考えないという選択
考えないことが、生き延びる方法になる夜がある。
朝、目が覚めたとき、
私は自分が何を考えていたのかを思い出せなかった。
夢を見た気はする。
けれど、内容は残っていない。
ただ、胸の奥に薄い疲労だけが残っていた。
キッチンに行くと、彼はもう起きていた。
コーヒーの香り。
いつもと同じ朝。
「おはよう」
声は自然に出た。
作ろうとしなくても、
身体が先に動く。
「今日はどうする?」
彼の問いは、
私の一日を決める合図だった。
「いつも通り」
そう答える自分を、
もう不思議だとも思わない。
考えなくていい。
選ばなくていい。
間違える可能性がない。
その楽さに、
私はいつの間にか慣れていた。
仕事中も、同じだった。
言われたことを、正確にこなす。
余計な工夫はしない。
疑問は持たない。
評価は悪くなかった。
むしろ、安定していると言われた。
「最近、迷いがないよね」
その言葉を聞いたとき、
胸の奥が、かすかに疼いた。
迷いがない。
それは、本当にいいことだろうか。
でも、その問いは、
最後まで形にならなかった。
昼休み、
何を食べたいかを考えようとして、
途中でやめた。
決まっているほうが、楽だ。
決められたほうが、安心だ。
メニューを閉じ、
無難なものを選ぶ。
味は、よく分からなかった。
夜、家に帰ると、
彼は「お疲れさま」と言って、
私の肩に手を置いた。
その手の重さを、
私は数えなかった。
数える必要がないからだ。
「最近、すごく落ち着いてるよ」
彼は嬉しそうだった。
私が正しい状態に戻ったと、
確信している顔だった。
私は、微笑んだ。
その笑顔が、
本心かどうかを確かめることも、
もうしなかった。
考えないことは、
ここで生きるための技術だった。
疑問を持たなければ、
息は浅くても、苦しくはない。
夜、ベッドに横になる。
天井を見つめながら、
私は頭の中を空にした。
――考えなければ、壊れない。
そう思った瞬間、
奥のほうで、別の声が微かに揺れた。
『それは、生きているって言わない』
でも、その声は弱い。
すぐに、静かになる。
私は、何も答えなかった。
答えなければ、
選ばなくて済む。
選ばなければ、
失うこともない。
そうやって私は、
自分を守るために、自分を薄くしていった。
呼吸は、ほとんど感じられなかった。
それでも、身体は動く。
笑顔も作れる。
問題は、何も起きていない。
――それが、いちばんの問題だということを、
このときの私は、
まだ、思い出していなかった。




