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あの恋が続いていた世界で、私は息をしていなかった  作者: さくらこ


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5/15

世界が小さくなっていたこと

それに気づいたのは、ほんの些細な瞬間だった。


昼休み、私は無意識にスマートフォンを手に取った。

誰かに連絡するつもりだったわけじゃない。

ただ、昔からの癖だ。


画面には、通知が一つもなかった。


不在着信も、メッセージも、

名前の並んだアイコンもない。

静かすぎる画面。


私は、少しだけ首を傾げた。


――こんなものだっただろうか。


記憶を辿ろうとして、途中で止まる。

いつから、こうなっていたのか分からない。

「連絡を取らなくなった」のではなく、

取るという発想自体が消えていた。


職場と家の往復。

必要最低限の会話。

予定は、彼と共有するもの。


それ以外の世界が、

まるで最初から存在しなかったみたいに。


帰り道、電車の中で、

窓に映る自分の顔を見た。


無表情。

でも、不幸そうでもない。


それが、いちばん異様だった。


「最近、落ち着いたよね」


以前、誰かにそう言われた気がする。

褒め言葉のように。

安心材料のように。


落ち着いた、という言葉の中に、

削ぎ落とされたものが含まれていることを、

そのときは考えもしなかった。


家に帰ると、彼はまだだった。

珍しい。


私はソファに座り、

部屋を見回した。


きれいに整った空間。

余計なもののない生活。


写真立てがないことに、

そのとき初めて気づいた。


友達との写真。

昔の旅行。

笑っているはずの過去。


――どこへ行ったんだろう。


捨てた記憶はない。

処分した覚えもない。


でも、

無いことに違和感を覚えない自分がいた。


その事実が、背中を冷やした。


彼が帰ってきたのは、夜遅くだった。

「ただいま」と言う声は、いつも通り。


私は立ち上がり、

「おかえり」と返す。


自然だった。

考える余地もなかった。


食事をしながら、彼が言った。


「最近、外の人付き合い減ったよね」


私は、一瞬考えてから答えた。


「そうかな」


彼は満足そうに頷く。


「そのほうが楽だと思うよ」

「無駄に消耗しなくて済む」


正論だった。

否定できない。


でも、その言葉を聞いた瞬間、

昼間のスマートフォンの画面が、

頭に浮かんだ。


誰もいない画面。

呼び出されることのない私。


私は、初めてはっきりと理解した。


これは、静かな断絶だ。


争いもない。

怒号もない。

拒絶もない。


ただ、

世界が少しずつ、彼のサイズに切り取られていった。


その夜、ベッドに横になりながら、

私は心の中で、数を数えた。


今日、

自分で決めたことは、いくつあっただろう。


服。

食事。

帰る時間。

誰に会うか。

何を考えるか。


思い浮かばなかった。


代わりに、

彼が安心する選択肢ばかりが並んだ。


息を吸う。


浅い。


でも、胸の奥で、

確かに何かが動いていた。


――この世界は、狭すぎる。


その気づきは、

声にもならず、

涙にもならず、

ただ、静かにそこにあった。


それでも私は、

まだ動かない。


動けないのではない。

動くという選択肢を、思い出していないだけだ。



世界が小さくなっていたのではない――

私が、自分から閉じていたのかもしれない。

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