レモン味の飴
周りの顔色をうかがい、常にビクビクしているわたしにとって、お隣に住む秀くんは憧れの存在だ。
堂々としているし、嫌なことは嫌だとはっきり言う。強い言葉を言われれば、反論も自分の意見も言わずにただ頷くわたしとは違う。三歳しか年が離れていないのに、その大人びた雰囲気は目を引いた。
地域全体で子どもの数が少ない。兄弟がいないわたしは自然と彼のあとをヒヨコのようにくっついていた。
お兄さんができたみたいでうれしくて、「秀くん、秀くん」と何かにつけては彼の名前を呼んだ。その度に彼は面倒そうな視線を投げかけるか、「なに」と低く冷たい声を出していた。その不機嫌で話しかけるなというオーラを全開にした態度に、なぜか当時のわたしは気づかなかった。怖いもの知らずだったのだ。
遊ぼう、と声をかければ宿題も終わっていないやつとは遊ばないとにべもなく返される。もしくは友達いないのかと馬鹿にした顔で言われる。わたしの大嫌いな虫をつかまえてきては見せては、追い返されていたのにわたしは変わらず秀くんにまとわりついている。
彼はわたしの兄であり、憧れの人だ。
おどおどとしているわたしは友だちに掃除当番を押し付けられたり、何かを押し付けられるのは日常茶飯事だった。嫌だなと思っても断ることができなかったし、どう言って断ればよいのかもわからなかった。
それだけだったらまだよかったのかもしれない。友だちが影でわたしのことを「便利な人形」と言っていたのを聞いてしまった。
涙目で掃除をのろのろとやって、帰り道もうつむいてとぼとぼと歩いていたところに「おい、どうした」という声が聞こえてきた。
ああ、秀くんの声に似ているな。でも秀くんからわたしに話しかけることはあんまりないから空耳だな。
アスファルトを見つめながら考える。
「無視すんな」
後ろから頭を軽く叩かれて見上げると、本物の秀くんがいた。
「…秀、くん?」
秀くんはハッとしたように、一瞬固まった。
「どうした」
わたしはしばらく言葉を探して、結局首を横に振った。
強い秀くんならきっとその場で断って、何も気にしないだろう。友だちに嫌われようがなにされようが秀くんは気にしない。
「……あんま無理すんな」
ポンポンと頭を軽く叩かれると気が緩んだ。あっという間に視界がぼやけて、涙がこぼれ落ちた。秀くんはため息をつくとカバンの中をごそごそと探すと、レモン味の飴を差し出してきた。ちらりと見えた包装紙にかわいい文字で「秀くんへ」と書かれた付箋が目に入った。女の子からもらったもののようだ。
「……こどもじゃない、もん」
食べ物でなだめようとしていることに気づき、首を振った。
「子どもだろ」
「三歳しか、ちがわない」
「三歳違ったら十分だろ。小学生と中学生はだいぶ違うぞ。……ほら、柑橘系好きだろ」
おばさんの家になっているみかんをおすそ分けしてもらったとき、わたしのはしゃぎようを覚えていたのだろう。数年前の話なのに。
驚いて涙が止まったのを見ると、秀くんは微かに笑った。
「食べ物でつられるなら、やっぱり子どもだろ」
いつもより甘い声。ホッとしたように笑ったのは自分が泣かせたと思ったからなのか。
ほかの女の子にもらったものを食べるのが悔しくて封を切らずにいたら、秀くんがわたしの手から奪い取って封を切った。
「変なところで遠慮すんな」
そういうことじゃない。だけどそこまでされたら食べるしかない。仕方なく口に放り込んだ飴は、優しい酸っぱさで美味しかった。
川べりの土手に体育座りして、夕日にゆらめく川を見つめていた。秋の夕暮れは昼間の温度とかなり違って冷たい空気をまとっている。上着を持っていないわたしは、ふるりと肩を震わせた。
冬が来て、春が来れば秀くんはこの街からいなくなる。おばさんの話によると東京の大学に進学するということだった。
秀くんとの距離はあんまり変わっていない。基本的には面倒くさいという態度を取られるが、たまに優しい。レモン味の飴をくれたときのように。
以前に比べて、わたしは秀くんに話しかけられなくなっていた。不機嫌なトーンで返事をされると傷つく。傷つきたくないからそっと様子をうかがう。
あの堂々とした態度が同級生たちより大人びて見えるのだろう。秀くんは女の子にモテるようだった。秀くんはどの女の子も相手にしていないようだったが、いつかだれかと付き合うのではないかと気が気ではなかった。今は受験勉強でそれどころではないと言っているようだが、受験が終わったら?
東京の大学に行ったら、かわいくて頭がよくて自分の意見がはっきり言える人と付き合う? わたしの知らないだれかと恋をして、だれかにレモン味の飴をあげる?
わたしが落ち込んでいるとくれるレモン味の飴。一度に何個かもらったときは、空き缶のなかに入れて保存しておいた。缶の中はいっぱいになったけれど、もうどろどろに溶けて食べられないものが多い。
大事にしすぎて食べられなかった。
わたしのこの気持ちもそうなるのかな。
膝に顔をうずめた頃、「ここにいたのか」と秀くんの声がかかった。沈んだ顔を見られたくなくて、しばらく無言でいると苛立った声がかかる。
「またこのパターンか。無視すんな」
「……秀くん」
顔を上げると、パーカーと携帯を片手に持ち、少し苛立ったような秀くんがいた。手に持っていたパーカーをわたしの肩にかけると、携帯を操作し始めた。
「もしもし? 見つけた。落ち着いたら連れて帰る。じゃあ」
かすかに聞こえた声はおばさんだった。わたしの親が心配しておばさんに相談して、おばさんが秀くんに言ったのだろう。
秀くんはため息をつくとわたしの隣に座った。
「で、今日はどうした」
秀くんのことで悩んでいた、とは言えずいつかのように無言で首を振った。秀くんはポケットのなかからレモン味の飴を出すと、「ほら」とわたしに渡そうとした。
秀くんの手のなかにある飴をじっと見つめ、首を振る。いつもなら受け取っていたから、差し出している手が戸惑うようにゆれる。目をそらし、正面の川を見つめた。
日が落ちて、川は暗い空の色に変わっている。
「……いらない」
「なんで」
飴を受け取ったからと言って、気持ちが晴れるわけじゃない。秀くんはこの街を離れて東京に行くのだ。もう見えないところに。
無言でいると、話す気がないことが伝わったのか深いため息をつかれた。
「帰るぞ。ここにいると風邪を引く」
「……秀くん、ひとりで帰ってよいよ」
「なんでだよ」
噛み付くように言われ、ビクッとすると秀くんはわたしから目をそらして川を見つめた。
「……だれになにかされたのか。嫌なことでも言われたか」
先ほどと違って優しい声色で聞かれる。
秀くんだよ。秀くんがいなくなるからだよ。
言えない言葉が喉元までこみ上げて、吐息に消えた。視界が涙でゆらりとゆれる。
「なあ、たぶん来年の春に東京の大学に行くことになる。こんな世話のかかる妹の面倒見れなくなるんだ。少しは安心させろ」
「じゃあ行かないでよ! 妹でもなんでもよいから、行かないで!」
一息に言ってしまってから、自分の言った言葉に息を飲んだ。口をつぐんでも、今の言葉はもう取り返しがつかない。言わないでおこうと思っていたのに。
秀くんから表情が消えた。わたしの全身から血の気が引くのがわかった。秀くんがなにか言う前に、逃げてしまいたかった。混乱した頭で立ち上がって踵を返そうとすると、腕を引かれる。振り払おうとしているところに、声がかかった。
「妹だと思おうとしてた」
静かな声だった。目の前に流れる川のせせらぎのように染み入る声。
「いつもおどおどしてて自分の思ってること言えないし、気づくとだれかになにか押し付けられているし……。世話のかかる妹だと思いこもうとしてた」
抵抗しようとしていた力を抜いて、秀くんを見つめる。
「傷ついても言いたいことうまく言葉にできなくて飲み込むのも、いつか爆発しないか見ててやらないと心配だった。最初はそう思ってた」
秀くんは相変わらず川を見つめてる。
「泣くときはこうやって静かに泣いてるだろ。どこかで泣いているんじゃないかと思うともうダメだった。……自覚したら今度は、距離の取り方がわからなくなった。近所のたまに優しいお兄さんとしか思ってないだろうって。どこまで近づいてよいのかわからなくなった」
秀くんがわたしの顔をまっすぐ見上げた。別の意味でわたしの視界がゆれた。
「ずっと前から妹じゃなかった」
腕を引かれる。脱力していたわたしはそのまま彼の上に倒れこむように抱きつく形になった。
「妹じゃない」
のどが震えて、声が出せない。代わりに涙がこぼれた。
「受験してこの街を出て、距離を置こうと思ってたのに。あっさり壁壊しやがって」
秀くんの手が肩に回される。指が震えているような気がして、信じられない気持ちで彼を見る。
一度わたしの体を離して、手をとった。
「本当はずっと、この手を取りたかった。ヒヨコみたいについて回るお前の手を」
わたしの手も、秀くんの手も震えてた。
「……秀くん」
「壁、壊したのそっちだからな。覚悟しろよ」
照れ隠しのようにぶっきらぼうに言う秀くんがおかしくて、笑った。
「うん」
それからお互いに手を取って、すっかり日が暮れた道を歩いて帰った。途中で秀くんがポケットにしまったレモン味の飴を出したので、二人で分けあって食べた。
いつかのときのように、優しい酸っぱさが口に広がった。
私がレモン好きなので、レモンにしました。
よく聞くキスはレモンの味とかあのあたりとは無関係です。(笑)