正しいことしか言わない人
優しさの中にある違和感は、声にしにくい。
その違和感は、とても些細なところから始まった。
夕方、彼からメッセージが届いた。
「今日は早く帰れそう?」
文面はいつも通りだった。
絵文字も、感嘆符もない。
急かしているわけでも、疑っているわけでもない。
私は画面を見つめながら、数秒だけ指を止めた。
――本当は、まだ帰りたくなかった。
理由はない。
ただ、この世界の“彼のいる空間”に戻ると、
呼吸が浅くなることを、身体が覚え始めていた。
「少し遅くなる」
そう打ってから、送信する前に一度消した。
代わりに、
「いつもより30分くらい遅い」
と書き直す。
なぜ、書き直したのか。
その理由を考えた瞬間、胸の奥が冷えた。
――説明しないといけない気がしたからだ。
帰宅すると、彼はキッチンに立っていた。
エプロン姿。
鍋の中身をかき混ぜながら、振り返る。
「おかえり」
その声は、穏やかだった。
責める色は一切ない。
「今日は遅かったね」
ただの事実確認。
ただの言葉。
それなのに、私は条件反射のように答えていた。
「仕事がちょっと長引いて」
聞かれていない説明を、
自分から差し出していることに気づいたのは、
言い終わったあとだった。
彼は「そっか」と頷いて、
「無理しないでね」と続けた。
――正しい。
あまりにも正しい。
食事の間も、会話は穏やかだった。
今日あった出来事。
ニュースの話題。
他愛もないやりとり。
けれど、私はずっと、
自分の言葉を半歩引いた場所から選んでいた。
これは言っていい。
これは言わないほうがいい。
これは、彼が気にしそうだからやめておく。
彼は、何も強要していない。
禁止も、命令もしていない。
それなのに――
私の選択肢は、いつの間にか彼の内側で決まっていた。
食後、ソファに並んで座ったとき、
彼が何気なく言った。
「最近、雰囲気変わったよね」
心臓が、一拍遅れて鳴った。
「悪い意味じゃないよ」と、すぐに続ける。
「前より落ち着いたっていうか。
余計なこと考えなくなった感じ」
余計なこと。
その言葉が、頭の中で反響する。
彼は微笑んでいた。
安心したような顔で。
まるで、正しい方向に修正された私を見ているみたいに。
その瞬間、はっきりと理解した。
彼は、
私が息をしていないことに、気づいていない。
それどころか、
息をしていない私のほうが、
“いい状態”だと思っている。
怖い、と思った。
怒鳴られたわけでもない。
束縛されたわけでもない。
否定されたわけでもない。
ただ、
私が薄くなっていくことを、
良い変化だと信じているその目が。
「大丈夫?」
彼の手が、私の肩に触れる。
優しい温度。
私は頷いた。
この世界の私が、自然にやってきた動作。
でも、心の奥で、
もう一人の私がはっきりと言った。
――ここにいたら、消える。
その夜、眠りにつく直前、
胸いっぱいに息を吸おうとして、やめた。
吸えないのではない。
吸ってはいけない気がした。
その感覚が、
この世界でいちばん怖いものだった。
正しい言葉ほど、ほどけにくい。




