統計検査院
その日、統計検査院では設立100周年に向けて記念行事の準備が進められていた。
2世紀前に生まれた「統計」という考え方は、その後学問として確立され、前世紀に開発された量子コンピューターの実用化によって飛躍的な発展を遂げた。行政機関である「統計検査院」が新設されたのは、その頃の話だ。
ある職員は国民に配布するパンフレットの原稿を書き、ある職員はパレードの手配をし、ある職員は統計検査院長の演説用原稿を練っていた。もちろんこれら全ての仕事は、統計検査院が保有する最新のシミュレーターによって無難かつ完璧なものがはじき出されており、職員たちはそのいくつかの候補から選ぶだけでよかった。
全ての仕事はこれまでどおり順調だったが、一つ気がかりなことがあった。情報テロリスト集団「フォレスト」の活動が、最近活発になってきていることだった。
総合庁舎の第三会議室では、連日その対策会議が行われていた。
「それで、先日逮捕されたメンバーの要求は何だったんだ」
検査第二部長の重い声が、マイクを通して会議室に響いた。
「はい、これまでと同様、全国民のシミュレーションデータの無条件開示と、あらゆる動物実験シミュレーションデータの無条件開示です」
中堅と思われる職員が立ち上がり、淡々と説明した。すると、向かいに座っている上級検査官が口を開いた。
「いまだに分からないのだが、なぜフォレストは実験動物シミュレーションデータを欲しがるのだ? 実験で使用している動物は本物ではない。ただのコンピューター上のデータだ。生命倫理上は何の問題もないと思うのだが」
その話を聞いて、検査第二部長はうなずいた。今や動物の薬品実験などは世の中から姿を消し、その代わりに安価で早く生命コストもかからない統計検査院シミュレーターが実験シミュレーションを行っていた。シミュレーション結果はほとんど誤差がないと言われており、可能性がある誤差に関しても統計上全く問題が無いレベルだった。
「倫理的には、仰るとおり完璧です。ただそれは……、何と言えばいいのでしょうか、私たちが考える倫理上は、という話です」
中堅職員は、適切な表現を頭の中で探しながら上級検査官に答えた。しかし表現が曖昧過ぎたのだろう、上級検査官は腕組みをして首をかしげつつ再び質問した。
「何だ、その『私たちが考える倫理』というのは。つまりフォレストの人間は、生命倫理に関して何か根本的に異質な考え方を持っている、ということか?」
「はい、そのとおりです。統計上は少数に分類される考え方ですが、フォレストのメンバーたちは、シミュレーター上の動物でも、現実の動物と同様に振る舞う以上、そこには生命が宿っており、その殺害は許されない、と主張しています」
それを聞いた上級検査官は、かしげていた首をさらに曲げて、
「何ということだ。厄介だな」
とつぶやいた。
検査第二部長は、眉間にしわを寄せてため息を付いた。人間の様々な心理や行動までをも正確に予測・計算できる統計検査院といえども、個人個人の価値観を後から操作することなどできない。フォレストのテロ活動に関しては、現時点では警察に対処を任せるしかなかったが、組織として何もしないわけにはいかなかった。
「我々で何か対処できることはないか」
検査第二部長が尋ねた。中堅職員は表情一つ変えずに静かに言った。
「統計上は彼らのような価値観を持つ者は少数ですし、対策コストと比較しても計算上割に合わないので、我々としては放置しておくのがベストだと思われます。しかし……」
中堅職員は、会議室にいる全員の顔色を見ながら続けた。
「それよりも問題なのは『全国民のシミュレーションデータの無条件開示』の方です。これはフォレスト以外にも、かなりの割合の国民が潜在的に望んでいます」
数秒の沈黙が会議室を支配した。その場にいる全員が、その言葉が持つ意味を理解していた。「全国民のシミュレーションデータの無条件開示」。その途方も無い、具体的に想像のしようもない「まずさ」に、皆が考えを集中した。
だが、その緊張の糸は、突如庁舎中に鳴り響いたブザーが鋭く切断した。
会議は中断され、検査第二部長は直ちに第一会議室に向かった。緊急事態を知らせるブザーが鳴った場合、第一会議室に参集することになっていたからだ。第一会議室入口の液晶掲示板には「緊急対策本部」と表示されており、両脇には検査院衛視が2名立っていた。その入口をめがけて、院内の部課長級の職員が慌ただしく駆け込んでいた。
部屋の中には、既に相当数の職員が集まっており、スクリーン前の長机には、普段めったに姿を現さない事務総長が座っていた。参集すべき職員がほぼ集まったのを確認した事務総長は、マイクを持って立っている男に発言を促した。
「つい先ほど、フォレストから犯行声明があり、調査したところ統計検査院のメインコンピューターがハッキングされていました。設立100周年のタイミングに合わせた大規模攻撃と思われます。盗難されたのは国民データの大多数と見られていますが、現在さらなる調査を進めています」
情報担当の責任者が緊迫した声で話すのを、その部屋にいたほとんどの職員はただただ唖然として聞いていた。「朝、営業時間前にお店のシャッターを開けようとしたら、お店そのものがまるごと盗まれていました」。そんな冗談みたいな話で、どう反応してよいのか分からなかったからだ。どうにかして冷静さを取り戻そうとした一人の幹部が手を挙げて、情報担当責任者に質問をした。
「極秘データは外部から独立したサーバーに保管してあるんじゃないのか? なぜ外部から接続可能なところにデータを格納していたんだ?」
やや怒気を含んだその声に、情報担当責任者はつとめて冷静に答えようとした。
「ログを調べましたが、犯人は政府専用回線を使って接続していました。統計検査院の業務データは全て外部ネットから遮断されていますが、政府回線とは繋がっているため、おそらく犯人はどこかの省庁からハッキングをしたのではないかと思われます」
「すると犯人は政府関係者ということか」
「いえ、そう決まったわけではありません。フォレストのメンバーが政府庁舎に侵入した可能性もあります。現在サイバー犯罪対策部隊が調査中です」
情報担当責任者はそう言うと、スクリーンに現在の状況と予想される被害をまとめた図を映した。それによると、盗まれたのは国民シミュレーションデータのうち個人別生涯予測データで、予定学歴、予定職歴、予定婚姻歴、予定犯罪歴、予定思想、予定疾病、予定死亡年月日など、ありとあらゆる予測シミュレーションデータが含まれていた。
スクリーン上の図表をレーザーポインターで示しながら、情報担当責任者がそれらの意味やデータ間の関係性を説明するが、会議室にいるほとんどの職員にとって、そんなデータのお話などどうでもよかった。生涯予測データが漏洩したという事実からにじみ出る、途方も無い「まずさ」。それをどこまで把握するかが、最も重要なことだった。
説明がひと通り終わった後、情報担当責任者の近くに座っていた第三検査局長が口を開いた。
「この個人別生涯予測データがテロリストの手によって一般に公開された場合、どのような被害が予測されるか、もう少し具体的に話してもらえないか」
「はい、これらは国民の小学一年生時点での検査をもとに弾きだしたシミュレーションデータです。ここにはどんな風に人生を送り、いつどのようにして死ぬのか、完璧なシミュレーションが構築されています。このデータが対象者本人の目に触れると、自分の人生を早期に知ってしまうことになりますし、予定死亡年月日まで分かってしまうと、自暴自棄になって犯罪に走ることも考えられます」
「仮にそうなったら、一体社会がどうなるのかというシミュレーションはできているのか」
「あるにはありますが、自分の将来を知ってしまった国民は、そうならないように行動しようとする可能性もありますので、その時点で統計データやシミュレーション理論は崩壊してしまいます。そこから先は予測のしようがありません。ひとつ言えるのは、人々の倫理観が劇的に変質するだろう、ということだけです」
情報担当責任者と第三検査局長が話している間、近くに座っていた第一検査局長は頭を抱えながらある書類を読んでいた。その書類は更なる極秘資料だった。そこには、これまで統計検査院が統計データや個人別生涯予測データをもとに、国民一人一人の生活をどう操作し、社会の安定を保ってきたかが書かれていた。シミュレーション結果の誤差を小さくするため、生活パターン、購入する嗜好品、学校の成績、会社への就職、他人とどう出会いどう交流するか……。それこそ人生のありとあらゆる事象を統計検査院が調整していたと発覚したらどうなるか。それこそシミュレートしてほしいものだ、と第一局長は思った。
会議が終わり、それぞれの職員が非常事態体制で持ち場に戻ったあと、事務総長はまっすぐ統計検査院長室に向かった。非常事態が起きているにも関わらず、その足取りはとても穏やかだった。表情は冷静そのもので、淡々とルーチンワークをこなす優秀な国家公務員の顔そのものだった。
統計検査院長は、革張りの大きな椅子に深々と腰掛けながら、事務総長が持ってきた報告書に目を通した。1ページ目に書かれている概要を熟読し、その下に続く数十ページの書類をざっと見た後、報告書から顔を上げて事務総長の方を向いた。
「事務総長、現場の仕事は順調に進んでいるかね」
「はい、シミュレーションどおり完璧に進んでおります。誤差はほぼゼロと言ってよいでしょう」
事務総長は無味乾燥なほど落ち着いた声で淡々と述べた。だが、統計検査院長はどうにも解せないといった顔で、事務総長に尋ねた。
「しかし、今回のハッキング事件なんだが、あれも事前にシミュレートできなかったのかね」
「もちろん、実行犯からハッキングの日時とデータに至るまで、全てシミュレート済みです」
あまりにも平然と事務総長が答えたので、統計検査院長は目を丸くした。
「ではあえてハッキングさせて盗ませたのか」
「そうです」
「となると盗まれたデータは……」
「もちろん偽物です。テロリストが侵入するであろうデータ格納庫に、あらかじめダミーの国民データを置いておきました」
何とよく出来た防犯対策だ。統計検査院長はその周到さに舌を巻いた。と同時に、一抹の不安のような予感が頭をかすめた。
よく出来た防犯対策だ。だが、あまりにも出来過ぎている。
統計検査院長はそう思いながら、事務総長にさらに尋ねた。
「だが、本物のデータが盗まれていなかったとしても、統計検査院がハッキングされたことや、ダミーとはいえデータが盗まれたことが発覚したら、それはそれで当院の信用問題に関わる。それは大丈夫なのか」
その言葉には詰問するような響きがあった。しかし、事務総長は顔色一つ変えずに返答した。
「はい、問題ありません。この事件が公になることはありません」
「しかしフォレストが暴露したらどうするんだ」
「その心配もありません」
「なぜそう言い切れる」
そこで初めて、事務総長はうっすらと笑ったような表情になった。
「ダミーデータには、『本件を公表しない方が、むしろフォレストの目標を達成することができる』という趣旨のダミーデータを紛れ込ませています。実行犯は確実にそこに目を通すはずなので、まず漏れることはないでしょう」
「つまり今回の事件では、我々は何ら真剣に動く必要がないということか」
「そのとおりです。幹部級職員たちにその事実を知らせないのも計算どおりです。結末が分かってばかりいては、誰も働いてくれませんから、こうしてたまに大きな仕事を創出しないと」
余裕とも嘲笑とも付かない笑みをたたえたまま淡々と説明する事務総長に、統計検査院長はしばし呆然となった。全て上手くいっているという説明のはずなのに、何故か途方も無い「まずさ」を感じずにはいられなかったからだ。
統計検査院長は、どうにか一旦その「まずさ」を忘れて、事務総長に聞いた。
「本当に、そんな運用で大丈夫なのか」
だが、事務総長は笑みをたたえたまま、こう答えるだけだった。
「ええ、シミュレーションは完璧ですから」
完