世界が終わるまで、あと3日
とある世界、とある国の王さまが言った。
――この世界の終りまで、あと3日だ、と。
空は赤く染まり、黒き魔物の群れが大地を蹂躙する。
打ち捨てられた骸が地表を覆い尽くし、かつて討ち滅ぼした魔王が復活する時、この世界は終焉を迎えるのだと皆が怯えていた。
人間と魔族は長きに渡って争い合ってきたと歴史にあるが、それは数百年前の話。
戦禍を生き延びた者は幼子でさえ祖国の復興のために駆り出され、瞬く間に年をとってこの世を去った。
現在は魔族との国交は断絶し、たまに人間国同士の小競り合いがある程度だが、かつての陰惨な戦いに比べれば可愛いものだと、二度とあの悲劇を繰り返してはならないと、人々の間では子や孫、曾孫の代に渡るまで語り継がれていた。
神殿の高名な神官さまは魔の王が目覚めれば、世界に満ちる光もやがて力を失うのだという。
世界に満ちる色彩豊かな小さな光たちは、集まると炎や水に姿を変えて人々の生活を支えてきた。
この小さくて便利な光を失っても人は生きてゆけるだろうが、やがては増えた魔物に食われ、少しずつ数を減らしてゆくことになるだろう。
現に城壁に守られた町の向こう側には多くの兵士や逃げ遅れた人々の屍が転がっているのだ。
いつもは人で賑わっている城下町も、今は人っ子ひとり見当たらない。
緊張を孕んだ静寂の中、巡回する兵士の鎧の金属音が規則正しく通り抜ける。
そんな城下町の大通りから少し離れた小さなパン屋さん。
赤いレンガに白い漆喰、といった町ではよくあるつくりの建物。
毎日、早朝から日暮れまで焼きたてのパンの香りをさせながら開いていた簡素な木製の扉は、ピタリと閉じられている。
パンと花をモチーフとした木の扉の奥では、店主の娘が一人で留守番をしていた。
毎日ふき布で磨き、いつもたくさんのパンが並んでいた棚は空っぽで少し埃っぽい。
母の残した店は彼女の心の在り方を現すようにがらんとしていた。
せめて、掃除しなきゃ。じゃないと母が帰ってきたときに嘆くだろう。
頭の隅でそんなことを考えながらシルヴィアはぼんやりと椅子に座っていた。
この混乱で両親も行方不明になってしまい、店には彼女一人だった。
――世界が終るまで、あと3日。
あと3日で、魔王とやらが復活し、人類は絶滅するのだと皆がいう。
いつ城壁が破られるかわからないので、女子供はなるべく家から出ず、有事に備える様に御触れが出されていた。
ただぼんやりと過ごすには長く、さりとて死に物狂いで魔王に向かっていくには短すぎる時間。
各国の王たちが魔王の復活を防ぐために協定を結び、国の精鋭たちは旅立った。
こういうとき、シルヴィアが好んで読んでいた物語では、神様から選ばれた勇者や異世界から召喚された救世主が世界を救ってくれるのだ。
最後はやっぱり幸せな結末。
お姫様と勇者あるいは救世主が、悪を打倒し大恋愛の末に結ばれる。
しかし、3日で選ばれて旅に出て、悪を倒してお姫様と結ばれるお話なんて聞いたこともない。
現実は何とも無慈悲で残酷なものだ。
魔王復活を阻止してくれる勇者なんていない。
都合よくあらわれる救世主もいない。
今から神の奇跡が起こったとして、勇者や救世主だって3日で魔王復活を阻止するなんて無理な話。
勇者や救世主だってお手上げの現状なのに、ただのパン屋の娘にできる事なんて、あろう筈がない。
しかし、ただ諦めて死を待つばかりと言うのはシルヴィアの性に合わなかった。
ならばこの3日で何をすると問われても、答えは持たず。
取りあえず! パンを作ろう。
考える事にもただぼんやりすることにも疲れたシルヴィアは、店の作業台を慣れた手つきでさっと清めると、頭をからっぽにしてパンを作り続けた。
宙に浮かぶ水の色の光を集めて小さな水滴をいくつも作り、塩や砂糖を混ぜた小麦の粉に練りこんでゆく。
パンを少しずつ膨らませるために、火の色、水の色、風の色三色の光を集めてゆっくりとパンの温度を上げていく。
小さな風の光たちによってしっとりと表面がふくらみ、ふんわりとして来たら、天板の上において試作品用の小さな石釜に入れて焼き上げるのだ。
釜に薪いれた後、 赤い光を釜の周りに集めて火をつけ、大体の温度調節を行う。
パンの焼ける香ばしい匂いに触発されて、シルヴィアはどんどんパンを作った。
長期保存がきく、水分を減らしたパンと高価なバターを多めに入れたパン、薬草を練りこんだパンなど様々なパンを焼きあげて布にくるむと丈夫な革の背負い袋に詰め込んだ。
粗熱を取ったパンは少し形崩れしていて、やはり母ほど上手くいかないものだなぁとシルヴィアは肩を落とした。
日持ちのする干し果実と水を入れた革袋もいくつか詰め込むと袋も随分と重くなる。
それを背負って気合を入れてみたが、一体どこに逃げたものやらとシルヴィアは途方に暮れた。
城壁の外は魔獣が跋扈する危険地帯であるし、むやみやたらとうろついていたら巡回中の兵士に捕まって、家に戻されてしまうだろう。
パン作りと荷造りに1日を費やしてしまったので、世界が終るまで後2日しかない。
どっと疲れを感じてシルヴィアは床の上に尻餅をつく。
床石は固くてごつごつしていたが、湿り気を帯びた冷やかさが心地よかった。
すると乾燥させた丸いパンがころりと緩んだ皮袋の口から転げ落ちる。
手でつかもうと追いかけるも不思議なほど滑らかに石畳を滑って、扉をすり抜けると貯蔵庫である地下室まで転がり落ちていく。
パンまでも自分の言うことを聞かないなんて!
妙な苛立ちとともに、重たい腰を上げるとシルヴィアは地下室への扉を開けた。
こつん、こつん、と木でできた固い靴底が石を打つ音が響く。
危険だから、とあまり入ったことのない地下室。
小さな頃はお化けが潜んでいると思って、想像を膨らませては背筋が震えたのを覚えていた。
「おいで」
視界に点在する光たちの中から赤いものを呼ぶと小さな赤い炎が指先にともる。
蝋燭に火を灯してもうっそりとした仄暗さは変わらなかった。
いつもは視界の端で控えめに浮かんでいる小さな光たちも、この地下室にはあまりいないようだった。
この暗くて湿っぽい空間には、小さな光たちが避けるようにして開けた場所があった。
小麦の袋や水樽を置いている場所の奥。
黒くざらっとした布を掛けられたそれを光たちは嫌がっているように感じた。
「こんなもの、あったっけ?」
布を取るとそこには目が潰れんばかりの光があった。
数度瞬きをして、強く目を閉じた後、ゆっくりと目を開けるとそこには大きな姿見があった。
木の幹を四角く削り出して、鏡をはめ込んだ様な雑なつくり。
高価とされる鏡、しかもこんなに大きなものが自分の家にあるだなんて、シルヴィアは驚きに言葉を失った。
つるりとした銀色の表面は水面のように滑らかで、シルヴィアの指先がふれると波打つ。
まるで液体のような感触に彼女は首をかしげた。
触れた指先確認するも、変化はない。
「鏡って、こんなものなのかな……?」
あいにく、彼女は生まれてから鏡と言うものを見たことがなかった。
いつもパンを届けている商家の奥さんが鏡とは、銀色できらきらと光りを弾き、覗き込んだものを姿を映すものだと言っていた。
ゆらゆらと波打つ銀色に確かに綺麗だなあとシルヴィアは魅入られるように手を伸ばす。
そうして彼女はとぷり、と鏡の中に消えた。