息をしているほうの私
鏡の中の私は、私より先に息をしていた。
その声は、命令でも、幻聴でもなかった。
夜、洗面所の鏡の前に立っていたとき、
ふと、視線が合った。
鏡の中の私は、
今の私より、少しだけ目が強かった。
「……誰」
声に出したつもりはなかった。
でも、その問いは、確かにそこにあった。
『私だよ』
返事は、頭の中じゃない。
胸の奥。
ずっと、塞がれていた場所から。
『息をしてるほうの』
私は、思わず鏡から目を逸らした。
見てはいけないものを見ている気がしたから。
「そんなはず、ない」
私は、ちゃんと生活している。
仕事もしている。
笑えている。
問題は、起きていない。
『問題が起きてないから、ここまで来た』
声は、淡々としていた。
感情を煽らない。
責めもしない。
それが、余計に怖かった。
『あなた、考えるのをやめたでしょ』
言い返そうとして、
言葉が出なかった。
否定できないことを、
もう知っていた。
『楽だったよね』
その言葉に、
胸の奥が、きゅっと縮む。
『選ばなくていいのは、楽だった』
『間違えなくて済むし、傷つかなくて済む』
私は、何も言えなかった。
『でもね』
声が、少しだけ低くなる。
『それ、死んでないだけ』
鏡の中の私が、
一歩、こちらに近づいた気がした。
『あなた、息を止めて生きてる』
その瞬間、
喉の奥が、ひくりと動いた。
息を吸おうとして、
うまくいかない。
『私の世界では』
その声は、
はっきりとした温度を持った。
『誰の予定も気にしない』
『誰の顔色も見ない』
『正しくなくても、選ぶ』
私は、震えた。
それは、
私が捨てたはずの世界。
『全部、あなたが選んだ』
その言葉が、
胸に突き刺さる。
誰かに救われたわけじゃない。
逃げ出したわけでもない。
『立ったの』
そう言われた瞬間、
視界が、少し滲んだ。
「……戻れない」
ようやく、声が出た。
時間は戻らない。
失ったものは、戻らない。
『知ってる』
即答だった。
『でも、戻るんじゃない』
『選び直すだけ』
私は、笑ってしまった。
そんな簡単な言葉で、
この現実を超えられるわけがない。
『簡単じゃない』
鏡の中の私が、
はっきりと首を振る。
『だから、今まで来れなかった』
沈黙が落ちる。
洗面所の明かりが、
やけに白く感じられた。
『ここにいると、消えるよ』
その言葉は、
脅しじゃなかった。
事実だった。
『でも、出るなら』
一拍、間。
『小さくでいい』
逃走でも、革命でもない。
大事件は、要らない。
『自分で決めること』
『ひとつでいい』
声は、
それだけを残して、
静かに遠ざかった。
鏡を見ると、
そこには、いつもの私が映っていた。
同じ顔。
同じ表情。
でも、
胸の奥に、
確かな違いが残っていた。
私は、ゆっくりと息を吸った。
深くはない。
でも、止まってはいない。
――選び直す。
その言葉が、
初めて、現実味を持った。
この世界は、まだ狭い。
檻は、まだある。
それでも、
出口の形だけは、はっきり見えた。




