第十八話 のどかな暮らし
「くわあ……。」
少し高い木の上で猫のように丸くなり欠伸をする。その下では人や犬、細かな虫、時々鳥や本当の猫も行き交う。昔はこの辺りには木々と虫ぐらいしかいなかったのだが、ここ数百年の間は本当に色々な生き物がこちらを気にせず、すぐ傍で暮らすようになった。どれほど強大な力を持つ相手だったとしても、何もしないと分かればいずれ慣れる。まあ、昔鳥に糞を落とされた時はちょっとつついてやったが、その結果、今でも真上を通る鳥は全くいない。
弱者は所詮弱者だ。力があればたいがいの事は出来る。生半可な力であれば周囲に不要な敵意を向けられかねないが、精霊ほどの力があれば何もせずとも平和的にのんびり暮らす事も容易だ。
彼は一切の恵みも災厄も齎さない。周囲の生き物に何かを求める事は無いし、たとえ嵐が来て木が倒れたとしても何もしない。流れる風に頭の上の角のような耳のような羽毛、羽角を揺らし、背中にある約十本の羽根のような形の大きな長い棘を揺らして歩く。薄い黄色の狐と猫を足して割ったような姿で、気が遠くなるような年月を気ままな猫のように生きている。
遥か昔、彼が生まれてしばらく経った頃に人と言う種が繁栄して、それに影響を受けた精霊達は小難しい事を考える事が増えた。それまでなかった高度な言語は様々な概念を生み出し、風のように生きてきた精霊の生き方を変えた。彼と同年代かそれより年上の精霊達の中にも、言葉がもたらす豊かさと制約を受け入れた者は多い。言葉を用い、人や動物達と取引を交わし、魔法では生み出せない何かを享受する。その一方で言葉は様々な物を型に嵌め、ただ降り積もるだけだった精霊の時間に変化を強要した。更には、かつては場所や地形、血筋などに執着する事が多かった精霊達は、特定の一個人やもっと限定的なものに執着する事も増えている。
もう彼の同年代で言葉を操り生きる者はいない。人の体や精神は弱くとも、言葉と言う概念はそれだけの力を持っていた。何らかの形で精霊の命に終わりを与える確率を上げたのだ。
寂しいと言う気持ちは微かだ。形を与えられない寂しさと言う気持ちは、今を生きる隣人たちの営みによって簡単に散らされる。
言葉が無ければ過去はただの出来事となり経験となり、未来はただの開けた空間になる。
今日も彼は変わらぬ穏やかさに身を委ねていた。