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あの恋が続いていた世界で、私は息をしていなかった  作者: さくらこ


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2/15

呼吸のない世界

ここでは、呼吸さえも「いつも通り」にならない。


呼吸のない世界で、記憶だけが先に息をした


その日、私は仕事へ向かう準備をしながら、何度も時計を確認していた。

遅刻しそうなわけでも、約束があるわけでもない。

ただ、この家に長く居すぎると、身体の内側が削れていく気がした。


玄関で靴を履くとき、彼が声をかけた。

「帰り、遅くなる?」


まただ、と思った。

責める口調じゃない。

疑ってもいない。

ただの確認。


それなのに私は、一瞬で答えを選別する。

彼が安心する時間。

彼の予定に支障のない範囲。

彼が不機嫌にならない言い方。


「少しだけ、遅いかも」


彼は「そっか」と笑って、鍵を渡してきた。

その指が、私の手に触れる。


――その瞬間。


息が止まった。


本当に、物理的に。

空気はあるのに、肺が動かない。

世界が一拍、遅れて再生される。


「……大丈夫?」


彼の声が遠い。

私は頷こうとして、うまく首が動かせなかった。


そのとき、突然、別の記憶が流れ込んできた。


一人で歩く朝。

少し冷たい空気。

誰にも行き先を説明しなくていい自由。

深く息を吸って、「今日も生きてる」と思えた感覚。


あまりにも鮮明で、

あまりにも、私のものだった。


「……大丈夫だよ」


口から出た声は、この世界の私のものだった。

慣れた言い方。

慣れた笑顔。


でも、心のどこかで、確信していた。


これは、この世界の記憶じゃない。


外に出ると、街はいつも通りだった。

電車も、人も、広告も。

何ひとつ変わらない。


変わったのは、私の呼吸だけ。


電車の窓に映る自分を見て、違和感がはっきりした。

この世界の私は、きれいだ。

整っている。

でも――軽さがない。


生きるための余白が、どこにもない。


職場に着いても、同じだった。

仕事は問題なくこなせる。

会話も成立する。

誰も私を心配しない。


それが、いちばん怖かった。


昼休み、スマートフォンを開いたとき、

見覚えのないメモが残っていることに気づいた。


「息ができる世界を、忘れないで」


いつ書いたのか、思い出せない。

けれど、その一文を読んだ瞬間、

胸の奥が、ほんの少しだけ広がった。


私は、ここに“迷い込んだ”わけじゃない。

きっと――

来てしまったのだ。


選ばなかった世界に。


帰れるかどうかは分からない。


“選び続けていたら、辿り着いていた未来に”


でも、このままではいられないことだけは、分かる。


私は、スマートフォンを握りしめて、小さく息を吸った。


浅い。

まだ、足りない。


それでも、その呼吸は、

確かに「始まり」の音がしていた。



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