3ー11.葦花愛海の語る過去
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3ー11.葦花愛海の語る過去
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「母さんお気に入りのグラスが無くなってたから、何かあったのかなって……思ってはいたの」
「でも……まさか零夏さんに知られちゃってたなんて……」
「ちょっとショックだな……」
屋敷からはあえて15分ほど遠出をして、二人は小さな喫茶店へと入った。
店内は小ぎれいだが流行ってはおらず、来店者は彼女らを含めて五名に満たない。
席はあえて暗い片隅を選び陣取った。
店主おすすめのパエリアを、他愛のない雑談を交わしながら平らげると、ついにそこで零夏は本題を切り出した。
「私の身体は汚れてるの……」
「あの男の汚い体液と、汗と、暴力と口臭で…………」
「愛海さん……」
貴女の口から誘拐事件の子細が知りたい。
言ってはいけないその言葉を苦しげに紡ぐと、愛海は酷く悲しそうに肩を抱いた。凄惨な記憶が思考へと逆流して、辛かった当時の一つ一つが彼女を責め立てる。
「貴女は汚れてなんかいませんよ。だってこんなに明るくて、かわいらしくて、今日も私に元気をくれていますから」
「零夏さん……でも……私…………」
「本当に辛かったんですね」
「ぁ…………零夏、さん……」
慰めの言葉と一緒に、愛海の細い右手がそっと包み込まれた。零夏の手はやわらかく、けれど震える彼女を力強く握り締めてくれる。
「この話を聞いて、私は腹わたが煮えくり返りそうになりました」
「ええ、怒りのあまり小心者の主人を怯えさせるほどにね」
「ぅ……ぅぅ……ありがとう……」
「私……まだ怖くて…………なのに代わりに怒ってもらえるなんて……嬉しい……」
おずおずと、彼女は零夏の手のひらへともう片手を寄り添わせた。きめ細かくやわらかな手の甲が、ドキドキと愛海の心臓を加速させる。
「やっぱり零夏さんは素敵です……カッコイイ……憧れてしまいます……」
愛海は顔を上げた。頼もしい零夏さんに、尊敬と慕情を向けてキラキラと。
「そんなことありません」
「そんなことあります!!」
真剣に眉を上げて、彼女は力強く主張する。ショックからは立ち直ったようだ。
「あの時のことを聴きたいんですよね、私がんばります!」
「それはありがたいのだけど…………愛海さん、本当に大丈夫……?」
「……はい、零夏さんに聞いて欲しいんです」
「零夏さんに聞いてもらえたら……」
「私、本当の意味で立ち直れるかもしれないですし……わかりませんけど……」
過去を克服したい。本当は自分の辛い過去を知って欲しかった。ただただ零夏の力になりたい。愛海はついに決心をしてくれた。
「わかりました、是非貴女の話を聞かせてください」
「絶対に愛海さんを蔑んだり遠ざけたりはしません、約束します」
「えへへ……やっぱり零夏さんは素敵です……」
立派で真っ直ぐなやさしさに、愛海は感激して満面の笑顔を浮かべる。
「それに、苦しんでいるのは貴女だけではありません」
「貴女のお母さんは、貴女を誘拐したその人物に脅迫されていたのです」
「貴女は人質だったのです」
話を聞くその前に、まずはそのことを伝えなければいけない。余計なお世話だけれど、調査員として働いてきた自分の義務なのだと。
「…………」
「そっか……やっぱり母さんが仕事辞めちゃったのは、あれが原因だったんだね……」
「ありがとう教えてくれて。母さんとはちょっと上手くいかない時あったけど、これからはちゃんとやってけそう」
彼女ももちろん推測はしていたに違いない。
どうして自分があんな目に遭ったのか、どうして母が苦悩していたのか。
それは卑劣な脅迫だった。それら全ては一つの陰謀劇のために用意されたもので、その結果一人の少女が命を奪われたのだ。
「次は私の番だね」
もはや自分と母だけの問題ではない。憧れの零夏さんは、その悪人を探しだそうとしてくれている。協力しない理由が無かった。
「ええっと……でも何から話せば良いのかな……」
「では私から質問しましょう」
「その……監禁中、のことなのですが……何か気づいたことはありませんか?」
慎重に彼女の顔色をのぞきながら問いかける。
「そうだね…………ん……」
「とても薄暗かったし…………それに相手は……マスクをかぶってたし……」
瞳を閉ざして、忘れたい記憶へとダイブする。今までは怖くて怖くて出来なかったけれど、今は目の前に零夏さんがいる。
苦しくて辛くなったら、彼女なら自分をやさしく介抱してくれる。怖れる必要はどこにもなかった。
「どんなマスクですか?」
「何だっけ……オペラ座の怪人みたいな……気持ちの悪いヤツ……」
淡々と愛海はつぶやく。
「ソイツは容赦無く私を殴った……止めてって言っても、哀れみ一つ見せないで、とても楽しそうに……」
「そんなの狂っています、最低です」
「うん……最低だった……」
慰めの言葉は心地良く彼女の胸の傷を癒してくれる。彼女の体温があたたかい。
「私は何度も……何度も殴られて…………汚されて…………」
「普通なら……罪悪感とか覚えるはずなのに……」
「アイツは楽しんでいたの……全部……」
「悲鳴を上げる私を、泣き叫ぶ私を、家に返して、誰にも言わないからと懇願する私を…………全部、全部……」
彼女の背筋が凍り付く。
「――っっ!! アイツは、私の哀れな姿にっ、歓喜していたの……っっ!」
記憶は深い部分までもが掘り起こされ、ついに愛海の言葉が震え上擦った。
その犯人象は、完璧に千冬を殺害したものと一致する。間違いなく同一犯だ。
「愛海さん!!」
「ぁ…………っ」
手と手はあのままずっと結ばれていた。彼女の名前を呼んで、力一杯握り締めて、苦悶の顔をのぞき込む。
「もういいです、十分です」
「で、でも……」
「もういいんです、貴女は汚れてなんかいません」
「私が憧れてしまうほど、かわいくて綺麗な心をした人です」
愛海の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。誰かにそう言われたかった。汚れてなどいないのだと。零夏の口から聞けるなんて夢のようだ。
彼女は嬉し涙をいつまでも流し続けた。ポロポロと涙が落ちるたびにその心は救われて、憧れの女性はやさしく全てを見守り続けてくれた。涙と嗚咽が落ち着くその時まで。
……………………。
…………。
「そろそろ時間ですよね、戻りましょう」
十分な収穫とは言えない。しかしこれ以上は許されない。
愛海の心が晴れると、終わりにしようと彼女は席を立つ。
「あ……そうでした、お仕事……」
「大丈夫ですか? 何でしたら私からお休みをいただけるよう訴えましょうか?」
「あはは……それはちょっと過保護過ぎです……伊代子奥様じゃないんですから」
笑顔が浮かぶ。この様子なら大丈夫そうだ。
零夏に続いて彼女も立ち上がる。
「あ、そういえばですね……」
一歩を踏み出そうとすると、レジへと振り返っていた零夏が立ち止まった。すぐにくるりと愛海に注目が戻される。
「どうしたんですか、零夏さん?」
「いえ、そういえばこれを見せていなかったなと……」
懐へと指先が潜り、彼女は意外なものを取り出した。
「この指輪に見覚えはありませんか?」
それはあの模写だった。上苑の家紋が刻まれたソレが、愛海の目前へと突き付けられる。
「犯人の所持品なのですが、どうにも巧妙に隠し持っていたようで……」
「…………愛海さん?」
愛海の瞳は大きく見開かれ、どこか半狂乱で模写を見つめていた。
呼びかけても言葉は届かず、彼女は一心不乱に記憶と目前のものを参照比較する。
「これです!! 私これ見ました!! これ、アイツの指輪です!!」
そして叫んだ。力強く。喫茶店の店内であることも忘れて。
「な、何ですってっ?!!」
それを聞いて、零夏も我を失って声を上げていた。
「私をいたぶる裸のアイツが、アイツが首から、チェーンで下げてるのを私……っっ、見ました、確かに!!」
悔しそうに愛海の口が歯を食いしばり、恐怖でしかなかったアイツに初めて純粋な敵意を向ける。
「アイツが……アイツが千冬さんを殺したんですか?!!」
それは彼女が、ついにトラウマを克服し始めた瞬間だった。恐怖ではなく、憎悪の対象として記憶が書き変わり、誘拐犯への著しい敵意が燃え上がる。
(誘拐犯と殺人犯は同一人物…………)
推理は完全に確証となった。この指輪の所有者が、全ての災禍を生み出した張本人なのだ。
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その後、愛海と別れて調査結果を報告した。
「そうか、それは決まりと言っていいな」
終始落ち着いた声で、文継は受話器の向こうでうなずく。
「はい、後は文継様が犯人を見つけだし、天誅を下すのみです」
「おいおい、天誅って……千冬に感化され過ぎじゃないか?」
「……いいえ、相手は生きる価値もないクズです。死ねばいいんじゃないですか?」
それとは真逆に、零夏は本心からの毒舌をまき散らした。
「いや、落ち着いてくれよ……」
「ふふふ……じかに彼女の話を聞けば、文継様もさすがにキレますよ、うふふふ……」
ヒステリックな笑いがキンキンと頭に響く。
「キミは本当に怖いヤツだよ……」
「それがキミの良さなのかもしれないが。うん、俺は零夏のそういたところが好きだな」
親愛を込めて、笑い声混じりに彼は彼女を肯定した。途端に零夏の胸がポッと暖かくなる。
「…………」
「どうした?」
「何でもありません」
「愛海さんと次のデートの約束をしたので、予定を考えているだけです」
無自覚に言いたいことを言う男なのだ。
胸のそのドキドキを、かわいい愛海の姿で上書きした。
「しかしこれで完全に犯人の目星がついた」
「……誰ですか?」
急に零夏の声色が変わった。乾いた、敵意丸だしのものに。
「ちょうどあの屋敷の近くにいるので、場合によってはちょっと、刺し殺しにいってきましょうか?」
「キミね、人に血なまぐさい命令をさせるなよ……」
「冗談です」
「ちょっと本気でしたが」
つくづくおっかない女だと電話の陰で悪態をつく。
「だがまあ、三年も前の古い事件だ。しかも密室で、深夜での出来事と証拠に乏しい」
「……証拠がないと?」
真剣な話題を振ると、生真面目な彼女は物騒な考えを中断してくれた。
「ああ、これ以上調べても、そうそうと安易に証拠が現れることはないだろう」
「確かに、手詰まり感は否定できません」
「他にやれることといえば、婦人の監視くらいでしょう」
「……それで?」
それはやっぱり手間がかかるし確実ではない。
なら文継はどうするつもりなのだと、彼の考えをうかがう。
「…………」
沈黙。電話先でゴソゴソとした物音。また下らない図鑑でも開き始めたのだろう。つまり、考えが固まったのだ。
「キミはたびたび誤解をするが……俺はそこまで無感情な人間ではない」
「むしろキミと同じくらい、俺はこの事件の犯人に対して、殺意に近いくらいの敵意を覚えている」
「……それで?」
零夏はもったいぶった言葉に本題を急かす。
「つまりだ、俺はこれ以上待てなくなった」
「もはやこの確証だけで十分だ、この悪逆非道の犯人を、これ以上野放しにはさせない」
「次にこの悪意が向けられる相手があるとすれば、それは上苑読子か、あるいはキミ自身だ」
すると彼は彼らしくもなく、怒りを押し隠してはいるが抑えきれない早口でまくし立てた。零夏の推測の外にある、彼女自身が犠牲となる可能性を指し示す。
「文継様……私を心配してくださるのですか……?」
「キミがこんな男の毒牙にかかってみろ。考えただけでも、俺は…………」
「絶対にキミを汚されたくない、キミを死なせるわけにはいかないのだ」
零夏に対する強烈な独占欲、愛情。それは滅多に彼が表には出さないものだ。共に暮らす彼女を、文継が大切に思わないはずがなかった。
(文継様……本当に正直じゃないお人……)
それは自分もお互い様。零夏は顔の見えない電話だからこそ、多幸感に微笑む。
「ならいっそのこと、先にあなたが私を汚してみるというのはどうでしょう」
「ぶっっ?!!!」
でもやっぱり正直じゃないので、そんな照れ隠しをした。
「冗談です。さあさっさと本題をどうぞ?」
「はぁ……キミという人は……」
深いため息が電話越しに届く。
それからどこか楽しそうに笑い声が響いて、しばらく真剣に沈黙した。
間をもって彼が言葉を紡ぐ。
「一芝居打とう。悪にキミが汚される前に、完璧な策略で犯人を追いつめるぞ」
「悪へと、天誅が下される時が来たのだ」




