる副官の命令に、皆が文句を言いつつも何くそと応えてくれることを知っていたから。

「がっ、ああぁぁぁぁあああああっっっっ!!」

 そうして爆発の晴れた跡地で、全身黒焦げになりながらも向かってくる影があった。最早理性の欠片もなくした獣の女王が、自らを追い詰めた敵を喰い殺そうと身の毛もよだつ咆哮を上げながら牙を剥く。

 こちとら指一本すら動かせないほどの重傷で意識を繋ぐことで精一杯だというのに、いまだ大地を駆ける力が残っているのはさすがと言う他ない。だが、しかし——

「がぅっ!?」

 突如桜華の肌に無数の赤線が走った。なけなしの神威で創造した環境支配が一体誰のものなのかは、言うまでもないだろう。

「はぁ、はぁ……まったく、うちの副長さんは無茶を言いますわね。ですがそう言われてしまっては、私も泣き言を言うわけにはいきませんわ」

 地面に膝をつきながら、秋桜と同等に重傷を負った比名菊が力なく笑っている。

 己が身体に傷をつけたもう一人の敵の生存に桜華は瞬時に目標を変え、怒りの眼差しで射抜いたのだが、直後全身の毛がざわりと逆立つほどのとんでもない濃度の殺気に動きが止まる。

「……あんたさぁ、いい加減あたしらのこと舐め過ぎ。嬲りいたぶり結構なことだけど……うちの(・・・)見習ってもっと真剣に戦い楽しんだ方が健全よ? ねぇ……——梗?」


「——あっは!」


 秋桜の呼びかけに、狂喜に満ちた笑い声が静かにその場に響く。

 瞬間、桜華はどぷんと自分の足が底の見えない沼の中へと足を取られてしまったかのような錯覚に陥った。

 もがけばもがくほどに沈んでいき、ゆっくりと這い寄る死の気配。

 強者が有する圧倒的力に対する恐怖ではない。この気配はまるで亡者。それも決して死なない屍兵を前にしているかのような不気味さに、思わず闇雲に腕を振るってしまったのがいけなかった。

「見ぃつけた。梗を虐める悪い悪ーい手。だから、ねぇ……——」

「ぐ……っ」

 そこにあったのは鮮烈な赤を滲ませた死出の花。大輪を咲かせた紅血花の花弁の裏から、自らの血に塗れた梗が悦楽の笑みを覗かせる。

「——その腕、梗にちょーだい?」

 喜悦を押し殺したような声音と同時、桜華の鮮血が宙を舞った。

「ぐ……がああぁぁああ!?」

 何の呵責も遠慮もなく一瞬で己が利き腕を花の(あぎと)に持っていかれ、桜華は堪らず悲鳴を上げる。

 先ほどまでの万全の状態ならいざ知らず、秋桜の捨て身で力の大部分を削られた今の桜華では体力も耐久力も限界だ。

「え、へへ……ごちそうさまぁ」

 頬に飛んだ返り血をペロリと舐めながら亡者の如く地を這いずる梗は、恍惚に表情を緩ませていた。

 しかしいくら人間的理性を失った桜華でも、これは完全に想定外の出来事だったことだろう。

 この少女は真っ先に殺したはずで、それと言うのも直感的に生かしておくことに最も危険性を覚えたのが彼女だったからなのだ。しかし信じられないことに、立ち上がることさえできていないものの、真っ二つにしたはずの身体が今はもう元通りに接合されている。

 梗は堅之象に劣っている代わり、自己治癒能力の快之象に特別秀でているが、それを加味してもさすがにこれはあり得ない。

 一体どういう理屈で治療したのか……いや、これは治るというより——

血咲陣(けっしょうじん)。くっつけるのに時間かかっちゃったけど、おかげで今はとぉっても楽しい、よ?」

 梗の環境支配。神威を己の血肉に変化させ、瞬く間に失った部位を再生(・・)してしまう。

 まるで花が咲く様に肉付いていく光景は、見る者が見れば非常に悍ましいものだったが、どれだけ傷ついたとしても戦い続けることこそを至上の快楽に求める、実に梗らしいとも言えるものだった。

(こんな状況だってのに、嬉しそうな顔しちゃってさ)

 桜華にやられた直後、梗が秋桜に告げた言葉。


『——楽しいね。秋桜姉ぇ』


 自分が死にかけている危機的状況だったというのに、そんなことを言っている梗に秋桜は末恐ろしいものを覚えたのを思い出す。

 その無邪気とも呼べる戦闘欲は敵に回したらと思うと怖気が走り、しかし味方であるならこれほど頼もしいものはない。だから同時に、賭けてみたくなったのだ。

「桜月桜華……あんたの敗因は、さらなる強さと引き換えに人間性を捨てたこと。そうなる前のあんたなら、遊んでないでさっさとあたしら全員殺してみせたことでしょうね」

 人間としての理性を犠牲に力を手に入れた桜華。しかしその代償のせいで精神の獣化が進み、人間性を保っていた時には決してありえなかった慢心を抱き、それが決定的な弱点となってしまった。

「ほら、ここまでお膳立てしてやったんだから……最後はあんたが決めなさいよ」

 梗の再生能力は正直賭けだった。あの時のやり取りで、もしかしたら何かをやってくれるんじゃないかという予感はあったものの、それだけに不発だった時のしっぺ返しは痛い。

 しかしあの爆発の後、他の誰もが行動不能になろうともこいつの防御能力なら(・・・・・・・・・・)絶対に動けるだろうと(・・・・・・・・・・)いう確信があったから(・・・・・・・・・・)、こちらは賭けというより予定調和。

「姉の不始末は弟の責任でしょ! わかったらとっととカタぁつけなさい! 桜摩っ!!」

 梗の攻撃に片腕を失い、己が劣勢を悟った桜華は本能に従い我知らずその場から後退していたが、不意にその背中がどんと大きな物体にぶつかった。

「——っるせぇな、くそったれ……」

 そうして振り返り見上げたそこに、巌を思わせる大きな身体があった。

「んなこたぁ言われなくてもわかってらぁああっっ!」

 飛んできた檄を視線も向けず乱暴に受け取り、無頼を貫く巨漢が自らの負傷を丸ごと吹き飛ばすような怒声を上げる。

 桜摩の気勢を目の前に叩きつけられ、一瞬気圧されたように後ずさる桜華。しかし見上げた先に重なった視線を意識した瞬間、その身体が反射的に動いた。

「ぐ……るぁぁぁああああっっ!!」

 頭上から振り下ろされる巨大な拳を前にして、桜華は咄嗟に自らも拳を突き出してしまう。

 本能に従い行動するなら、この時彼女は逃げるべきだった。まだ足は健在なのだ。桜摩は最も負傷が軽微だと言っても重傷には変わりなく、速度で言うならこの状況になっても俄然桜華が最速。

 だから追い詰められたと言って過言ではない負傷を負った今、最良の選択は逃走することの他にないはずだったなのに……自らを見下ろす桜摩の瞳を目にしてしまったその瞬間、身体の内側、奥の奥から込み上げてくる想いがあったのだ。

「あんたはっ、俺の、憧れだったんだ……! 誰よりも強くて、どんな野郎が相手でも絶対に倒れねぇ、誇り高い戦士だった!」

 両者の中心でぶつかり合う拳と拳。互いの神威がまるで火花のように弾けて輝き、突き出した拳の骨がミシミシと軋みを上げて砕けていく。血管が破裂し、視界に血飛沫が舞う中、桜華は目の前の男の口から紡がれる言葉の数々に肉体以外に走る痛みを覚えていた。

 何故だ。意味が分からない。この男は何を言っている?

 すでに人としての精神を限界まですり減らし、目の前の存在が実の弟であるという事実すら忘れてしまった桜華の(こころ)。しかしどうしてか懐かしさを覚えるその声に、感じ入るものがあった。

 その瞳に映っているのは怒りか悲しみか。理解はできなかったが、彼の瞳を前に、ほんの少しだけ……後ろめたいと思ってしまった。

「でもなぁ……今のあんたはただの獣だ。誇りもクソもありゃしねぇ。戦う前は確かに感じたあんたの重さが、今は何も感じねぇ! だからっ!」

 奥歯を噛み砕くほど食いしばり、ぎりぎりと拳に力を込めて固く握る。負傷と疲労から鑑みる互いの消耗はほぼ同等。天と地ほどはあった実力差は先の爆発と梗の襲撃でチャラになっている。

 だったら後はもうただの意地の張り合い、気合と根性の勝負だ。そしてそういうことであるならば、自分は誰よりも融通の利かない石頭だという自信があったから。

 桜華の瞳に一瞬だけ見えた気後れ。その刹那の好機を見逃さず、この拳にありったけの意地(想い)を込める。

「俺が目ぇ覚まさせてやる! てめぇなんかに敗けて堪るかっ! 俺の憧れた姉上は……俺程度の拳でぶっ倒れるような、腑抜けじゃねぇんだよおおおぉぉぉぉおおおおおおおおおおっっっっっ!!」

 轟哮と共に振り抜かれた全身全霊の拳。桜華の拳を弾き飛ばし、己が主の意地を貫き通したその拳が彼女の頬へと振り抜かれた。

「が、はぁっ……!」

「ぐぉっ!?」

 そうして桜華を殴り飛ばした矢先、勢い余ってつんのめった桜摩が、そのまま顔面から地面に倒れ込んでしまう。立ち上がろうにも砕けた拳では手をつくことさえ敵わず、押し寄せる疲労感から指先を動かすだけで精一杯だった。

 本当に今の一発で総ての力を使い果たしたらしい。

 これで桜華に立ち上がって来られたらもはや打つ手はない。

 よもやそんなことはないだろうと、半ば祈りながらぜぇぜぇと息を吐いていたのだが、かろうじて顔だけ上げた目の前に、こちらを見下ろすように仁王立ちする影があった。

 その存在を確認して一瞬びくりと身構えた桜摩だったが、その緊張はすぐに解かれることとなる。

「んだよ……やっぱ倒れてねぇじゃん。いい加減くたばれよ……クソ姉貴」

 赤く腫れた頬に血の滴る失われた左腕、ぶるぶると震える足は今にも崩れ落ちそうになりながらも、ただ弟への矜持だけを胸に笑みを浮かべ立つ桜華がそこにいた。

「ふっ、はは……そうも、いかんだろう……どこかの愚弟に腑抜けとまで言われたのだ。そうまで言われたら、姉としては黙っていられないだろうよ」

 その表情は先ほどまで本気で争い合っていた敵のものではなく、まして理性を失った獣でもない。どこにでもいる普通の、弟のやんちゃを窘めるような優しい姉のものだった。

「許されようなどとは思っていない。最後こそ誇りを失ってしまったが、私にも私なりに守りたいものがあったのだ。しかし、お前の言う通り……何も感じないな、今の私からは。私が行っていたのはただの破壊だ。そうなった時点で、勝負はもうついていた」

 金色から桜色へと淡く変化していく桜華の髪が、穢土の夜風にさらさらとなびいていく。そこにはもう理性を失い、力以外の総てを捨てた獣の姿はない。

「私の敗けだよ。自ら勝負を投げ捨てた……いや、捨てさせられた私の、完敗だ」

 その言葉と、桜華のどこか晴れやかな表情を目にして、刹那の静寂が場に流れる。

「……勝、った?」

 ——勝負あり。その言葉を各々が理解し、自分たちの勝利を確信した直後、皆が一斉に勝利の歓声を上げ——

「あ、れ……?」

 ——ようとしたのだが、秋桜を始め、皆緊張の糸が切れたのか、意思とは裏腹に次々とその場に大の字に倒れていってしまった。

(あーもう、だっさ……せっかく勝ったってのに)

 というか勝った方が倒れて、敗けた方が立っているというこの状況は一体何なのだろうか。本人が敗北を宣言しているのだからそれでいいのだろうが、完全勝利を思い描いていた秋桜としてはどこか釈然としない。

 そんな風に胸の内にもやもやとしたものを覚えていると、自分の武器を杖のようにしてずるずる足を引きずりながら、比名菊が傍にやってきた。

「お疲れさまでした、秋桜ちゃん。見事な指揮でしたわ。私ではこうはいかなかったでしょう……最後の方は少々強引が過ぎましたけど」

「無茶振りも緊張感あってたまには良いもんでしょ?」

 言いながら首だけ巡らしてみると、梗は身体の方は再生しても疲労は戻らなかったようで紅血花を胸に抱きながらすやすやと呑気に眠っていた。その表情にほっと安堵していると、比名菊がくすっと笑う。

「覇切君が秋桜ちゃんを副長に選任した理由がよくわかりました。でも正直意外でしたわ。よく引き受けましたね。押し切られたと言っていましたけど、秋桜ちゃんの性格なら例えどんなに押されても断りそうなものですけれど」

 そんな風にどこか意味深な視線を送ってくる比名菊の言葉に、秋桜はとぼけるように視線を外す。しかしその仕草に比名菊はより一層ワクワクしたのか、目を輝かせながら詰め寄ってきた。

「前から怪しいと思っていたのですが、やっぱり秋桜ちゃん、覇切君のことが……」

「あーはいはい、そこら辺にしましょーねー、比名ちゃん先輩」

「やっぱりそうなのですね! いつからなのでしょう? いつからなのですか?」

 しつこく食い下がってくる比名菊に素っ気なく相槌を打ちながらも、秋桜は柄にもなく照れ臭さを覚えていた。

 何故ならこんな気持ちを抱く自分はこれまでの人生で初めてで、しかもそのきっかけが今まで有り得ないと心底馬鹿にしてきた現象だというのだから始末が悪い。

(……一目惚れよ。文句あるか、馬鹿やろー)

 心の中で悪態を吐き、初めて出会った日からこれまで、絶えず彼を目で追ってきた自分を思い出す。

 惚れた弱みとでも言うのだろうか。円陣の時には言わなかったが、詰まる所自分がこれまで戦ってきた理由なんてこれに限る。

 そういう意味で桜華には自分とどこか似たものを感じていたわけで、敗けたくないとムキになってしまっていた感は否めない。

 惚れた男が戦うと言っているのだ。だったらその隣……というわけにはいかなかったが、共に戦い勝利を目指すのが自分なりの良い女というやつだったから。

(って、我ながら情熱的過ぎるか)

 と、そこで副長に推薦されたときに告げられたもう一つの理由を思い出して、珍しく頬が熱くなる。


『——あとは、無表情で冷たい印象を受けるお前だけど、本当は誰より熱い奴だって知ってるから。だからお前なら最後までみんなの命を任せられる、そう思ったんだ』


「あら……ふふっ」

 普段から無表情を自認している自分がこの時一体どんな表情をしていたのか。こっそりと盗み見ていた比名菊にしかわからなかったが、この時確かに秋桜は胸の内に温かいものを感じていた。

(そういうわけだから、こっちは終わったわよ、覇切、百合。あんたら敗けたら絶対に許さないから、気合い入れなさい)

 そうしてあの時重ねた拳を思い出し、この想いが届くようにと願いながら、秋桜は握り締めた拳を夜空に向かって掲げる。自分たちの勝利が彼らの勝利にも繋がるように、強く強く想いを馳せた。



いかがでしたでしょうか? 秋桜が準主人公みたいな扱いになっていますね。無意識です。楽しめていただければ幸いです。そして、まだ第九幕は終わりませんよ。次でラストです! 最後まで是非お付き合いください。

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