君のため、という檻
「君のため」という言葉が、いちばん逃げ道を塞ぐことがある。
その日は、雨が降っていた。
窓の外は暗く、街の音が少しだけ遠かった。
彼はソファに座り、私に向かって、穏やかな声で言った。
「最近、疲れてるよね」
私は一瞬、言葉に詰まった。
疲れているかどうかを、自分で判断する前に、
彼の顔色を見てしまう。
「……そうかな」
彼は頷いた。
まるで、答えをもう知っていたみたいに。
「無理しすぎなんだと思う」
「君は、真面目だから」
責めていない。
否定もしていない。
むしろ、理解しているように見える。
「だからさ」
彼は少し間を置いた。
この“間”が、いつも正しい方向に私を運ぶ。
「余計なもの、減らしたほうがいいと思う」
余計なもの。
仕事でも、物でもないことを、
私はもう知っていた。
「人付き合いとか」
「情報とか」
「君を疲れさせるだけの世界」
雨の音が、急に大きくなった気がした。
「君には、僕がいればいい」
声は低く、優しかった。
独占ではない。
提案だ。
私は、反射的に笑った。
安心させるための笑顔。
「そうだね」
その瞬間、
胸の奥で何かが、静かに閉じた。
彼は満足そうだった。
私を守れたと思っている顔だった。
「君のためだから」
その言葉を聞いたとき、
私は初めて、完全に息ができなくなった。
苦しい、ではない。
怖い、でもない。
――世界が、私一人分になった。
その夜、ベッドに入っても眠れなかった。
暗闇の中で、
別の声が、はっきりと響いた。
『それは、愛じゃない』
心の奥。
もう一人の私。
『選択肢を奪うものは、どんな言葉を使っても檻だ』
涙は出なかった。
ただ、理解してしまった。
この世界では、
私は守られている代わりに、
消えていく。
それでも彼は、
私が壊れかけていることに気づかない。
――それが、いちばん残酷だった。
檻は、鍵が見えないまま閉まる。




