第一話 ツァヴツェシラの滝に住む変わり者
その世界には圧倒的な力の差があった。人々には決して足元にも及ばない、人々が願ってやまないような奇跡を軽々とこなす力を振るう者達。彼等は精霊と呼ばれていた。
第一話 ツァヴツェシラの滝に住む変わり者
そこは美しい村であった。
青々とした葉を茂らせる大きな木々が日差しを程よく遮り、その間を流れる川は青く澄んでいた。村の北側には大きく立派な滝があり、村の人々は持ち回りで毎日必ずその滝壺で一杯の水を汲む事を日課としていた。
「よーうニニョフィ!元気かー?いや、お前が元気じゃねー訳ねーよな。とりあえず俺は元気だぜー。」
「相変わらず騒がしいなオゴユ。お前こそこの滝壺で汲んだ水を飲んでおいて体調を崩すわけがなかろう。」
少々子供っぽいほどに元気な青年が滝壺の中に声をかければ、すぐに大きな影が浮かび上がる。大きく水をうねらせながらも、その巨体に反して静かに現れたのは、三本角の大きなイグアナのような生物。黄土色よりの茶色い体躯は松の幹のような質感で、象牙のようにつるりとした角と対照的。ぎょろりとした目は少し視線を向けられただけで睨まれていると錯覚するような鋭さがある。しかし、その視線を向けられた青年オゴユは怯むどころか満面の笑みを浮かべてバシバシとその大きな背を叩いた。
「なんだよニニョフィ!機嫌悪そうなのは口だけかよ!今更そんな面倒臭そうな態度取らなくともよー!全力で嬉しそうじゃん!」
「我の感情をそこまで正確に読み取るのは貴様ぐらいだ。同族であるオリケですらここまでは読まん。」
「えー、分かりやすいじゃん。ほんの少しだけこう丸い感じで明るい色になってさあ。」
「丸いとは何だ。色に向ける形容ではなかろう。だいたい、感情で色が変わるとはいえ、この体躯は沈静と興奮を表すのみで、人の顔ほど細かな感情は表に出ぬ。」
「そっかなー?」
演技のように青年は腕を組んで首を傾げる。ニニョフィは内心でフと笑うと、青年もまたニコッと笑った。
「貴様こそ、半月に一度ここを訪れる事を心底楽しみにしておるのではないか?毎回毎回全力ではしゃぎおって。」
「えへへー、分かるー?」
青年は服が濡れるのも厭わず、湿り気を帯びたニニョフィの体にもたれかかる。完全に安心しきった姿に、ニニョフィをしばし目をつむる事にした。
ここの村人達は精霊であるニニョフィを全く恐れない。その原因はかつて村人達の先祖とニニョフィが交わした約束事にあった。
大国同士の諍いによって住む場所を失い流れ着いた先祖達。これまでの旅路で見た荒れ果てた土地と異なり、息を呑むほどに美しい場所。きっとここには大きな力を持つ精霊が住むのだろうと考えた彼らは、村の中でも特に目を引く大きな滝にニニョフィを見つけた。彼らがニニョフィに頼んだことは、ただ心穏やかに暮らせる場所が欲しいという事。そして、その対価にニニョフィが約束させたのは、毎日持ち回りでこの滝壺に水を汲みに来る事だった。いかなる状況であれ、水を一杯に入れた桶を持ち運べる年齢の者は全て、必ず順番どおりに来る事。不可解ながら、嵐であろうが風邪であろうが必ず来いと言った発言に、やはり、精霊ならばこの程度の対価は必要なのだろうと先祖達は思った。しかし、実際に何周も約束を果たしていると、不思議とそのような状況が起きない。むしろ、ここへ来てから村の誰もが一度も病気にならず、大きな災害も来ないと来れば、その認識を自然と改めるようになった。今日はいい天気ですね。風邪に怯えず浴びる雨がこんなにも気持ちの良い物だとは思いませんでした。この間妻と喧嘩したんです。当たり障りのないただの雑談から、他の村人には話し辛い愚痴まで、勇気のある者から順に話しかけだすと、思いのほかこの精霊は気さくである事が知れた。結局のところ、ニニョフィは怯えず普通に話せる隣人が欲しくて、自ら作り上げたこの穏やかで美しい場所を愛してくれる住人が欲しかっただけのだ。だから、ここには嵐も旱も絶対に来ないし、あの水には飲んだ者が決して病気にならない魔法がかけられている。
しかし、その中でもオゴユは特別であった。彼は先天的に人の表情が上手く読めない。声色からは多少感情を読み取ることが出来るようだったが、それでもどうも周囲と話がかみ合わない時がある。穏やかな満たされた村であったから彼を嫌う者はいなかったが、それでも友人は出来ず、その事をニニョフィに愚痴った事もあった。人もニニョフィみたいに色が変わったらいいのに。ニニョフィは最初どういう意味か分からなかったが、そういえば、オゴユと話すときは随分と綺麗に会話が続いた事を思い出す。人は普通オゴユの表情を読み取る事はできない。口調からある程度察する事はできても、人とは全く異なる顔には人のような表情は浮かばない。感情で色の変わる体も、本気で怒るなどして感情が高ぶればすぐにわかるのだろうが、具体的な感情の種類は分からないし、村人の知る限りいつも穏やかなニニョフィがそこまで大きく色が変わった事はない。普段の微弱な変化は人が読み取るには微か過ぎた。
それをいとも簡単に読み取るオゴユ。人に合わせる事に限界を感じていた彼はニニョフィにばかり気を許し、かつて行っていた努力を怠るようになってきていた。無理をしなくても笑いあえる友人。疲れたような表情はしなくなったが、村では徐々に喋らなくなった、と他の村人達からニニョフィは相談を受けた。これが一般にはあまり望ましくない事である事も知っていたが、ニニョフィはこの現状を変えたいとは思っていなかった。
精霊が気に入った人間に力を与え、永遠の時を共にする事はよくある話であった。