同じ言葉、違う世界
その日は、特別なきっかけがあったわけじゃない。
夕食の後、
彼がテレビを消して、
「ちょっと話そうか」と言った。
その言い方は、穏やかだった。
責める気配もない。
いつもの、正しい声。
私は、頷いた。
逃げたい気持ちはなかった。
むしろ、確かめたかった。
「最近、どう?」
彼の問いは、広い。
優しい。
逃げ道も用意されている。
私は、一瞬考えてから、
正直に答えた。
「息がしづらい」
彼は、驚いた顔をした。
でも、それは心配というより、
想定外の答えを聞いた人の表情だった。
「どういう意味?」
私は言葉を探した。
感情じゃなく、
事実に近いところから。
「選ぶことが、少なくなった気がする」
「考えなくなった」
彼は、すぐに首を振った。
「それは、楽になったってことじゃない?」
否定じゃない。
解釈の上書き。
「迷わなくていいほうが、幸せだと思うよ」
その言葉を聞いた瞬間、
第八話の声が、胸の奥で微かに響いた。
――同じ言葉、違う世界。
「私は……」
続けようとして、
言葉が詰まる。
どう言っても、
彼の“正しさ”の枠に回収される予感がした。
「君、考えすぎなんだよ」
彼は、悪気なく言った。
むしろ、慰めるように。
「もっとシンプルでいい」
「僕が全部考えるから」
その瞬間、
はっきりと理解した。
彼は、助けようとしている。
でも、
助け方が、私を消す形をしている。
「私は、私で考えたい」
勇気を出して、そう言った。
彼は、少し困った顔をした。
「それが、今の君に必要かな?」
疑問形。
でも、答えは決まっている。
「君は、疲れやすいから」
「判断を任せたほうが、楽だと思う」
私は、深く息を吸った。
浅いけれど、
止めない。
「それでも」
言葉が、震えた。
「それでも、選びたい」
沈黙が落ちる。
彼は、しばらく考えてから、
ゆっくりと言った。
「君がそう言うなら、無理には止めないよ」
一瞬、安堵しかけた。
でも、
続いた言葉で、
その感覚は消えた。
「ただ、失敗しても、
後悔しないでね」
責めていない。
脅してもいない。
でも、その言葉の中には、
はっきりとした前提があった。
――失敗するのは、君だ。
私は、頷かなかった。
その夜、
同じベッドに横になりながら、
私は天井を見ていた。
彼は、いつも通り眠っている。
私は、
この人と、
同じ言葉を使って、
同じ未来を見ていない。
それが、
別れを意味するわけじゃない。
でも、
一緒に進めないという事実は、
静かに、確定していた。
胸の奥で、
もう一人の私が言った。
『ね、通じないでしょ』
私は、目を閉じた。
悲しみは、なかった。
怒りも、ない。
ただ、
出口が、
はっきりと“外”にあることを知った。
――次は、行動だ。
小さくていい。
誰にも気づかれないくらいでいい。
それでも、
それは、
私が選ぶ一歩になる。
同じ言葉でも、届かない距離がある。




