1ー4.図書館の亡霊
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1ー4.図書館の亡霊
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もちろんそれで片付くはずもなかった。
「ぅ…………ぁ…………ぅ、ぁ…………」
女は彼の元へと、ノロノロと弱々しい足取りでやって来る。
「ぅ、ぅぁっ、ぅぁぁっ、ぉ、ぉぉぉぉ…………」
耳を塞ぎたくなるほどの苦悶に満ちたうめき声。哀れであるが怖ろしく、どんな慈愛にあふれた聖人でも救助をためらうほどのものだ。
逃げ出したくなるような恐怖の存在が今、彼の真となりで立ち止まった。
ギロリと血走った瞳は標的を見下す。
「あなた…………誰…………」
亡霊は文継へと言葉を発する。低くかすれた、途切れ途切れの呪われた言葉を。
「どうして…………私、が、見える、の…………?」
言葉をただ発するだけで、堪え難い苦痛が走るようだった。腹部を刺されているのだから当然そうなのだろう。
(…………)
「ねえ、今…………私、を見た、でしょ…………」
(…………)
文継からは何の反応もない。態度の悪い彫像は、ただ静かにページを鳴らすばかりだ。
「見えたよ、ねぇ…………目があった、よねぇ…………」
「あ、アハハァァァ……わかってるんだからァァ!!!」
「絶対あなた、私、を、見たぁ…………見たでしょォォォ?!!」
もはや無視を決め込むなんて不可能だ。
むしろ理想的でパーフェクトなホラー展開と化している。
だが……文継は本っ当っに、往生際が悪かった。そういう男なのだ。
「…………なっ?!!」
まずイスごと180度、彼女の視界から逃亡した。そして本を顔へとピッタリ近づけて、視界を活字の世界へと埋めてしまう。
本来恐怖すべきその状況で、文継という個人主義者はまゆ一つ動かさず、引き続き優雅に読書を継続した。
「……………………」
普通なら怒るところだ。
だが亡霊はそれでも、無視されていることに小さな喜びと満足を覚えていた。
何者も自分を知覚してくれない、孤独な世界に彼女はいたのだから。
「時々……波長、が、合う人と、出会うの…………」
「…………でも」
「でも私を、見て、すぐに、怯えて…………逃げ出してしまう…………」
「私は…………そんな、違うのに…………」
「私は…………」
「誰かに……助けて欲しい、だけなのに…………」
彼女は軽い錯乱状態にあったが、呆れるほど優雅で態度の悪い彼に、どうも落ち着きを少し取り戻したようだった。
ぽつりぽつりと、悲しげに、寂しげに救いをすがる。
「あなた、は…………私が、怖くないの…………?」
しかしすがる相手が間違っていたかもしれない。それでも彼は知らんぷりを継続した。
図書の小気味良い文面が、彼の意識を別世界へと運び込んでくれる。
「っっ~~~!!!」
「何よ、アンタっっ!!! 人が助けてっテ、言ってるでしョォォォッ!!!!」
「だったるァァッ、ちょっとわ、人の話くらいィ聞きなざいヨォォォ!!!」
亡霊であっても人間であっても同じことだ。
あまりに酷い態度に、女はいい加減にじれて文継の二の腕をつかんだ。
「え………………………………?」
鋭く爪が突き立てられ、彼の皮膚が軽くめくれ上がる。ほどなくするとジワリと赤いものが浮きだした。
にもかかわらず、驚愕したのは彼女の方だった。
むしろ傷を負わされたというのに、文継の方は片眉を一瞬ゆがめたのみだった。
女の腕は氷のように冷たく、まるで死体…………というより死体そのものだった。
「うそ……………………」
驚きに、立てられた爪がゆるむ。温かな人間の体温が、彼女の手のひらに広がってゆく。
「あったかい…………ぁぁ…………あったかいよぉ……」
「触れられる人間なんて…………初めて…………」
「あなたとは本当に波長が合うのかも………」
「あなたなら…………もしかしたら…………」
人肌が彼女本来の理性を呼び覚ましてゆく。爪はゆるみ、代わりに手のひらがすっぽりと温かい腕を包み込んでしまう。
「この短剣が見える…………?」
「私……背中から刺されたの…………」
「ふふふっ……こんな死に方……バカみたいでしょ…………?」
「まさか、あんな簡単に終わっちゃうなんて…………思ってなかった…………」
「笑っちゃうよね……」
亡霊は悲しそうにうち沈んだ。もはやどうにもならない現実と、それでも修正したくてやまない事実に震えながら。
彼女は哀れな亡霊以外のなにものでもなかった。
今の彼女になら、慰めの言葉が与えられるだろう。
「痛い…………痛いよ、辛いよぉ…………」
「…………」
相手が菱道文継でさえなければ。
「うるさい黙れ亡霊、悲劇のヒロインごっこならよそでしろ」
「ぇ……………?」
彼は立ち上がり本棚へと借りた書籍を戻した。
救いを見い出したはずの彼女は、捨てられた子供のように弱々しく悲しい顔をする。
「ま…………待って…………おね、がい…………」
「痛い…………剣が…………剣が抜けないの…………」
それでも彼女は苦しみながらも、彼の元へとノロノロと歩み寄った。
「…………」
そんな彼女へと、彼はため息をついて振り返る。
「それはキミの勝手な思い込みだ」
「抜けないと思うから抜けないのだ」
哀れみ一つ彼は見せず、だが彼女の背中へと回り込んだ。
そして。
「うっっ、うあああああああっっ?!!!」
背中に生えたその西洋短剣を、一瞬のためらいも見せず引き抜き捨てたのだ。幻想の鮮血が飛び散り、彼の顔面を汚したが…………。
「ぁ…………あ……れ…………」
たちまち、彼女の傷口が塞がっていた。
続いてその衣服から血痕が消え去り、彼へと飛び散った血液もまた、跡形もなく霧散する。
「え…………う、うそ…………」
亡霊を苛め続けてきた苦痛は嘘のように癒え、ようやく夢見た平穏が訪れていた。
もはやその姿はとても悪霊と呼べるものではなく、その美しく愛らしい少女は憑き物が取れたかのように、ただただぼんやりと状況にほうけている。
「ここは趣味の良い本が集まるが…………」
「さすがは病院、キミらのような手合いには飽き飽きだ」
「さあ剣は抜けたぞ、さあさあ、さっさとおとなしく天に召されろ」
…………。
……。
呆然と立ち尽くす彼女をおいて、彼は病院から立ち去った。
やはり外界は面倒事ばかりだ。厄介なこんな世界には立ち寄らず、自室でただただ平穏に過ごしたい。
引きこもりでも何とでも言え。やっぱり外の世界はこりごりだ。
彼は心の中でそう何度も繰り返し、足早に屋敷へと帰宅した。
閲覧ありがとうございます。
こんな駄文でも、ちょっとは皆様の楽しみになれば需要なくても救われたもんですw