1―3 プロローグ・発端の夜
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1―3 プロローグ・発端の夜
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目覚めるとそこは見知らぬ世界だった。いいえ、ゆっくりと意識は判断力を取り戻し、私へと不愉快な結論を導き出す。ここは、父の家だ。
ソファから身を起こし、屋敷の広々とした居間を見回した。厨房の大きな大きな冷蔵庫が、不快な振動音を立てている。それはどこか頭痛を誘うもので、ささやかながらも酷く私を苦しめる……苦痛だ、とても。
時刻は……携帯を確認すると午前2時過ぎだった。
良くない。どこか肌の感覚が希薄で、唇が痺れるかのようだ。この家に身を寄せてからというものの、良くない、疲れが取れない……致し方ないとはいえ、良くない。
「ん……んんっ……はぁ…………っ」
与えられた自室へと戻ろう。身体は虚脱感に満ち満ちていたけれど、ここの人間に隙を見せるわけにはいかない。それは絶対に。
身を起こし、飲みかけの……もはやアイスティーと呼ぶことも出来ないものを飲み干した。わかっていたけれど、ぬるい、清涼感がなく不愉快だ。
ああ、何も考えたくない。私はそのまましばらく無言で立ち尽くした。
……そうだ、眠ればいいのだ。我ながらおぼつかない足取りで、単純な事実に気づいた私は、とぼとぼと私物の少ない自室を目指した。
――――はずだった。
「あぐっっ?!!!」
え、なに?!!
暴力的な衝撃が私の背中を叩き付け、上等なじゅうたんへと転倒させた。
痛い、苦しい、身体の力が抜けて立ち上がれない。
「…………ハァ、ハァ」
背中側から荒い呼吸が聞こえた。明確な悪意、それを肌で感じ取って、私は恐怖に戦慄する。私を蹴り襲ったこの人物は、強烈な敵意を剥き出しにしている。
「あがっっ、おぐっっ?!!」
振り返ろうとすると、ソイツは私の頭を踏み付け、それから腹部を何度も何度も蹴り飛ばした。呼吸が止まり、この世の終わり同然の苦痛が肢体を包み込む。
痛い、痛い、痛い、痛い!!
「下民の分際が……」
その言葉に、今度こそ私は振り返った。
「ひ……っ、ど、どうして、あなたが……うっ、げほっげほ……っっ!!」
「あうぅっっ、止めて痛いっ、うぐぁぁぁぁぁーっっ!!!」
私はソイツを知っている。でもいつもと違う、憎悪に染まった鬼の顔をしていた。悪意のあまり醜く顔は歪み、私はソイツが誰だったか、判らなくなってしまった。
「下民の分際で……」
ブツブツとソイツはつぶやく。起き上がろうとした私の右手を踏み付け、全体重をかけてくる。正気とは思えない、こんなの気が狂っている!!
「……?!!」
殺意を感じる。抵抗しなくてはならない、生きるために。爪を立てて敵の足首を握り、私は何とか右手を開放させた。それから一心不乱で相手へと掴みかかる。
「あっ……」
でもその選択は間違いだった。逃げれば良かったのだ。
ソイツは抵抗する私に対して、どこからか鈍く光るものを取り出した。
恐怖に慄きながらも悟った。それは殺意だ。ソイツは、私を殺しに来たのだ。
身のすくんだ私を、ソイツは再び乱暴に蹴り飛ばした。じゅうたんへと顔面から倒れ、ジワリと涙が溢れ出す。
『チャリッ……』
冷たい金属音が真夜中の世界に響く。無慈悲に。
「ぁ、ぁぁ……ぁぁぁぁ……」
殺される。殺される。殺される。痛い、許せない、理不尽だ。
私はやらなければならないことがあるのに、こんな場所で死ねないのに。
嫌だ、嫌だ、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、死にたくない!!
誰か助けて!! 誰か、このままじゃ私は……!
お願い、誰か私をっ!!!
「ハァ、ハァ、ハァ……下民の分際で……ハァハァハァッ、ハァァァ……ッッ」
「下民の分際でェ……、ヒッヒヒッッ、ヒヒッ……、遺産をォ……」
「掠め取ろうとした罰ダァァァーッ!!!!」
…………。
……。
それは居間へと飾られていた、装飾用の西洋短刀だった。
剣は私の背中を貫き腹部へと抜けて、赤い鮮血を飛び散らせた。
失われてゆく血液、出血によりガンガンと鳴り響き始める頭、これはもう助からないと悟る。全てが終わってしまったのだ。いともあっさりと。
私の心に、今さらになって怒りと、憎悪と、狂気的な破壊衝動が湧き上がったが、全てはあまりに遅過ぎた。
暖かな春の夜――私の心は悪鬼となったまま、この世から消えたのだ。
天よ、いつの日か、この悪党に天罰を……。